140.夏休み(6)
4日間の『ヨーロッパ将棋選手権』が終わり、関係者のみなさんへの挨拶が終わると静香はベネチアに戻った。田丸さんとひかりさんを含む日本から来た関係者は、片道4時間以上かけて、マッターホルンが良く見える展望台まで行くらしいのでジュネーブでお別れした。
そして千夜はジュネーブの空港に向かう途中に、ジョシュ=オースターからメッセージを受け取った。千夜たちが9月の後半を共にする監督、ナタリア=ブラスキが昨日の夜に映画祭の会場に着いたので、早速会えないかと言っているとのことだ。千夜はもちろん大丈夫だと返した。
明後日には千夜はクロアチアに行くことになるので、できる事は早めにやっておいた方が良いに決まっている。誰もが忙しいから、クロアチアから帰ってきたら関係者にはもう他の用事が入ることだってあり得るからだ。
どうやら即席の記者会見になるらしいので、ビジネスジェットの中でヘアドレッサーに髪を丁寧に整えてもらった。ベネチア空港からのクルーザーの中でルイッチから供与されている派手な衣装に着替えた。ヘアドレッサーとスタイリスト、彼らが天道静香を舞鶴千夜にする。千夜がリド島の指定された小ホールに向かうと、そこには随分多くの人がいた。
監督が来る前から下準備は進めてあったから、千夜がOKしてから一気に準備したのだろう。この場はこれから撮影される映画のキャストの顔合わせの場から、映画の宣伝の場へと変更されたのだろう。千夜がその部屋に入ると多くのカメラが向けられたので、千夜は深くお辞儀をした。
そして小ホールの前方に設けられた記者会見席に行くと、そこには懐かしい顔があった。
「ケイト?」
ケイトリン=オブライエン、グラマフ賞の授賞式で千夜の隣に座っていた同い年のロックミュージシャン。千夜はケイトとハグを交わす。当然ながら周囲からパシャパシャ写真が撮られる。
「こちらに来るなんて言ってなかったじゃない!」
千夜は笑いながら抗議した。千夜だってもちろん次の映画でケイトと共演することは知っていた。でもメッセージを送っても、ケイトは特に何も言ってなかったから、わざわざベネチアまで来るとは思っていなかった。
「ふふ。まあちょっとしたサプライズって奴ね。ナタリアと一緒に昨晩こちらに着いたのよ」
そうか、ケイトは監督と一緒に来たのか。一見接点のなさそうな二人だけど、前々から交流があったのかもしれない。
「じゃあケイト。ブラスキ監督を紹介してくれない?」
ケイトがブラスキ監督を紹介してくれる。
「ナタリア、知っていると思うけど彼女が舞鶴千夜よ。千夜、彼女がナタリア=ブラスキ監督。もう少ししたら私たちのボスになるのよね。そしてジョシュは共演したからもちろん顔見知りよね?」
監督の横にはジョシュがいつものようにノーブルな笑顔を見せている。ケイトのように輝く笑顔も良いが、ジョシュの落ち着いた笑顔もいい。千夜はこのふたりに負けない笑顔を観客に見せなければいけない立場だ。
「初めまして、舞鶴千夜です。私のことは千夜と呼んで頂ければ。私もナタリアとお呼びしてもいいですか?」
ナタリアは満面の笑みで千夜とハグする。当然撮られることは計算しているはずだ。
「もちろん、今回の主役だもの。よろしくお願いするわね。なんたってジョシュはまだ歌はレッスン中だし、ケイトは今回が演技が初めてなんですもの。あなたが頼りよ」
このナタリアの言葉でわかってもらえるかもしれない。もうすぐクランクインし、主役である千夜のシーンはわずか1週間と少しで撮影する作品は、登場人物こそ少ないが、れっきとしたオリジナルのミュージカルだ。ジョシュ、ケイトそして千夜はアメリカ人の高校生を演じる。ちなみに歌は日本に帰ってから別録して重ねる。
「私もミュージカルは初めてです。あと、年下を演じるのも初めてですね」
千夜が演じるのは日系で華人のアメリカ人という設定だから日本語や中国語のセリフや歌詞まである。ここ半年程大学で鍛えてもらった中国語がどこまで通用するかははっきり言って自信がないが、そこはちゃんと指導してくれるスタッフが用意されることになっている。
ここまでのやりとりをしているだけで、周囲に群がっていた各報道機関は撮りたい絵が撮れたに違いない。だから仕事の半分はお終い。
ナタリアは自身がブロードウェイのスターで、今は舞台でも映画でも振り付け師としても、監督としても頭角を現している。今回だって教師役として出演する。
ブロードウェイに立つことは無理だけど、今後もミュージカルという分野に参入するためには、是非とも成功させたい。千夜は本番の記者会見に臨んだ。
流石歴戦の強者である監督がインタビューにどんどん答えてくれたから、千夜の出番はあんまりなかったけど。ちゃんと渡米するまでに台本、メロディ、歌詞、振り付けはちゃんと覚えておかないといけない。