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みんなで私の背中を推して  作者: 多手ててと
前編:高校生編
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01.スカウトされた

5級。4月から高校生になる天道静香てんどうしずかにとって、その衝撃は大きかった。もちろん高校入試のための勉強を頑張ったからその分時間が取られてしまった、そういう言い訳はある。だが一度は2級まで昇級した自分が4級で2度目の降級点を連続でもらう、そんな羽目に陥るとは思わなかった。2級から5級まで落ちたというのは、多分史上初の不名誉なのではないかと思うが、本当にそうなのかを調べたくもない。


千駄ヶ谷から新宿への黄色い電車で静香は昔の事を思った。


静香は小5の時に奨励会に6級で入った。その当時は、将来初の女性棋士になるのではないかと周囲から注目された。最初の1年は順調に白星を重ね着々と昇級、2年目には2級になった。だがその後勢いは陰りを見せ、昇級どころか負けが込み始めるようになった。


そうなると将棋界や世間からの注目度も下がる、その頃には静香の1歳下の双子の蒔苗まきなえ姉妹が奨励会入りしたことも原因かもしれない。


それでも中学に入った当初は3勝3敗で降級点を消すこともできたが、そのうちに連敗が増え、3級へ落ち、中3では4級になり、双子の双方に追い抜かれた。


高校は無事に希望していた進学校に進むことができた。中学時代のあの閉塞感を打ち破るためには、それが必要だったと今でも思う。だがその代償は大きく、中学卒業とほぼ同時に5級降級が確定した。


思えば3級に落ちた時点で、既に周囲が静香を見る目が変わっていた。初の女性棋士は双子のどちらかだろうと予想されるようになった。4級に落ちた時点には、これまで応援してくれていた人たちの表情に、失望がありありと浮かんでいた。


将棋界に何人かいる早熟の子。今の静香が女流棋士に転向しても通用しないと思う。


静香は新宿で総武線を降りると、小田急との連絡口に行く代わりに、東口方面にとぼとぼと歩いた。小田急に乗れば自宅に帰ることができる。家族には結果をアプリで伝えているとは言え、それでもすぐに家に帰る気にはなれなかった。まだ家族の誰も家には帰っていないだろう。いや誰かが家にいたたとしてもやはり東口に向かったかもしれない。


奨励会の5級だと、15歳の静香はもう年齢が上の方になる。静香より幼い、まだ小学生の子どもたちが静香とすれ違うようにどんどん昇級していく。もう辞め時なのかな。せっかく真面目に勉強をして世間的には良い高校に入ったのだから、高校生活を楽しむのもいいかもしれない。確か将棋部もあったはずだ。奨励会退会後しばらくはアマチュアの大会には出られなかったような気もするが、それは問題ではない。


アルタ前の交差点で、頭の中でネガティブシンキングがぐるぐるしている時、誰かに声を掛けられて静香は我に返った。


「ねえあなた、芸能界に興味ない?」


これまでの静香であれば、そんなことは軽く流していたはずだ。だがその余裕が今の彼女には無かった。静香は思わず足を止め、自分に声を掛けてきた中年女性に向き直った。


「あなたは自分でも気づいているみたいだけど、コンタクトにして美容院で髪を整えて、服装を変えればとても人目を惹くわよ。身長もあるからモデルにもなれるし、練習すればアイドルでも女優にでもなれるわ。ちょっと話を聞いてもらえないかしら?」


人の好さそうな中年女性が柔和な笑顔で甘い言葉を吐いた。何かの授業で見させられた、こういう人について行って、地獄に落とされる若者のビデオを思い出した。


とは言え、怪しげなスカウトに声を掛けられたことに、静香は別に驚かなかった。このように声を掛けられることはこれまでにも何度かあったからだ。


静香が自分の容姿に気が付いたのは小学校の頃からだ。まだ小5のうちに小6の男子、それも子どもなりに少し不良の匂いがする人たちに声を掛けられるようになった。


「なあ、そこのキミ、5年生? 名前は?」


最初は訳がわからず戸惑うばかりだったが、静香がその意味を知るまでにそう時間はかからなかった。小6年になる頃には同級生の男子たち、大人しいタイプもいれば、スポーツマンも、そして早くも不良っぽい雰囲気の男子からも、何度もそれっぽい声を掛けられるようになった。せっかく好意を持ってくれた男子には悪いが、将棋一筋の静香はもちろんそれらをすべてを断った。だが静香の思わぬところで、女子からの静香の評価が散々なことになっていた。


「静香っていつも男に色目を使ってるよね」


「いつも将棋が、とか言ってるけど、結局はチヤホヤされたいんでしょ? そもそも女流棋士自体、アイドルみたいなものらしいじゃない」


偶然なのかわざとなのか、そんな声が静香に聞こえて来るようになった。


小6の1学期も終わりに近づいたある月曜日、静香はそれまで綺麗に整えていた長い髪をわざとぼさぼさにした上に、ところどころほつれた雑な三つ編みに変えた。ネットで見つけたダサい黒縁くろぶちの伊達メガネをかけ、それまで小ぎれいにしていた服も、兄のお古の男物に変えた。静香の中学には制服がなかったので、当然スカートもやめた。


そんな静香の変化に学校も、そして同じ格好で行く奨励会でもしばらくの間はざわついていたが、時間とともに誰も何も言わなくなった。そのせいなのか、徐々に疎遠になった友達もいるが、静香はそれを問題とは思わなかった。


だが風体を変えた後も、こんな風に街で声を掛けられることはあった。やはりプロは常人とは違うところを見ているのだろう。もちろん静香はそれらを軽くやり過ごしてきた。


しかし今、目の前のスカウトの中年女性はこれまでのスカウトと少し違っていた。静香が自分の外見に自信があるという前提で話しかけてきたことだ。これまでのスカウトは静香が外見に自信がない前提で話しかけてきていた。


「ちょっと化粧すればいいところまで行くと思うよ」


たしかに私は見た目だけはいいみたいだよ。しかしそれ以外の私はどうだ。12歳で2級だったのに15歳で5級まで落ちるレベルの指し手だ。ああいった自分の外見を貶める行為はすべて無駄だった。これから始まる高校生活に期待した方が賢いような気がする。投げやりになった静香はそんなことを考えた。


そして静香はそのスカウトから丁寧に名刺を受け取った。礼儀は奨励会で厳しくしつけられている。そして名刺に書かれた名前は二本松香織にほんまつかおり。そして会社名は「鎌田プロダクション」。世間に疎い静香でも知っている大手の芸能事務所だ。そして肩書は営業部長。あれ? スカウトじゃないのかな?


静香はスカウト(?)の顔を見た。いかにもデキる業界人、彼女自身も以前はタレントだったと言われても信じてしまうような爽やかさを残したままの中年女性だ。


「私、お話を聞いてみたいです」


それはこれまでの静香ならば決して口に出すことのない言葉だった。その言葉に二本松なる女性は笑顔をすこしばかり大きくして返してきた。


「良かったわ。じゃああそこの喫茶店に行きましょうか」


指の先の方にあるのは、幸いまともなチェーン店だったので、静香は彼女に着いて行った。

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