127.海老沢直樹の憂鬱(6)
これはまだ静香が奨励会に入るよりも前の話だ。星雲戦本戦のトーナメント表を初めて見た時、その凄まじさに静香は圧倒されてしまった。なんと11回戦まである。だが参加者は12人しかいない。1回戦の参加者はたった2人。このふたりが出場しようとしたら11回勝たなければならないのに、一番シードされている人は1回勝てば決勝トーナメントに進める。
『ずるい!』
子どもらしくそう思ったのを覚えている。1回戦から参加する人は絶対出れない仕組みだ。なんて世の中は不公平なんだ。
後にこれをパラマス式トーナメントということや、最後まで勝ち抜かなくても、最多勝ち抜きでも決勝トーナメントに出れることを知った。さらに言うと、まだ静香が産まれる前の話だけど24人、つまり23回戦まであった事も知った。そこで1回戦から7人勝ち抜いたアマチュア棋士や、7回戦から登場し22回戦まで15回連続で勝ち、23回戦で力尽きた棋士がいることも知った。なおその棋士は決勝トーナメントでも決勝まで進出しそこで当時の最強棋士に敗れた。
ともかく現在の制度になってからは、5回戦から決勝まで7人勝ち抜いた棋士はいたが、1回戦から勝ち抜いた棋士はいない。
ブロック戦1回戦からの出場者がブロック優勝した場合は、そのブロックからの決勝トーナメント出場者は優勝者だけ。その分、他のブロックで決勝トーナメントに出場できなかったが最多勝利者に権利が行く、というルールがあるのだが、将棋ではそれが適用されたことがない。その手前、つまり決勝に辿り着いた1回戦出場者もまだいない。
将棋で、という断りを入れたのは同じルールの囲碁の流星戦ではあるからだ。それも1度ならず2度も。
ともかく天道静香は将棋界では初めてそれに挑戦する機会を与えられた棋士だ。もちろんそんなにシードされる棋士は強い人に決まっている。前回優勝者、タイトルホルダー、そうでなくてもA級棋士。
果たして静香の相手は、静香の33連勝を止めた因縁のある、あの海老沢鋭王だ。……まあ組み合わせが決まった昨年9月にはわかっていたことだけれど、まあよくここまで辿り着いたものだ。
静香がここまできた最大の理由は、なんといっても持ち時間の短さだ。持ち時間は15分、ただし10分まで追加できるので、実質25分。そしてそれが切れたら1手30秒という非常に忙しい将棋になる。全棋士参加棋戦としては、実質20分の公共放送杯に次ぐ短さだ。なんたってどちらもテレビ中継されるから、枠内にさっさと終わらせないといけない。
つまり通常の棋戦でも時間の多くを余らせる静香にとって、最大の力が発揮される場だと言ってもいい。だって六段だから、清流戦も、チャレンジカップも出れない。新人戦は出れるけど、あれは持ち時間が3時間ある。
つまり今日は静香にとって海老沢先生にリベンジする絶好の機会だ。そして初めてブロックから一人しか出場者が出ないルールを適用させる。櫛木さんとのVSや、将棋大賞の時、御厨先生、月影先生、そしてじゃんけんに勝った野々原さんと言う、静香に勝ったことがある人3人とでやった研究会での修行の成果を見せる時が来た。
「海老沢先生、ご無沙汰しております。わざわざ東京までお越し頂いて申し訳ないです」
静香は丁寧に頭を下げた。
「いやあ、今日は久しぶりに天道さんと指すからとても楽しみにしてたんよ。お手柔らかに頼むわ」
海老沢先生は相変わらず迫力というか存在感のある方だ。さすがタイトルホルダーだと思う。
「いえいえ、こちらこそよろしくお願いいたします」
だが、タイトルホルダーというのは毎年、挑戦者からタイトルを守らなければいけない。静香も先月、今泉先生とお互いの女流タイトルを取り合った。幸い静香はタイトルをひとつ増やしたけれど。いつもそうなるとは限らない。
「そうそう、いろいろお祝いをしとかなあかんことを思い出したわ。最優秀棋士賞やろ、記録4賞独占やろ、あとニースでもなんか大きい賞とったんやってなあ。あっ、あと大学合格もあったな。遅くなってもてすいませんなあ」
実際、海老沢先生は現在、鋭王のタイトル戦の真っ最中。御厨先生の挑戦を受けている最中だ。現在はがっぷり四つの2勝2敗で、泣いても笑ってもの最終局が来週ある。絶対にそちらの方が重要な一戦のはずだから、静香相手の研究まで手が回っていない可能性が高い。
「いえいえ、お忙しい真っただ中に、そんなにもご配慮いただいて申し訳ありません」
うーん。事前の予想よりも警戒されているようだと静香は思った。私なら鋭王戦にリソースを全部つぎ込む。なんなら星雲戦は新戦法の実験場にしてもいいぐらいだ。
開始直前の振駒でと金が4枚。静香の先手だ。
「それでは時間になりましたので始めてください」
「よろしくお願いします」
そう言って静香はすぐさま角道を開けた。
「負けました」
海老沢先生は本当に鋭王戦にリソースを集中していたらしい。あの嫌らしいまでに丁寧な指し回しがなく、むしろさっさと負けようといわんばかりの平凡な手が多かった。いやそれでも十分強かったけど。
こうして天道静香は海老沢先生へのリベンジを成し遂げ、星雲戦では初となる11人抜きを達成、決勝トーナメントへと駒を進めた。
その次の週、鋭王戦第5局は、振駒で後手になった海老沢先生が100手を超えて千日手に持ち込み、指し直しの一戦も135手で勝ち、鋭王の座を防衛していた。渕上監督の映画のクランクアップ後の打ち上げの合間に、ちらちらとスマホを見ながら、本当に手を抜かれてたんだなあ、と静香は思った。