138.夏休み(4)
「各国からお集まり頂いた選手の皆さま、御来客の皆さま、この場を用意して頂きました、ヨーロッパ将棋協会連盟の皆さま、そして世界中で将棋を指したり見たりして頂いている皆さま。本日はこうしてヨーロッパ将棋選手権 そして、ワールドオープン将棋選手権を、ここ、ジュネーブで今年も開催させて頂けるのはとてもありがたいことです」
そう言って静香は会場の中を見渡す。観客はもちろん、選手もほぼ全員スマホで静香を撮っているのにはちょっと引く。だがそんなことはおくびにも出さずに千夜は開会式の言葉を続ける。
「この大会はインドで発明されたチャトランガが、大陸の西方に渡りチェスとなり、東方に渡り中国では象棋、さらに海を越えて日本将棋になりました。そういう意味でも、この大陸の西で、こうして大陸の端の向こうの日本将棋の大会を開催できるというのは、悠久の歴史を感じざるを得ません」
将棋が象棋の影響を受けているかどうかは不明なので、ぼかした表現にした。
「こうして、この場にご招待して頂いたことも歴史の悠久の流れの一滴になれば幸いです。それでは皆様、よろしくお願いいたします」
なぜ開催者ではない、ゲストの一人である静香が、こうして開会の挨拶をしているのか、それは頼まれたからの一言なのだけれど、実際こうして多くの観客やメディアが集まって来ているのは、静香の存在も貢献しているのではないかと思う。いやちゃんと貢献できていればいいな。
ともかくこの4日間のうち2日目はベネチアに戻るけど、他の3日は将棋のお仕事に邁進することになる。ジュネーブとベネチアはビジネスジェットを使えば1時間そこそこの時間しかかからない。そして空の上で静香は和装に着替えた。当然ながら滝山呉服店様から提供されたものだ。
そして開催30分程前、つまりつい先ほどこの会場に着いたばかりだ。主催者の方々には随分やきもきさせてしまっただろうと思うと申し訳ない。
昨晩はベネチアで、ローラ=ロペスがその友人たち、当然一流のセレブたちである、に紹介してくれたので、千夜自身とても興奮していた。千夜のお友達リストがまた長くなった。だがローラのせいにするわけでは無いが夜遅くまで楽しんだので、早起きすることができなかった。寝坊したわけではない。余裕が無かったという話だ。
そして空港が朝で混雑していたので、ベネチアで飛立つ時も、ジュネーブで降りる時も、なかなか管制の許可が出なかったから、こんな時間になった。明後日また来るときは気を付けようと思う。
なおこの会場には、日本からは静香の他に櫛木さんの兄弟子で、二十歳になった田丸四段と、静香より一学年年下の蒔苗姉こと蒔苗女流二段という若手3人がゲストとして招待されている。
「田丸さん、蒔苗さん、こんなところでお会いするのもなにか不思議な気分ですよね」
静香は挨拶の後、ふたりと合流する。
「いや、天道さんめちゃめちゃ英語上手いですね。さすがですね」
「私も今回のお仕事のために英語の練習をしてきたんですけど、自信がなくなっちゃいました」
静香はいろいろ英語を使うことが多いからその差は仕方がない。映画とか同業者との社交とか、記者会見とか。
「いや、言葉はやっぱり慣れですって。特に将棋では使う言葉が限られてるんで問題ないですよ」
静香は7月の試験は結構気合を入れて臨んだので、そこそこのよい点を確保した。冬学期も単位を稼ぎたいと思う。特に中国語。春休みには台湾研修もある。参加するかどうかは未定だけど。
実際、将棋用語の英語はほとんどはチェスから来ている。チェスにない金は gold general、銀は silver general 、香は lance というのもまあすぐわかりやすい。成桂が promoted knitght とかいうのが面倒なぐらい? 「と」は tokin で通じる。あとは打つのを drop というぐらいだが、これもイメージでわかる。
ちなみに、竜は dragon king、馬は dragon horse と直訳だけど格好いい。
最初の1回戦が終わるまで、ゲストの3人はすることがないので、その間、3人でいろいろ話をしていた。棋界の話はもちろん、ここに来るまでの話や、イベントの後、ふたりは休みがあるらしくて、その時にマッターホルンを見に行くらしいのでその話などだ。蒔苗姉こと蒔苗ひかりさんとも随分仲良くなれた気がする。
なお田丸さんはスーツで、蒔苗さんもちょっとおしゃれなワンピース。将棋の大会だけど、和服は静香ただひとり。
その後、途中で負けた人の中から抽選で選ばれた人と指導対局をする。四面指しで相手の申告に応じて駒を落とす。
「中盤の攻めはとても鋭かったですね。私もどう咎めようか迷いました。ただ終盤に少し無駄な手が多かったですね。ここの部分は守らず、そのまま攻めた方が良かったと思います」
日本と違うのは英語を使うってことぐらい。
そして必ずと言っていい程、『一緒に写真を撮って』あるいは、サインを欲しいと言われてしまう。
「いいですけど天道静香の方ですよ」
そう言っても、もちろんそれでいいです、と言ってもらえるのは将棋のイベントだからだろう。静香はここ最近、サインする際には『瞬息』と書いて天道静香六段、相手のリクエスト次第では女流三冠と書く。「瞬息」とは1京分の1の単位のことだ。とにかく早指しであるという自分の特徴を、揮毫に使うようにしている。
まあそんな、1京分の1な単位で指せるわけがない。仮に1京分の1世紀でも0.0000003秒だ。まあそういう気概で指していると思って欲しい。