135.夏休み(1)
大学生になった今年からは8月9月が夏休みだ。今年に限らないが、千夜の夏休みの予定はほぼ他人任せになっている。
昨年までは明石さんが決めてくれていたが、今年はスタッフが増えたせいなのか、8月に棋戦がたった8局しかないからなのか、かなり芸能の予定が詰め込まれている気がする。8局とは言え、うち2局は聖麗のタイトルマッチなのですけれど。
特に急遽レコーディングが入ったのは解せない。アルバム、それも2枚組を練習は空き時間で、スタジオは3日で作ろうなんて無謀すぎると思う。
明石さんの言うところによると、『booties』が予想以上に売れているらしい。これまで千夜は、幅はあるけれど基本的にポップスを歌っていた。しかし『booties』では作曲者たちが、思いっきり自分たちの得意ジャンルに偏った曲を送って来た。ジャズ、ハードロック、カントリー、フュージョンだ。
いずれも名曲揃いだったので、千夜はそれぞれのジャンルに相応しい歌い方をした。それが、世間様に受けいれられた。つまり千夜であればどんな曲でもきっちり歌いこなすだろう、そうミュージシャンたちが認識した。
そして当然千夜が歌っても、それが売れれば印税が作詞・作曲者の手元に入る。だから多くの名曲が集まった。これらからスタッフが曲を選別して並び順を考えてアルバム、しかも2枚組を作るのだという。
「2枚組を実質練習込みの3日でレコーディングするんですか?」
明石さんの言うことに間違いはないはず。千夜はそう信じているけれどクオリティが低いことになりそうな予感がひしひしとする。
「普通なら無理だと思うの。他のミュージシャンと合わせるのも時間がかかるから」
そう。例えば千夜がアメリカでライブした時、あちらのプロモーターが一流のスタジオミュージシャンを集めてくれた。もちろん彼らは事前に十分な予習をしてくれていた。そして何曲かは千夜のソロを入れている。それでも合わせるのには丸一日時間がかかった。
これは千夜が凄いのではなく、来てくれたミュージシャンが、そして彼らを集めたプロモーターの手腕によるものだ。一流ミュージシャンが多いアメリカ西海岸という土地柄も当然良い影響があっただろう。
さらに言えば、今回も『booties』のようなジャンルがバラバラの曲を歌うのであれば、それぞれ別のスタジオミュージシャンが必要だ。プロのピアニストはどんな曲でも弾けるけど、それでもジャズのピアニストにロックを弾いてもらった場合、合わせるのはさらに時間がかかる。ベースに到ってはジャズのベーシストとロックのベーシストが扱う楽器は違う。エンジニアを入れて個別録音したとしても難しい。
「だから今回は、全曲舞鶴さんの弾き語りでレコーディングしようと思うの」
んん、んんん。なんかおかしなことを聞いた気がする。いやライブで弾き語りはありだと思う。でも、レコーディングで弾き語り? それも2枚組だから20曲以上あるよね? 飽きられない?
いろんなジャンルが混じっているわけだから成立する、勝ち目は十分にある。明石さんが千夜にそのように説明してくれる。多くの方から楽曲を提供して頂けるというのは歌い手冥利に尽きるのだけど、これほどの宝石たちをそんなにぞんざいに扱ってよいのだろうか。
結局のところ千夜は首を縦に振ったので、主犯は千夜と言う事になる。せめてできるだけ時間を見つけて練習しようと思う。なお発売予定は12月。それを聞くとレコーディングも、もっと遅くても良い気がするのは気のせいだろうか?
あと大きなイベントは9月クロアチアで開催される『アウトスタンドフェスティバル』そしてイタリアで開催される『ビエンナーレ国際映画祭』、そして『ヨーロッパ将棋選手権』。正確には『ビエンナーレ』の開催期間中に、スイスで『ヨーロッパ将棋選手権』があり、クロアチアで『アウトスタンドフェス』がある。
『ヨーロッパ将棋選手権』は100人近い参加者がいて、アメリカやインドから参加する人もいる。これもなかなか楽しみだ。
『アウトスタンドフェス』はベースミュージックの野外フェスだ。ベースミュージックというのは……表現が難しいけれど、基本的は低音重視で、リズムが早いダンスミュージックだ。そして普通はシンセサイザーとかドラムマシンを使う。もちろん他の音楽のジャンルと同様、様々な方向に進化しているので、上記の定義からはみ出しているものも多い。
アコースティックギターを愛用する千夜とは相いれない気がするが、主催者はジャンルを超えたフェスにしたいとのことなので、千夜も呼ばれている。そしてせっかくのベースミュージックフェス、『アウトスタンド』に出るための秘密兵器も、大急ぎで作られていて完成が近いという。
秘密兵器? そんなにもったいぶるものでもないので、言っちゃうと千夜用のアコベだ。コントラバスではなくて、フルアコースティックベース。通常の破魔矢さんのラインナップにないものを千夜専用仕様を特注で作ってもらっているのだという。そう明石さんに言われると断れない。
そしてこれまで映画祭と言えば、タッチ&ゴー、みたいな顔をチラ見せするだけのイメージしかなかったけど、今回の映画祭にはがっつり参加する。だってコンペティション部門に千夜の主演作が2作も入っている。これだけでもスゴイと思う。
1作はルフェーブル監督の作品。既にベルリナーレとニースで金賞を獲っており、三冠が期待されている。そしてもう1作はハリウッドで撮ったマクラウス監督の作品。両作品に千夜、そしてオリバー=ミラーが出演しているというのも異例だ。
さらにコンペティションには入っていないけれど、ノンフィクション部門で『グラマフクイーン』も上映される。千夜は一度見ただけなんだけど、あれはどうなんだ? 意外にも売れてはいるらしいのだけど……
帰国してからは将棋のお仕事を暫くしてから、また海外で撮影を中心に活動する。せっかく地獄のような試験期間が終わったのだから、充実した夏にしたいものだ。