150.鬼殺し(1)
10月、11月と静香は女流のタイトルマッチが続く。そのうちの2つは大沼二冠の持つタイトルへの挑戦だ。10月の頭から女流玉将、10月の末から女流王者、そして11月の頭から始まる所沢秋桜の3タイトルの番勝負のスケジュールが重なってしまう。
それは昨年の大沼二冠とまったく同じ状況に静香もあるということ。つまり女流王者のタイトルを守りながら、女流玉将と所沢桜花を狙うという立場だ。大沼二冠の場合、女流王者の防衛は出来なかったが、女流玉将と所沢桜花は奪った。
そして女流王者で静香に挑んでくるのは向田雪女流四段、静香のプロデビュー戦となった、元女子オープン女王だ。
それと同時に年明けから始まる女流名人への挑戦を賭けたリーグ戦も行われている。当たり前だけど、このリーグには女流のトップ選手しかいないので、まったく息をつく暇もない。
このように秋は女流のタイトルが関連する対局が多いのだけれど、一方で通常の棋戦も静香は対局をこなす必要がある。
それもいきなりクライマックスがこれから始まる、御厨先生との星雲戦決勝だ。星雲戦も公共放送杯と同じようにテレビ対局なので、持ち時間が非常に短い。つまり静香に有利な土俵だ。
その地形効果をいかに有利に使えるか、というのがもちろん勝敗のポイントになる。短期棋戦での静香の勝ちパターン、先に相手に時間を使わせて時間攻めする。これについては、もうおそらく全棋士の知るところで、対策法は明らかだけど、案外それを実現するのは難しい。
対策法は強力な研究手を用意しておいて、静香に余計に時間を使わせることだ。だが静香は居飛車も指すが振り飛車も指す。相居飛車でも、横歩取り、角換わり、相掛かり、なんでも指すし、そう見せかけて変則な力戦に走ることも多い。つまり序盤で研究手に誘い込むのが難しい相手だと「思わせて」いる。「思わせている」というのは、本当は違うというわけでは無くて、そういう印象を与えるように普段からいろんな手を指しているということだ。
そして序盤で多少不利になっても、終盤で時間攻めをして逆転する。棋士というものは、盤面が読めていないにも関わらず手を指すことを当然嫌う。例外は定跡が定まっている序盤の最初と、秒読みが始まってからだ。
だから今の所この勝ちパターンが、短期戦であれば成立する。静香が短期戦に強いのは元々あるけれど、大学に入ってから夏学期の間、毎週短時間とは言え、講義の空き時間に将棋部に顔を出して、多面指しをしていたのもその強化に繋がっていると考えている。
だが、相手は御厨先生。持ち時間の長い棋戦にも強いけれど、短い棋戦でもやはり強い。
隙があるとすると、静香が女流のタイトルマッチを抱えているように御厨先生も棋戦のタイトルマッチの真っ最中。それも竜帝戦という二大タイトルの片方だ。さらに言えば初戦を先手番で落としており、第2局の前夜祭を明後日に控えているという状況だ。今日ここで静香が勝てば、静香の同期でもある挑戦者の櫛木さんへのアシストにもなると思う。
そして大事な大事な振駒。
もし先手を取れたら居飛車が基本。後手なら振り飛車が基本。もちろん状況に応じて変更するけれど、基本はそうすると静香は決めている。できれば戦型を決めやすい先手を取りたい。
振駒は「と金」が3枚で静香が先手となった。幸先が良い。
「よろしくお願いします」
お互いに挨拶をして、初手は互いに角道を開ける。3手目で居飛車決定の2六歩。ここで御厨先生は3三桂と跳ねた。後手鬼殺し? えっこれで局面が成立するような新手があるの?
鬼殺しというのは先手で行う奇襲、いわゆる嵌め手のひとつだ。対応の仕方を知らないとあっという間に敗勢に追いやられてしまう。いわゆる初心者殺しの手だが、ちゃんと正しい対応方法を知っていれば怖くはない。しかも後手だ。後手で鬼殺しをする手順もなくはないが、プロの公式戦では相当少ないのではないかな。
静香が対応方法を知らないとは当然御厨先生も思っていないだろう。かなり強引で無謀な一手だと思う。
静香は飛車先の歩を進めると、6手目は5二飛だった。中飛車? 御厨先生の振り飛車っていつ以来? しかも鬼殺しの出だし。明らかに研究されているはずだけど、この時点でソフトで検討したら、現時点で既に静香が有利のはずだ。とりあえず真ん中をケアしなければならないがどれで上がる? 静香は10秒ほど使って4八銀、御厨先生はノータイムで4二銀。
えっと次は3六歩で相手のあがった桂馬に合わせて自分も桂馬を上げる準備をするか、それとも他の駒も上げるかだ。静香はやはり10秒ほど使って、6八玉。御厨先生はノータイムで6二玉。形はこちらがいいはずなんだけど、だからこそ、その優位を失いたくないと思ってしまう。そして御厨先生の研究手がなになのかは今の所さっぱりわからない。
そう来たか。静香は少し考えた。このままではいけない。普段の自分を取り戻さないと勝つことはできない。