137.夏休み(3)
ベネチアには本土とつながる橋周辺しか車は入れない。そこから先は船が主役だ。公共交通機関も『ヴァポレット』と呼ばれる水上バスが20系統程もあると聞く。
大運河に入って最初の現代的な建築物を抜けると、すぐに左側はサンタルチア駅前の広場の前に出る。ここを通過する時に、早くも手を振られたり、スマホをこちらに向けられたりする。まあド派手な衣装を着てるからね。
特に今日は千夜と同じルートを使うスター俳優も多いのだろう。待ち構えられている感すらある。千夜は立ち上がって大きく手を振り返す。
駅を通り過ぎると、古の聖女ルチアが眠る教会がある。この辺りから、本格的にベネチア旧市街に入った感じがする。
「ところで皆さま、『サンタ・ルチア』というとベネチアのイメージが強いですが、彼女は南イタリア、シチリア島の人で、歌もシチリアの民謡なんですね。そして、南イタリア、そして北欧で特に人気のある聖人だと聞きました」
北欧で人気があるのは元々スカンジナビアでは冬至の時期に太陽が復活することを願う「光の祭り」があった事。そして「ルチア」はラテン語で光を意味することから、この両者が結びついたのだという。
「だからあんまりベネチアとは関係がないのです。むしろベネチアはシチリアに残されていた、彼女の遺体を略奪してきたわけです。だからあまり目立たないように、ひっそりとここで眠りに着いています。聖ルチア、彼女は再び故郷のシチリアに帰ることがあるのでしょうか」
そのうちタクシーは大運河にかかる橋の中でも一番街の中心にあり、最も豪華で有名なリアルト橋に近づく。
「あっ、これは私、教科書で見たことのある橋ですね」
たまたま周囲に船が少ないタイミングだったので、船の速度を落としてもらい、船上で立ち上がって、橋をバックに後の席にいる明石さんに写真を撮ってもらう。ビデオカメラもずっと回ったままだけど、それはそれ。写真には写真の良さがあると思う。
「舞鶴さん、橋の上から手を振ってくれている人たちがいるので、舞鶴さんもそれに応えてください」
明石さんから静かに指示が飛ぶ。マイクに指向性があってそもそもその声を拾わないのか、それとも編集で消されるのか、それとも残されるのかは千夜は知らない。
そのままでももちろんだが、ボートの上で立ち上がればとても目立つ。千夜は振り返って橋で手を振る人たちに応える。背中からまたシャッター音がした。
そんなことをしていると後ろから水上バスが来たので、千夜はそちらにも手を振った。
「いやあ、本当に中世ヨーロッパに来た気分になりますね」
千夜はボートの左右を何度も行き来して、水の都の歴史的な風景と現在の活気の両方を楽しむ。
タクシーはそのうち、時間があれば行ってみたいグッゲンハイム美術館を通り過ぎる。マグリットの「光の帝国」などが所蔵されている。
それからベネチアのシンボルとも言える、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、そしてサン・マルコ広場。そこでも千夜に手を振る人がいる。千夜も手を振る。
ルノワール、ターナー、モネ、マネ、数々の絵画の巨匠を魅了した街ベネチア。いずれも降りて観光したいけど、少なくとも今日はダメ。それどころか、ベネチアの街にくることはもう無いかもしれない。我儘を言わせてもらえば、フィレンツェやローマまで足を延ばしたいがおそらく無理だろう。
大運河を出てから、再び水上タクシーは速度を上げて、より外海にある映画祭の開催地リド島へと向かう。そして会場に水上タクシーで乗り付けるのもこの映画祭の様式美だ。
そして船着き場には、去年のアカディムア賞主演男優賞の受賞者となった二十歳のジョシュ=オースターがタキシード姿で出迎えてくれている。世界中の女性を魅了する彫りの深い顔、ノーブルな物腰。そして高い演技力。そのジョシュが千夜が船から降り、その後会場に行くのをエスコートしてくれる。
「日本からようこそ。今日着いたんだよね? 疲れてない?」
もちろん偶然ではなくてあらかじめマネージャー同士で連絡を取ってくれているからこういうことができる。そしてそれは当然、マクラウス監督の指示だ。ジョシュにエスコートされながら歩くとそれこそ四方八方からシャッターが焚かれる。
「ありがとう。でもアメリカだって同じぐらい遠いんじゃない? それにしても久しぶり。あっ、半年以上前だけど、アカディムア賞おめでとう。メッセージでは伝えたけど、直接でも伝えておきたくて」
キャロライン=マクラウス監督の無茶なオーダーを一緒にこなす経緯で仲良くなったので、その後もしばしば連絡をとっている。
「それを言うなら、僕はどれだけ千夜を讃えないといけないんだろう? グラマフ、ベルリナーレ、ニース、大学合格、ジャパニーズチェスでもタイトルを増やしたんだよね? そうそう『booties』も僕のスマホに入ってるよ」
千夜は笑った。ジョシュも笑った。さすがハリウッドの貴公子は性格はもちろん素晴らしいし、その微笑みは完璧だ。そう思ったのは千夜だけではないらしい。周囲から一斉にフラッシュが焚かれた。
「それに映画祭が終わっても、すぐにまた会えるしね。最近の僕はレッスンばっかりだよ」
その後はジョシュにエスコートされて、ローラやオリバー、そして意外にもルフェーブルとマクラウスの両監督も一緒にいた。コンペティション部門でとても比較される相手同士だからまさに呉越同舟。だが、出演者が重複してるから集まっていた方が都合がよいことも多いのだろう。おそらく両作品のメンバーが集まっているというのも話題性になるのだろう。それは周囲のマスコミの反応からもよくわかる。
「すいません、私が一番最後ですね。せっかくベネチアに来たので大運河を通り抜けてきました」
そして千夜は他のみんなともハグしたり、会話を楽しんだり、公式の記者会見に応じたり、まだ面識の無かった関係者に紹介してもらったりと忙しい時間を過ごした。
だって、明日の早朝には一旦ジュネーブへ行くんだもの。