158.ブルースの女王(3)
静香は『Baby Won't You Please Come Home』を歌い始める。前回、高校の文化祭では全然聴衆に響かなかった。あの時とは自分もステージも観客も違う。同じなのは学校のイベントということ、本名でステージに立っていること、そして手元にある相棒があの時よりも前から使っているRR-38ということだけだ。
Nevermore to call your name.
When you left you broke my heart,
That will never make us part.
観客のノリがいい。どうして? みんな動画で静香がこの曲を高校時代に歌ったことを知っているから?
Baby, won't you please come home?
I need money.
Baby, won't you please come home?
違う。静香ではなくて、千夜が有名になったからだ。千夜が上手くなったからだ。だから普段ブルースを聞かないような観客相手にでも、聞き続けてもらうことができる。そしてその素晴らしさを伝えられるだけの技量が身に着いたからだ。そのことに静香は気が付いた。
「次は3組らしくですね、John P. Ordway 作詞作曲、李叔同訳詞の『送別』を歌います。日本では『旅愁』というタイトルで知られていますがその中国語版です。メロディは誰もが知っていると思いますよ?」
西風起,秋漸深,秋容動客心
獨身惆悵嘆飄零,寒光照孤影
憶故土,思故人,高堂會雙親
鄉路迢迢何處尋,覺來夢斷心
これまでいっぱい歌を歌ってきた。いっぱい曲を弾いた。それらがすべて千夜の力になっている。千夜は上手くなった。歌だけじゃない。ギターやベースを演奏するだけでもない。MCで人を傷つけることなく笑わせることができる。時間の使い方も喉の休め方も、力の強弱のメリハリも上手くなった。
「歌っていても、とても懐かしい気がしますよね。この曲が作られた母国、アメリカではもう忘れ去られて久しい曲なのに、日本人や中国人にはまるで自国の曲の用に愛されている、というのもとてもドラマ性があります」
デビュー曲を書いてくれた大蔵先生。バックダンサーをさせてくれたレモンピクシーズ。女中役をくれた劇団。今も共演している由美ちゃん。積極的に曲を提供してくれたスタンリー=ブラウン。一緒のフェスに出てミュージカル映画でも共演したケイトリン。チェスで負けて曲を書いてくれたジェームス・アルトシュラー、ローガン=パーキンス。そして明石さん始め鎌プロのみんな。
「それでは次の曲ですが、私の喉休めも兼ねさせて頂いて、ボーカルなしのギターソロを弾かせて頂きます。スペイン人ピアニストの Isaac Albeniz が作曲した『Astrias』です。ピアニストが作曲したので当然元々はピアノ曲だったんですけど、今日ではアコースティックギターの曲、というイメージの方が強いかもしれませんね。それではお聞きください」
通常よりもテンポを上げて弾く。それでも哀愁漂うこの曲を心を込めて弾く。これも千夜の曲じゃないし、ボーカルレスだし、途中で音がとても少なくなるところもあるけれど、観客が熱心に聞いてくれているのが伝わって来る。
そして途中からどんどんアレンジしていく。初めは演奏開始前に考えていたアレンジだったのに、脳が勝手に新しいメロディを紡ぎ始める。指が勝手にこれまでなかった音楽を奏で始める。ああ、もうこれはアレンジじゃなくて別の曲になってしまっている。戻らないといけないのに戻れない。「千夜」は今、これまで誰も演奏したことのない新しい曲を作っている。演奏中は静かに聞き、そして弾き終わった後には万雷の拍手を浴びた。
学生だけじゃない、受験の下見だけじゃない、おそらくここにはこの舞鶴千夜(このステージは本名で活動中だけど)のコンサートを見るためだけに、ここにきてくれたファンの人たちを含め、数えきれない多くの人が千夜の背中を推し、千夜を上手く、強くしてくれた。そしてそれはこれからもまだまだ続くだろう。舞鶴千夜はまだまだもっと上手く、魅力的になることができる。
じゃあ天道静香は?
