134.編入試験(1)
「負けました」
「ありがとうございました」
接戦を制し、武田将運は新人戦の2回戦を勝ち、準々決勝に駒を進めた。これはただ組み合わせが良かっただけだと将運は思っている。
プロの公式戦と言ってもプロだけが参加しているわけではない。将運自身がアマチュアだし、奨励会の三段や女流棋士も参加している。実際将運は1回戦も2回戦も相手は三段だった。
将運が将棋を始めたのは19歳、大学に入ってからだ。仲良くなった下宿仲間の相手をするようになってからだ。ルールを教わってから3か月後には、将運の方が駒を落とすようになった。
それから大学で将棋部に入った。最初は部内のリーグ戦でも下から数えるのが簡単だったけれど、4年生になった時にはエースになっていた。就職も将棋で決まった。よくいく道場に工場の社長がいて、卒業したらウチに就職しろというのだ。条件も悪く無かったので、将運はその工場に勤めた。
そして社長が勧めるので、社会人になってからも積極的にアマの大会に出た。20代も半ばになると大会で優勝することも増え、30歳が近づく頃にはアマ名人やアマ玉将、そして蒼旗名人にもなった。将運は組み合わせに恵まれたらプロの公式戦でも勝つことができるようになった。
そして先ほど、蒼旗名人として出場した新人戦で2回戦を勝つことができた。将運にとってこれはただ勝ち上がっただけではない。これで将運はここ15戦で、10勝5敗となった。つまり、プロに編入するための試験を受ける権利を得たことになる。
早速インタビューでそのことを聞かれた。
ーー準々決勝進出おめでとうございますーー
「ありがとうございます」
ーーこれで棋士編入試験の資格を得ました。奨励会未経験者である純粋なアマチュア棋士としては初の快挙ですーー
奨励会員はアマチュアだ。だから、純粋なアマチュアという表現が将運にはよくわからない。
「ありがとうございます」
だからそうとしか返しようがない。
ーー棋士編入試験についてはどうお考えですか?ーー
「えっと、以前にも同じことを聞かれたのですが、せっかくの機会ですので、チャレンジしたいと考えています」
ーー新人戦も次は準決勝ですが、編入試験も楽しみにしていますーー
「ありがとうございます」
将運に編入試験の可能性が出てきたことは、随分前に社長から聞いた。
『お前は遅れて来た天才なんだよ。今のプロがどうやってプロになるかわかるか?』
『はあ、奨励会を勝ち抜いて、ですよね』
社長がとても興奮していて、将運の方が冷めていた。
『プロは早ければ物心がつく前、遅くとも小学生になる頃には将棋を始めている。そして小学生のうちから奨励会で鍛えられる。10歳に満たない子だってそこで指しながら強くなる』
『すごいですよね』
『そうだな。そして早ければ中学生で、遅くても30歳でプロになる。早くて7年ぐらい。遅い場合は20年近く将棋に専念して、その中のごく一部がプロになれるんだ』
将運には考えられない世界だ。
『将棋だけじゃない。ゴルフ、テニス、スケート、バレエ、みんな小さな頃からそれに専念して、そのほんの一部だけがプロとして食べていける。恐ろしい世界だよな』
将運はうなずいた。もし自分がそういう環境で育ったら、正気を保つことができるかどうか怪しいと思う。
『だがよ、そういう環境に出会えない天才もいるはずなんだよ。例えばよ、アメリカのヘビー級ボクサーの中で、歴史上ただ一人だけ、負けたことはもちろん、引き分けすら無しの全勝のまま引退した伝説のチャンピオンがいる。彼がボクシングを始めたのは20歳になってから。プロになったのは25歳になってからだ』
『それはスゴイですね』
『すげーよな。彼がもっと早くボクシングに出会っていればもっと伝説を積み重ねていただろうよ。だがそれも戦後すぐぐらいの昔の話だ。今みたいに、子どもの頃から英才教育を施されるような時代の話じゃない』
将運は黙った。
『俺は将棋が好きだから、プロはみんな尊敬している。でもよ、似たような経歴の奴らだけだったら面白くなくねえか? 棋風だって、大抵居飛車で、横歩か相掛かりか角換わりばっかりだとつまんないだろ? 経歴だってそうだよ』
将運は居飛車も使うけど、どちらかというと飛車を振る方だ。A級棋士だとほとんど居飛車党だ。そして将運に負けたプロは振り飛車対策ができてなかった、とコメントする人が多い。
『最近最年少とか、女性棋士とか出てきて幅が広がってよかったと思うけど、それでもお前ほどじゃないよ。だから絶対チャンスを掴めよ。受験料とかは俺が出してやるからよ。何度落ちてもいいから、何度でも受けろ』
社長は随分俺の事を買ってくれているんだな。将運は出来るだけその期待に応えたいと思う。
翌日、武田将運は日本将棋連盟に、棋士編入試験の申し込みをした。この時点で棋士番号の大きな棋士から5人が試験官としてきまり、かれらと一局ずつ指して3勝すれば将運は四段、プロの仲間入りをする。
試験官は田部四段、榎本四段、遠山四段、池添四段、そして天道六段が務める。その5人と9月から一局ずつ対局し、3勝すれば将運は四段に、プロになることができる。