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同一世界観ファンタジー

時間をかけて育む恋もあれば、一瞬で燃え上がる様な恋もある

作者: 月森香苗

※この世界観は独自の物になります。現実世界に準拠しておりません。

※水の安全性などは上記の世界観により安全性が高められています。

※服装は夜会などはドレスですが、通常の服装はトラウザーズを履いたりもします。

※やんわりとスチームパンク的な衣装要素が含まれます。

※王道の美男美女の恋愛物を書いてみてくて書きました。ご都合主義が多く含まれております。


上記前書きをご了承ください。

 艶やかな黒髪は緩やかにウェーブを描き、同色の目は長い睫毛に縁どられている。ぽってりとした唇には濃い赤の口紅を刷き、日に焼けていない肌をもう少しだけ白く見せるようにと施された白粉は、周囲の女性ほどの青白さはないけれども、吸い付いてしまうような肌理の細やかさがよくわかる。コルセットで整えられた腰は細いが、胸元はしっかりと寄せて上げられその豊かさを見せつけ、腰から臀部にかけてのラインが肉付きの良さを感じさせる。 そして口元にぽつんと一つ、黒の点、つまり黒子が彼女の印象を大人びているから色気のある、に変化させてしまう。

 物憂げにほんの少し伏せた瞼、扇の向こうに隠された口元の表情。女性同士の会話の中に立ちながら彼女は周囲からの視線に疲れていた。


「オリヴィア、大丈夫?」

「ええ……周囲の視線が、痛いの」

「どうしようもないわ。貴方、どうしても人目を引いてしまうもの」


 親しい友人たちに囲まれながらそっと守られている女性の名はオリヴィア=シャリエ。シェマチク王国の南東側、『黒の森』と呼ばれる大森林地帯に伯爵領を治めるシャリエ家の長女で、両親と三人の兄に可愛がられて育った17歳の女性である。幼い頃から兄達の理想の女性像を詰め込まれたオリヴィアは、美しい外見と男性を立てる話し方、立ち居振る舞いは優美でありながらどことなく男の目を引いていた。決して愚かではなく、政治に詳しくなくても良いが、知識があれば会話が楽しいという事で近隣諸国の歴史や貴族の振舞いなどを学び、母から教えられた刺繍の腕はこの年にしては十分であると言われるほどである。欠点があるとすれば、内向的で相手の目を見て話す事が苦手で、思った事を言葉にすることが苦手、という事だろうか。

 母に連れられ子供たちだけで行われる茶会に参加したり、そこで知り合った同じ年頃の女性たちと度々交流の場を持つ事はあるけれども、オリヴィアは父と兄達以外の男性と触れ合う事はほとんどなかった。

 オリヴィアの外見と中身の違いに親しい友人たちは危機感を覚えていた。オリヴィアの兄達によって完成しているその外見は、同じ女でも思わず目を奪われてしまうほどの魅力を含んでいる為、夜会では休憩室に連れ込まれてしまうような危うさがある。友人たちはオリヴィアが性に奔放どころか誰よりも純真でいる事を知っているのだが、彼女を社交の場でしか知らない男性は勿論、女性ですらオリヴィアを男好きと勘違いしている節がある事に気付いていた。


「オリヴィア、この果実水おいしいわよ。飲んでみる?」

「あら、ありがとう、ミレイユ。まあ、綺麗」


 おっとりとした返事。グラスの細いステムを持つ指はレース越しだというのに嫋やかさを感じる。可愛らしいベリー類を沈ませたほんのりと紫がかった液体は友人であるミレイユが飲んでおいしさを感じたベリー味である。その色彩を楽しむようにくるりとステムをゆらしたオリヴィアは目を細め微笑みを浮かべる。そっと縁に口を寄せほんの一口、含ませた果実水はどうやらオリヴィアの好みに合ったようで華やかな笑みへと変貌する。

 ほんの少しだけ唇についた液体。淑女であればハンカチーフでそっと拭うのだが、オリヴィアは少しばかり手間を惜しんで友人の中であるからと小さく舌を出してさっと舐めてしまう。その唾液に濡れたほんの少しの舌が、オリヴィアをじっと見つめていた男性たちを刺激するなど予想もせずに。

 ミレイユをはじめとした友人たちは止めることも出来なかったオリヴィアの行動に慌てたように彼女の体を隠す。

 これが他の女性であればはしたないと言われるのに。いや、オリヴィアとて女性達には言われるのだが、男性からは何故か熱烈な視線を更に与えられることになるのだ。欲を含んだその視線の元である目が怖い、とオリヴィアは男性の目を見る事が出来ない。

 細くて華奢な女性、というのがこの国の美人な女性の条件なのだが、それは20年ほど前までの事で近年では肉感的な女性が好まれる傾向にある。しかしそのような事を女性たちが知る手段は少なく、祖母や母親、家庭教師などから教わってきたことそのままを受け入れてきた令嬢たちからはオリヴィアは太っている、だらしがない、という評価を得ている。それであるにも関わらず、このような夜会の場で結婚相手を探しているはずの令嬢たちは男性の目がオリヴィアに向いている事に気付かされるのだ。


