119.部活とサークルと研究会(3)
VSとはふたりの棋士が1対1でする研究会のことだ。
ふたりでできるから、お互いがやろうと思えばすぐにできる。例えば対局とか、研究会とか有った後に、ちょっと気が向いた時にどちらかの自宅におしかけて朝までVSしてた、とかいうのは三段リーグでも、そしてプロでも耳にしたことがあったが、静香は今まで参加したことが無かった。
なぜなら、こう見えても女性だからです。だから大沼先生(女流二冠)とか、関西だけど今泉先生(女流四冠)とかに話を持ちかけたら案外やってくれるかもしれない。でも比較的頻繁に対局するのであまり一緒に研究するわけにもいかない。
というわけで初VSですが、男女ということもあり、流石に一対一でどちらかの家に行くというのはまずい。こう見えても人気商売だ。そして普通の相手、例えば野々原六段とかだと、静香が心配されるほうだけど、この場合相手が心配される。だってVSの相手は櫛木五段、4月になってもまだ中学生ですよ。
男子中学生を自宅に連れ込む、あるいは押しかける女子大生。うーん。公平に考えて、仮になにかコトが起きた場合、女子大生の方が悪いと思う。
だから思いっきり公共の場である将棋会館内の道場でやることにした。まあそんなことは無いだろうが、仮にカバーストーリーを作る必要が出た場合でも、たまたま会館に用事があって、とか言えばなんとか言い訳がきくのではないだろうか。ちなみに櫛木さんの兄弟子の田丸さんも参加したかったそうだが、半月後に静香と対局があるのでやめたという。静香は気にしないけど。
問題は確実にギャラリーができるだろうし、場合によっては諸先輩方が混じっていて研究どころではなくなる可能性もある。うん、やっぱり研究会じゃないわ、これ。でも将棋会館のどこかの部屋を借りるのもちがうよなあ。
新宿センターがまだ健在だったらあそこでできたのだけど……まああんまり変わらないか。やはり素直に櫛木さんの師匠である池添九段の御宅を貸してもらった方がよかったのかな。
道場が開くのが10時だから約束は10時半にしましょう、と静香が言うと、春休みなので平日ですが混んでる可能性があります。10時にしましょうと、櫛木さんに言われた。
当日、通い慣れた場所なので時間を読んで10分前に着いたら既に行列ができていたが、入るには問題ないとは思う。静香が列に並ぶとすぐに、近くにいたのだろう櫛木さんが現れて静香の後ろに並んだ。先に来てたんだな。
「下手したら他の人と手合いを付けられちゃいます」
櫛木さんによると、普通はひとりで来て、知らない人とでも指せる場所らしい。それはそれで普及としては大事だけど、今日は自分優先。開くまでのわずかの間にちょっと情報交換。
櫛木さんと静香の次の期には息子さんのほうの池添さんが奨励会を突破して四段になっている。大学は違うけど、静香と同じ学生プロということになる。あと1年で卒業だけど。なおもうひとりの昇段者は遠山四段。彼とは三段リーグで当たっていないが、どちらも長く三段リーグの上位に居続けていたから意外性はない。
そして今月の頭に終わった三段リーグでは意外なふたりが突破した。二人とも三段リーグで対局し、静香が勝ったふたりだ。居飛車穴熊の専門家だった榎本さんと、三段リーグの初戦であたった田部さん。
榎本さんは今も居飛車穴熊の専門家だけど、戦術を増やしてプロ入りをした。池添さんが昇段した期にはいろいろ模索中で降段点まで付いたらしいけど、半年かけて弱点を克服してきた。今も居飛穴のスペシャリストだけど、そう決めつけて指すと別の展開になり仕留められてしまう。
もうひとりの田部さんは29歳の誕生日を過ぎての昇段という苦労人。本当に年齢制限ぎりぎりで滑り込んだことになる。執念の昇段だと一般紙でも話題になった。編入試験ではなく奨励会からのプロ入りとしては最高齢になるので、最年少の櫛木さんもコメントをしたという。
そんな事を話している間にも写真を撮られるのはもちろん、サインくださいという声も出て来た。人気商売なので櫛木さんも静香もそれに応じる。静香が書くと、もう一つのお名前の方も、などと言われてしまう。当然笑顔で応じるけどなんだかなぁ。
幸いサインの行列ができる前に道場が開いたので、これ幸いと入ることにする。ふたりで指すので、あそこの隅を貸してくださいと言ってお金を払う。私は女性だから800円、櫛木さんは中学生だから600円。
「さっきのは僕らを知らない人でしたね」
えっ? なんでわかるの?
「普通プロからお金は取りません。奨励会員がバイトしてたりもしますが、普通に近所のパートの方が受付をする場合もあるので。そう言う時は僕は素直にお金を払っています。まあ僕らも棋士の身分証を出さなかったので」
へー。
だがそんな会話をしている間にも、私たちの周りを人垣が包む。
「で、今日はどうします? 僕はメッセージにも書きましたけど振り飛車を練習したいです。まだ天道さんに通用するとは思わないですけど……天道さんはなにかありますか?」
A級やB1の先生方はほぼ全員が居飛車党、振り飛車党や両方指すオールラウンダーの人はもう例外と言ってよいほど少ない。だが、今期私たちが所属していたC2や、名人戦が終わったら始まるC1リーグだと振り飛車党もそれなりにいる。そして女流のA級だとむしろ振り飛車の方が多い。そして櫛木さんは生粋の居飛車党だけど、振り飛車側の感覚を掴んでおきたい、というのが今日の櫛木さんのテーマだ。
「私は相振り飛車と対抗形の双方をためさせてもらおうかな。先後双方で」
静香の場合相手に田丸さんもいるが、もしふたりとも勝ち進んだ場合、2か月後の5月末に竜帝戦6組の決勝で静香は櫛木さんと対局する。今日のこのVSで櫛木さんは何かを掴み強くなるかもしれない。だからそれ以上に静香は強くならなければいけない。
「わかりました。じゃあ、最初は僕が先手でいいですか?」
静香はどうぞ、と手でジェスチャーした。
将棋会館の道場をプロがタダで使えるのか? あるいは社員証みたいな身分証明書があるのかはわからなかったので捏造です。