最近まで天道静香は若手では一番強いと思われていた。だが今は櫛木さんの方が評価が高いだろう。そして若手という枠を外せば当然御厨先生や、海老沢先生、月影先生を始めとする先生方の方が強い。
静香はこれからどこまで強くなれるのだろう。どこまで高いところに行けるのだろう。そう思いながら静香は歌う、弾く。そして最後の曲に到る。
「次で最後の曲になります。もう18時の閉会時間が過ぎているので、このまま歌いますね。舞鶴千夜で『Everything is forgettable』」
ああ歌うのが楽しい。MCするのも、演技するのも楽しい。なんやかんや言って静香はスポットライトを浴びるのが大好きなのだということに気が付いた。いや大好きになったのか。これからもずっと浴び続けたい。
これが最後で、アンコールもないので、この曲もどんどんアレンジする。新しいメロディが頭に浮かんでくるけど、多分期待している人も多いから、過度のアレンジは抑えて暴走しないようにする。最後のサビのリフレインが終わり、静香は客席に深く礼をした。
Bessie Smith の「Baby Won't You Please Come Home」は Charles Warfield(1878~1955)と Clarence Williams(1893~1965)の共作(異説あり)
また「送別」の原曲 「Dreaming of Home and Mother」の作詞作曲はJohn P. Ordway(1824~1880)、これを「送別」へと中国語訳詞は李叔同(1880年~1942)、日本語版「旅愁」への訳詞は犬童球渓(1879年~1943年)です。
これらはいずれも改正前著作権(50年)の対象で著作権は失効しています。なお日本語版「旅愁」(犬童球渓)これは誰もが知っている曲だと思います。
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む
恋しや故郷 懐かし父母
夢路にたどるは 故郷の家路
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む
窓うつ嵐に 夢も破れ
遥けき彼方に 心迷う
恋しや故郷 懐かし父母
思いに浮かぶは 杜の梢
窓うつ嵐に 夢も破れ
遥けき彼方に 心迷う
なお、John P. Ordwayの原曲の歌詞はこちらです。
Dreaming of home,dear old home!
Home of my childhood and mother;
Oft when I wake 'tis sweet to find,
I've been dreaming of home and mother;
Home,Dear home,childhood happy home,
When I played with sister and with brother,
'Twas the sweetest joy when we did roam,
Over hill and thro' dale with mother,
Dreaming of home,dear old home,
Home of my childhood and mother;
Oft when I wake 'tis sweet to find,
I've been dreaming of home and mother,
Sleep balmy sleep,close mine eyes,
Keep me still thinking of mother;
Hark! 'tis her voice I seem to hear.
Yes,I'm dreaming of home and mother.
Angels come,soothing me to rest,
I can feel their presence and none other;
For they sweetly say I shall be blest;
With bright visions of home and mother.
Childhood has come,come again,
Sleeping I see my dear mother;
See her loved form beside me kneel
While I'm dreaming of home and mother.
Mother dear,whisper to me now,
Tell me of my sister and my brother;
Now I feel thy hand upon my brow,
Yes,I'm dreaming of home and mother.
本編でもかきましたが、原曲の存在はアメリカではほとんど忘れられているそうですが、John P. Ordwayは医師でもあり、音楽家でもありました。クリスマスソングとしてあまりにも有名な「ジングルベル」の原曲は彼に捧げられたものです。
千夜が歌った中国語版「送別」の訳詞者李叔同は、東京音楽学校に留学していたため、日本語版の「郷愁」をさらに訳したものと想定されています。
作詞作曲された原曲はアメリカで忘れられ、日本や中国では誰もが知っている曲であり、2022年の北京五輪の閉会式でも用いられています。
なお「Astrias」の作曲者は Isaac Albeniz(1860-1909) です。インストゥルメンタルですが一応。