164.日本歌勝負(5)
廊下を引き返しながら千夜は考える。
先ほどの廊下での一連のやり取りも一言一句台本通りだ。臨場感を上手く出せただろうか?
実際にプレッシャーを感じているかというとそうでもない。多少の時間調整はあるかもしれないけれど、基本アドリブ禁止の舞台のようなもの。ここにいる芸能人の人はみんなそうではないだろうか。多分千夜よりも場数を踏んでいる人が多いはずだ。
問題があるとすると……櫛木さんかなあ。櫛木さんも公開対局は何度もしている。最近では竜帝戦の第1局がそうだった。静香は大盤解説はまだ滝山絹江杯でやっただけだけど、櫛木さんは大盤解説もテレビ解説もしているらしい。それに竜帝になってからは取材がものすごく増えたという。
とは言え、客層が違うからな。千夜は時間を確かめて、まだ余裕があることを確認すると、メインホールへ向かう前に踵を返し、審査員の控室に向かった。千夜は紅組司会だからかなりホールに近い場所に控室がある。よって他の人の控室に行こうとすると、当然ながらホールから遠ざかることになる。こうして廊下を歩いている間にもいろんな人に出会うので、ひっきりなしに挨拶を交わす。
「こんばんは」
「おはようございます」
芸能界の挨拶は基本『おはようございます』だけど千夜はそのあたり、一般の感覚で挨拶をしている。審査員は10人、男女同数の5人ずつ。そしてその5人に一部屋の控室が割り当てられている。大部屋とは言え、数十人でシェアしているところもあるので、まだ恵まれているほうだ。とはいえ審査員の中には横綱やスポーツ選手がいるので、部屋が狭く感じる。
「皆さまこんばんは」
そう言って控室に入ると隅の方に櫛木さんがいた。周りに千夜(172cm)よりも縦横奥行きすべてが大きな人が多いので、櫛木さんがとっても小さく見える。
バラエティ番組で一緒になったことがある野球選手から声を掛けられる。
「千夜ちゃん。まだホールに行かなくて大丈夫なん? 僕らもそろそろネクストバッターズサークルへ行かなあかんねんで?」
野球選手らしい表現に、千夜も笑って答える。
「そうなんですけどね。ちょっと心配事がありまして……櫛木さん大丈夫?」
「ちょっと緊張してます」
心なしか顔も少し青い。まあやっぱりそうか。将棋界で人前に出ることはもちろん多いのだけど、周囲にも棋士とか将棋関係者が多い。取材も顔見知りの将棋記者だったり、観客も将棋好きの人たちだ。いわば棋士にとってホーム。ここは客層も普段と違うから完全アウェイだよね。
「まあ将棋好きの人がいつもより少ないかもしれないけど、お客さんはお客さんだから、後は私との対局を考えておいて。じゃあね」
普通なら連盟の人かご両親かが横に着くべきだと思うが、この混雑具合ではなかなか他に人を入れられない。それでも流石に中学生には、という話も出たのだが、櫛木さん自身が断ったのだという。まあ客席にご両親がいらっしゃるらしいので、帰りは安心だと思う。
それだけ声をかけて静香は審査員控室を出た。まあ走る必要はないけれど、早歩きぐらいはした方がいいだろう。
いろんな人と挨拶をかわしながら、千夜は今度こそホールへと向かった。
「あっ舞鶴さん。ニュースの後こちらにいらっしゃらなかったので、今探しに行こうとしてたところです」
ホールに戻る直前でスタッフに声をかけられた。
「すいません。ちょっと審査員の将棋仲間が気になったので」
「ああ、櫛木先生ですね。確かに舞鶴さん以外に知り合いもいないでしょうから心配ですよね」
そうなんですよね、と言いながらおそらくこのスタッフと千夜が心配していることは違うだろうなあと思った。スタッフさんは余興の時間限定将棋を心配しているのだろう。千夜は櫛木さんの審査委員を心配している。興味のないエンタメは見ずに、その間は脳内将棋でもして時間を潰し、最後は千夜がいる紅組に票を入れればいいのに。多分真面目にずっと舞台を見て、どちらに票をいれるか考えたりするんだろうなあ、と。
ホールに戻ると、千夜が休んでいる間にあったことが簡単に伝えられる。どこかのグループに体調不良の子がいるとか、他のアーチストで連絡がつかない人がいるとか、いろんな情報を聞く。まあ、うろうろしている間も付けっぱなしのインカムで知っていたことばかりだけど。
その後司会者陣とスタッフ陣で行われる最終打ち合わせが始まる。
「千夜ちゃんはこういうの初めてだと思うけど緊張しないでリラックスしていこう」
「はい、ありがとうございます。でも皆さんが作ってくださった台本があるので大丈夫です」
千夜が司会を務めたのは将棋関係しかない。この歌勝負には司会は複数人いるので千夜ひとりに負担がかかっているわけでは無いとはいえ、こんな大舞台で司会を任されるのはもちろん初めてだ。
だが正直緊張はあまりしていない。基本的にこの台本通りに進めればいいのだから、まあお芝居のようなものだ。問題はハプニングが起きた場合であって、そうなって初めて千夜がアドリブを入れる要素が出て来る。
折角のこのような大舞台。もう二度とないかもしれない。そこでアドリブをしてみたいような気もするが、やはり何事も起きないのが一番だと千夜は思い直した。