102.瞬息(7)
『すいません。決勝までの準備を整える時間がありませんので、感想戦やコメント等は控えさせて頂きます』
静香はそう言い切って椅子から立ちあがり、群がる関係者を掻き分けて舞台を後にしたかったが、もちろんそんなわけにはいかない。当然ながらインタビューが始まった。
――まず準決勝、勝利した今のお気持ちを聞かせてください――
「とにかく疲れました。この3時間、ずっと全力疾走していた気分です」
――最強棋士と言って過言ではない、御厨竜帝・名人からの勝利です――
「二度とないかもしれないので、一生の思い出にします」
――勝利を確信したのはいつでしょうか?――
「いい勝負になっているな、と思ったのは80手目ぐらいからですが、その後もずっと怖かったです。133手目で4一に飛車を打ったあたりから、自分のペースで局面を進められていて、いい感じかなと思いました。181手目に2八の銀成を同玉したあたりで、勝ちを意識し始めました」
――決勝の相手は箱石八段に決まりました――
「今はまだ準決勝の余韻が残っていて、考えがまとまらないのですけれど、早指しで実績のある方なので挑戦者として全力で挑むだけです」
――ありがとうございました――
「こちらこそありがとうございました」
――続きまして竜帝・名人にお伺いします。先ほどの一局について、なぜ最後まで指し切られたのでしょうか?――
将棋は残酷だ。こうやって大勢の人の前で自分の負けについて語らなければならない。
「これは僕のわがままなんですけど、最近は勝つことにも負けることにも慣れてきてしまったんですね。番勝負で仮に防衛できたとしても、そのうちの1局か2局は落とすわけじゃないですか。でもそれは相手も強いから当たり前なんです。みなさん強い人ばっかりなので」
御厨先生がそこで静香をちらりと見たことに気が付いた。御厨先生が自らの興奮を押さえようと努力しているのがわかる。
「でも今日は負けるはずがないと思っていました。天道五段を侮っていたんですね。もちろん対局が始まってからは、僕は一切油断しませんでしたし、実際今の時点で振り返ってもどれが失着になったのかまだわかっていないです。それなのに結果、成す術なくそして完膚なきまでに負けました」
静香は御厨先生の怖さに気が付いた。盤を挟んだ時にも独特の圧力を感じたけれど、今の御厨先生の方がもっと怖い。
「150手に達した時には、もう何をどうしても勝ち目がないことはわかっていました。多分タイトルの番勝負だったらあのあたりで投了していたと思います。タイトルを取ったり取られたりしているうちに、負けることも仕事のうちだと割り切ることができるようになってしまったので」
御厨先生はそこで言葉を切った。今度は観客席を見渡す。
「でも今日、午前中で負けることは全然考えていませんでした。だからその負けを自分に刻み込んでおきたかったんです。もちろん僕がもっと強くなるためにです。えっと、天道さん。今はとてもお忙しいと思いますが、時間ができたら感想戦をさせてください。以上です」
――両先生ありがとうございました――
文字にしたら少しだけど、実際には対局の後片付けとか、準備とか、大盤解説の先生の話とかいろいろあったので、20分以上の時間が必要だった。
だが、主催者も鬼ではなかったらしい。決勝開始は1時間後ろ倒しの3時から対局開始となった。これは静香への配慮というよりもご観覧のお客様が遅いお昼ご飯を食べるための時間だ。30分だとこの有楽町界隈でご飯を食べるにはちょっと短すぎる。
静香は舞台袖に隠れてから、御厨先生から声を掛けられた。
「天道さんごめんね」
「はい? どういうことですか?」
静香は思わず問い返してしまった。先ほど抑制されたとは言え、かなり感情のこもったコメントについてだろうか? それとも時間に追われているのに詰みまで指しきったことだろうか? 御厨先生の顔色はもう戻っていて、そこには自嘲的な笑みが浮かんでいた。
「いろいろあるけど……一番はやっぱり天道さんを舐めてたことかな。夕陽杯の準決勝という大舞台なのに、僕がみた天道さんの棋譜は10枚と少しだけ。研究も月影相手に時間をかけていた。それでこの様だからダメダメだよね」
御厨先生は月影先生との棋奥戦の第1局を落としている。そう言えばお互いに呼び捨てだから、なにかライバル心のようなものがあるのかもしれない。それに……静香はここ数局の御厨先生の棋譜すら見ていない。
「いえ、今日私が勝てたのも運に恵まれたと思ってますので」
「負けに不思議の負けなしって言うしね。幸い雪辱を果たす機会は半月後にあるから、次は負けないから。そうそう、さすがに次の対局も近いしそもそも天道さんが今はとっても忙しいのはわかっているけど、感想戦と前にも言った研究会のことはちゃんと考えておいてね。じゃあ決勝、応援しているから」
そういって御厨先生は踵を返す。
「ありがとうございました」
静香は去り行く背中に向かって深く礼をした。そう、来月早々にある鋭王戦本戦の2回戦で静香は御厨先生と再戦する。持ち時間3時間だし、勝ち目があるとはとても思えないけれど。
それから他の関係者の方々に挨拶をした後に、急いでトイレに行き、そこで携帯食料を喉に押し込んで、控室で眠りに着いた、少しでも体と頭を休めないといけない。
相手は箱石八段。
静香が覚えている限りでは、タイトルには挑戦したことは無い。だが今期からA級に初昇格している。今期は最終局を残した状態で、まだ残留は決まっていない。今の勝ち星の状況から、順当なら残留する見込みだけど……三段リーグの経験から言うと、むしろその方が静香なら嫌かもしれない。
棋風は静香と同じく早指し派で、持ち時間の短い一般棋戦で良いところまでは行くがそれでも優勝の経験はない。つまりどちらが勝っても夕陽杯初優勝ってことだ。御厨先生程の派手さは無いけれど、それでも静香より何枚も実力が上の棋士だ。
静香はいつの間にか眠りに落ち、そして自分が決めたとおり対局が始まる10分前に目覚めた。芸能人なら同じことをできる人は結構いるんじゃないかな。少なくとも由美ちゃん(鳥居由美)は静香と会った時には既にできると言っていたし、ハリウッドで会ったジョシュ=オースターも同じことを言っていた。
1時間寝たので、頭から不要なゴミが消え落ちている。トータルで言うならば、コンディションはそんなに良くないけど、それほど悪くもない。決勝戦まできたのだから勝って帰らないといけない。箱石八段にとっては違うと思うけれど、静香にとってはこれが最後の機会かもしれない。
静香は軽く身支度をすると舞台袖へと向かった。
勝ちに不思議な勝ちあり
負けに不思議な負けなし
松浦静山(1760~1841)「剣談」より
著作権は切れております。このレベルだと引用になると思いますが念のため。