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みんなで私の背中を推して  作者: 多手ててと
前編:高校生編
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110.卒業(1)

その日、静香は朝起きるといつものように制服に着替えた。この身に馴染んだ動作をするのも今日が最後だとはまだ信じられない。天道家の朝ごはんは伝統的な和食が中心で、今日も玉子かけごはんとお味噌汁。静香自身は、とある番組で有名シェフに料理の手ほどきを受けたけれど、その成果を家庭で発揮したことはまだ一度もない。


いつもの朝のルーティンが終わると静香は出かける準備をする。保護者の入場時間は違うので、静香ひとりが先に家を出て、いつものように最寄りの小田急の駅へと向かう。


今日は当然授業はない。私物も学校に置いているものはひとつだけなので、学生カバンは持たない。普段便利使いしているトートバックに必需品だけを入れている。電車でスマホをいじりながら、昨日行われた棋戦の棋譜を見ていると、角換わりの新手を見つけた。残念ながら新手を出した方が負けているけれど、これは結構有望かもしれない。


しばらく立ったまま揺られているうちに新宿に着く。最近は眼鏡姿でも露出が増えてしまったけれど、特に声を掛けられることもなく新宿に着き、連絡口から中央総武各駅に乗り換える。


新宿を出た電車はすぐに代々木に着き、代々木を出るとすぐに千駄ヶ谷の駅に着く。いつものように静香はこの駅で降りる。静香は仕事があるから今後もこの駅のお世話になる。だが、同級生のほとんどは、もうこの駅を使うことはほとんどないだろう。もう二度と使わない生徒だっているはずだ。


いや、案外静香だって数年後には高槻(関西将棋会館の移転予定地)辺りに住んでいるかもしれない。


そんなことを考えながら静香は高校への道を辿った。


「ぉはよっ」


いつものように教室に入る時にボソッと挨拶をする。今日はこの時間にしてはいつもより人が多い。その中には久しぶりに顔を合わせる友人もいる。静香は自分の席へと向かった。


「静香はもう私学ふたつ受かってるんでしょ? いいわねえ」


「なんやかんや頑張ったと思うよ、私。だって私にとっちゃ受験これはお仕事なんだから」


「そっかあ。自分以外の事も考えないといけないのは辛いね」


「いや、そんなことはない。私なんか明日落ちてたら悲しい浪人生活だよ」


「まだ後期とかあるでしょ?」


友人と話している間に教室が埋まっていく。この教室の椅子がすべて埋まったのは、今年になって初めてだと静香は思った。2組3組合同自習の時も満席にはならなかった。


胸に似合わないコサージュを付けた担任が現れて最後のホームルームが始まって、生徒たちにもコサージュが配られた。白いほころんだばかりのチューリップが一輪。生花せいかのコサージュは素敵だけれど、やはり可愛そうな気がする。


そんなセンチメンタルな気分になってしまうのはやはり今日が卒業式だから?


時間の問題なのだろう。クラスでひとりひとりが短い挨拶をクラスメイトたちにする時間が始まった。こういうのって式の後でやるんじゃないのかな。みんなふたこと程度なので、静香もそれに習う。


「本当にこの3年間はいろいろあり、皆さんにも色々ご迷惑をおかけしたかと思います。おかげ様で卒業式を迎えることができました。ありがとうございました」


こんな内容の無い挨拶に、だれよりも大きな拍手が起きた。たしかにこの3年間いろいろあったな。中学を卒業した頃、5級に落ちて新宿の街をふらふら歩いていた時の自分を思い出すと、あそこから随分遠くまできたかのような気がする。あの頃の静香が思いもよらない静香になっている。


そして時間が来たので、担任の指示に従って生徒たちは廊下に並ぶ。静香は念のため私物について担任に聞いたところ、既に体育館に設置されているとのことだ。手際がいいのは、カメラが入るためで、業界の人から入れ知恵されているのだろうな、と静香は思った。やはりこの3年間で、変な意味でも業界慣れしてしまった。


体育館に入るのは組順なので、1組は最初に入る。出席番号は男女が混じったあいうえお順なので、静香はちょっと後ろより。入場の音楽が流れ静香は自分の前の人に着いて自席に座った。カメラの位置もすぐにわかったが、もちろんそちらは見ない。


卒業生が全員席に座るまではそれなりの時間がかかる。その間おしゃべりを楽しむわけにもいかないので、静香は自分の出番のことを考えていた。静香にとっては自分の卒業式も仕事の一部だ。あれ? これは千夜の仕事か? やっぱり静香のか? まあどちらでもいいか。


司会をする教頭の自己紹介と開式の挨拶。全員が起立して国歌斉唱。そして卒業証書の授与。静香の番はすぐにやって来る。


「天道静香」


「はい」


教頭の声に答えると演台の校長の前に出て頭を下げる。そして証書を両手で受け取ると、そのまま一歩下がってまた頭を下げる。ただそれだけなのに大きな拍手を受ける。静香はそれを気にしないすまし顔で、舞台を降りた。


学校長の挨拶、思えばこの校長にもお世話になった、そのたびにお礼はしているけれど、後で個別にお礼に行くべきだろう。知らない来賓の祝辞を無関心に聞き流しているうちに、梅原会長からのものがあったので現実に引き戻される。別に静香宛ての内容では無く、卒業生全員にむけた無難な内容だったけれど、今までの卒業式にはこういった顔見知りから祝辞が来ることなどなかったので驚いた。


続いて在校生による送辞。代表者が読み上げるそれを静香は必死に聞いた。喜ばしいことにきわめて無難な内容だと静香は思ったが、それでも聞き逃すことは許されない。送辞が終わり代表の2年生が舞台を降りる。司会の教頭が次のプログラムを告げる。


「卒業生答辞。卒業生代表、3年1組天道静香」


「はいっ」


静香は再び立ち上がると、ゆっくりと舞台へと歩んだ。

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