169.二本松香織(1)
二本松香織はその年の大晦日の夜を事務所で過ごした。
「おはよう、アビー。流石にもう届いたと思うのだけどどうかしら?」
広大な太平洋の底を海底ケーブルで潜り、その後も大陸を横断した先から届く声にはさすがに時間差を感じる。
「ええ、昨夕着いたわよ。おかげで New Year's Eve のこんな朝っぱらからオフィスに向かってる途中なの。CEOのサインをもらうためにね」
アビーが顔を出さないのは、遅延だけではなくて、おそらくハンズフリーで運転中なのだろうと香織は考えた。
IT企業というとシリコンバレーなど西海岸に多いけれど、当然東海岸に拠点を置いている会社もある。アメリカ、いや世界でも有数のプラットフォーマーであるプラスドクリップもそのひとつだ。
香織はちらりとテレビを見る。音は消しているのではっきりとはわからないが、和服を着た千夜が、次の紅組の歌手の紹介をしているようだ。日本ではあと3時間足らずで新しい年を迎えようとしている。
だがニューヨークはまだ朝の7時。アビーはプラスドクリップの幹部で、午後から出勤することの方が多いと聞いている。だからこんな時間に会社に行くことはあまりないだろう。
「で、そのCEOはいつ出社されるの?」
「朝一番でサインが欲しいと伝えているわ。会社に着いたら、サイン済の契約書が私のデスクにあっても驚かないわね」
そう言えば以前にも、プラスドクリップのCEOは普段はリモートで働いており、めったに会社に来ないけれど、来るときは朝早く着て昼に帰ってしまうという噂を聞いたことがある。先ほどのアビーの発言から考えても、それは本当のことなのだろう。
「よかったわ。リーガルチェックが思ったより時間がかかったから一時はどうなるかと思ったけど、これなら予定通りプレスリリースできるわね。じゃあCEOのサインをもらえたら連絡してね」
鎌田プロダクションとプラスドクリップ社は今回直接契約をしている。これまでのCMでは間にアメリカの広告代理店が入っていた。プラスドクリップ社と広告代理店とが契約し、鎌プロはその下請けという扱いだ。テイラー証券の場合も、イギリスにある世界最大の広告代理店が間に入っている。
今回はCMとは違うので、鎌プロとプラスドクリップ社は直接契約を結ぶ必要があった。以前から鎌プロは海外のアーチストのマネジメント会社と契約したことは何度もある。そして海外の広告代理店と契約することも、無いわけではない。最近は千夜のせいでそういった海外との契約が増えているのでノウハウも蓄積されている。だが一般企業と契約することはほとんどないので、信頼できる外部の法律事務所に入念なチェックをお願いした。それで時間がかかった。
さらに言えば、電子契約でないこと。アメリカのIT企業が相手だから電子契約を使うのだろうと思っていたが、意外なことに書面での契約だった。
『耳が痛いけど、ステイツだと企業間の契約はまだ紙面が普通ね』
準備期間中にアビーがそう言っていたのを思い出す。あの国は列の最先端を走っているくせに、一方で妙に頑固だと思う。ヤード・ポンド法と華氏表記は早く辞めて欲しいと香織は思う。
アビーは運転しながらだと思うので、事故にならないように香織は早めに電話を切った。そして無音にしたままのテレビを見ると、歌い終わった歌手に対して手を叩く千夜の姿がアップで映っていた。
あの時新宿で彼女を見つけてから、まだ4年も経っていない。シンデレラドリーム。そんな言葉があるように、ある日いきなり有名人になる場合もあるし、逆に落ちぶれることもある。舞鶴千夜の場合はそこまで極端ではない。最初は下積みだったけれど、一度露出し始めるとそれが止まらない。香織自身も手を貸しはしたが、まさかこの事務所からグラマフ賞の受賞者が出るとはスカウトした香織自身も思わなかった。それに将棋で四段になるとも思っていなかった。正直すぐやめるだろうと思っていたが、現在はそちらでも活躍を続けている。
香織が初めて「舞鶴千夜」を新宿の街角で見つけた時、天啓のようなものが香織に舞い降りた。まず外見が恐ろしく整っていた。ダブダブの男物の服装も、20世紀のマンガに出てきそうな黒縁眼鏡も、ボサボサの髪もあまりにもダサい。だがそれは彼女自身が狙っていることだと言うのは一目でわかる。
普通の人にはわからないかもしれないが、大手芸能事務所で要職に就いている香織にはわかる。そして彼女は表情から明らかに落ち込んでいるにも関わらず、その姿勢はまっすぐ凛と立っている。もしかしたらモノになるかもしれない。
香織は少し迷った。もし自分がスカウト担当なら迷わず声を掛けに行く。何人ものタレント候補たちに断られても新たな原石を見つけるのが彼らの仕事だからだ。
だが香織に課せられた職務は違う。だが彼女を見逃してよいものか……だが香織が考えるよりも早く、香織の脚が動き出し口が勝手に開いた。
『ねえあなた、芸能界に興味ない?』
芸能界は水物だ。彼女が成功するだろうという確信と、そうなればいいなという願望を込めて、香織は彼女に声を掛けた。