141.夏休み(7)
クルーザーは朝日に照らされた紺碧のアドリア海を駆ける。だが千夜はその絶景を見ずに船室に閉じこもって、アコベの最後の練習をしていた。
破魔矢さんに作ってもらった文字通りの一品物、フルアコースティック6弦ベース、ABC-86。ABはアコースティックベース、Cは千夜の頭文字から来ているという。86という数字は、千夜がライブ用に使っているアコースティックギターのRR-86と同等ということを示すだけであまり意味はない。
凄く無理して作ってくれたのだろうな、と千夜は思う。そもそもベースミュージックの祭典とは言え、千夜にもベースミュージックを要求されて呼ばれたわけではない。幅広い音楽をやりたい、という主催者の意図も聞いている。実際ギターの代わりにベースで弾き語りをしても、それがベースミュージックと言えるかというとそういうわけでもない。
もっと話を戻すと、千夜は来年の初夏にイギリスの巨大フェスのヘッドライナーが内定している。ヘッドライナーは要するにフェスの主役であって、大抵の場合は最後に演奏する。
いきなり最大級のフェスで主役を務めるよりも前に、今回、一度ヨーロッパの音楽フェスを経験させておきたい、というもので、たまたまちょうどよい日程と場所で開かれるフェスがこの『アウトスタンドフェス』だったというのが千夜側の事情で、正直他の出演者とは音楽性が全然違っていて正直浮いていると思う。
一方フェスの主催者からみたら、やはり半年前のグラマフのメジャータイトルを総なめにし、世界中でアルバムは売れているけど、ライブ数は極めて少ないミュージシャンの、ヨーロッパ初ライブというのは美味しい。そういう両者の思惑がぶつかったことによるものだ。
だから、普通にまあ、それなりに売れ行きの良い曲を歌っても、それなりに受け入れられるとは思う。だがそれでも、千夜はアコースティックベース、アコベでこのフェスに出たいと思った。
ところが破魔矢様は普通のエレキベースは作っているが、アコベを作っていない。理由はたくさんある。通常アコベは音が小さくなる。同じ弦楽器のバイオリンとコントラバスの大きさを想像して欲しい。高い音のバイオリンはあの大きさで、協奏曲の場合はオーケストラをバックにソリストとして主役を張ることができる。だがチェロだと座って弾く大きさになる。そして、かなり少ないがコントラバスの協奏曲だと立たないと演奏できない大きさの楽器になる。
なお日本においてジャズやクラッシックで使われているコントラバスは182cmのものが多い。これだって本来の190cmのものを日本人用に小さくしたものだ。
ましてやそれをコントラバスのように縦置きでは無くて、ギターのように横で持とうとすると、例えロングスケールのものでもそれでも大きさは小さくせざるを得ないわけで……そうすると生音じゃなくてアンプを使わないと観客に聞こえないわけで……じゃあ、エレキベースでいいよね。というのが当然の発想だ。
だが、千夜はアコースティックに拘った。だってそっちの音の方が好きなんだもの。だからといってスポンサー様以外の楽器を使うのはねえ、というところで破魔矢様が千夜専用に作ってくれたのがこのABC-86だ。できるだけ生音を大きくするために、センターブロックを除いたフルアコ。そして素材も希少なアディロンダックスプルースを用いており、サイズもロングスケールかつギタロン程ではないが、普通のアコギよりも一回りは長くて分厚い。
当然重い。さらに弦はアコギと同じフォスファーブロンズを使っているが、弦が長いので張力が強いのでできればピックを使うべきだけど、千夜は素手で弾く。
そしてベースは普通4本の弦があるが、ABC-86はギターと同じ6弦。4弦のベースよりも音域が下の弦と、上の弦が一本ずつ多い。まあエレキギターだと、単弦もしくは複弦で12弦なんていうのもあるから。まあそれほど変ではないと思う。
結果、生音でもアコギに負けない音量と、当然低音域ではあるが広い音域を持つという、世界でも唯一無二のアコベが出来た。
そして当たり前のことだけど、これまでやる人が少ない、というのは当然デメリットが大きいということだ。
最大のデメリットとしては生音を大きくすると、アンプを通した場合にボディが共鳴し、その結果としてハウリングを非常に起こしやすい、というものすごく大きな問題がある。この問題があるため、千夜はジュネーブではこのアコベを使わなかった。
マイク、この場合アコギやアコベに着けるピックアップが、奏でた音を拾ってくれる。ここまでは良いのだが、そのピックアップがスピーカーから出る音まで拾ってしまい、同じ音が繰り返されてしまうことがある。即ちハウリングだ。
意外かもしれないが、ハウリングは低音程発生しやすい。わざわざ生音が大きく出るように作られたアコベにピックアップをつけてライブに使う、なんていうのは、ちょっとしたことでハウリングが発生してしまうという、PA(Public Address)さん、つまり音響屋さんを泣かせるために作られたような楽器だ。
だからスピーカーから離れる、自分たちの音を聞くためのモニタースピーカーも切るなどの基本はもちろん必要。
ピックアップをボディの中の大きな空気音を拾うコンデンサーマイクを使わずに、弦の音を拾うマグネティックピックアップに変えるという方法もあるけど、それはそれで本末転倒な気がする。
一通り弾き終わると、クルーザーの同乗者、ケイトリン=オブライエンから拍手を頂いた。