「オーリー……と、ご友人の皆様方、妹をいつもありがとう」

「フレデリック様、ごきげんよう」

「今日も素敵ですわ、フレデリック様」

「オリヴィア、フレデリック様のお迎えよ」


 オリヴィアと同じ黒髪は短く整えられ、美しいというよりも男らしい端整さを持つ男はフレデリック=シャリエ。オリヴィアの三歳年上の三番目の兄で、王都にて騎士をしている。シャリエ家は美貌の一族とも言われ、何時の頃からか分からないけれども美しい男女が婚姻を結び、その子供もまた美しい相手と婚姻を結ぶという事を繰り返してきた、まさに美を有している一族である。オリヴィアの祖母は先代国王が憧れて止まなかったと明言している程の美を有しており、オリヴィアの母もまた現国王の初恋の人として名を知られている、どちらも社交界の華である。

 美と知を兼ね備えている彼女たちは王族に望まれながらもシャリエ家に嫁いできた経緯を持っている。そのシャリエ家に生まれた久しぶりの女子がオリヴィアで、現在三人の王子を持つ国王から熱烈な婚約の打診を受けているが、オリヴィアの両親と兄たちは全員反対している。

 何故なら、その王子たちは揃いも揃ってろくでもないのだ。王太子である長男は大陸随一の学園を有するルクセアウス国へ留学した際、羽目を外して複数人の女性と関係を持って外交問題に発展しかけた経験を持っている。第二王子は女性の痛がっている顔が好きという噂があるほどで、城を抜け出しては王都にある貴族用の娼館でその欲を充たせる女性を買っているという評判がある。第三王子はフレデリックの上司で騎士団に所属しているのだが脳みそまで筋肉なのかと思われるほどの鍛錬好きである。

 そして誰もがシャリエ家の求める美の基準を満たしていないのだ。絶世の美でなければならないというわけではないのだけれども、この三人の王子はどことなく残念な顔立ちなのだ。先代国王も現国王も端整な顔立ちをしているのだが、王妃たちは総じてぱっとしない顔立ちである。無論それが悪いというわけではない。人を安心させる穏やかな笑みを浮かべる王妃は、国民から信頼を得ており、他国からも王妃の人気は高い。

 ただ、シャリエ家はその美に特化しているからこそ妥協できないラインがあるのだ。逆を言えば、その美があるのであれば出身にこだわりはない。平民であろうとも下位貴族であろうとも庶子であろうとも、シャリエ家は受け入れる。知は後からでも叩き込むことは出来る、というのが家訓の一つである。

 そのようなわけで、王家というよりも初恋を拗らせオリヴィアの母を娶ることが出来なかった国王が、子供たちの代で繋がって姻戚関係になりたいというあからさまな欲望を却下する中、オリヴィアはフレデリックのエスコートで夜会に参加しては誰かと縁を繋ごうとして視線で疲れ果ててしまっていた。

 大切な友人たちに守られていたオリヴィアはフレデリックの差し出す手にそっと己の手を重ねる。一歩歩くごとに赤ワインのような濃い赤のドレスの裾が揺れる。それまで伏し目がちだった目が確りとフレデリックに向けられ、更に安心を前に出した笑みを浮かべるのだ。彼女に近付きたいが為にじっと見ていた男性たちはその笑みに己の中にある支配欲が刺激される。信頼している者にしか見せない笑みというのは特別感があり、それを自分に向けてもらいたい、自分だけのものにしたいという欲。じとりとした熱が更に含まれた視線がオリヴィアに集められ、その視線に体を震わせたオリヴィアはそっとフレデリックに触れる。


「どうした、オーリー」

「視線が……怖くて……」


 デビュタントを迎えてからというもの、異性と知り合う社交の場に出れば顔と胸元を欲に孕んだ目で見られ続け、オリヴィアは気持ち悪さを感じていた。外見だけを求められることに対しての嫌悪感。今宵もまた同じように情欲に満ちた視線にオリヴィアの心は沈んでいくばかりだ。

 フレデリックは夜会に出るたびに妹の育て方を間違えたと後悔する。彼を含んだ兄達はオリヴィアを彼らの思う理想の女性にしたいというある種の人形遊びのような感覚で「女性とはこうあるべきだ」と押し付けたのだが、如何せん彼らの基準もまた、華やかさの中に清楚を交え、触れたいのに触れさせてもらえない麗しの華とも言われた祖母や母なのだから妹も似たように育つと思い込んでいたのだ。彼らにとってオリヴィアが外見は似たようなものなのに祖母や母と違い内向的であった事や、家族以外と異性に触れ合う機会が極端に少ないのは完全に想定外の出来事であった。

 溜息一つ吐く姿すら過剰な色気を放出するオリヴィアにフレデリックは頭痛が止まらない。フレデリックもまた女性に好まれる外見で、父によく似ていると言われている。それこそ一夜を願う夫人や未亡人、婚姻相手にと望む令嬢たちに囲まれることはある。彼の美貌もまた女性を狂わせるのだが、それでも問題にならないのは騎士特有の強烈な威圧感と同時に清廉さを有し、潔癖を前面に出せば相手が引くことを知っているからだ。

 なお、長男のジェラールは次期伯爵として父から後継者教育を受け、現在も領地で補佐として働いているが、彼はどちらかというと母親に似ており女性を感じさせる美を有していた所為でルクセアウス国に留学した時には女性のみならず男性からも思いを寄せられベッドに押し倒されたなどの話は枚挙に暇がなく、国に戻ってからも後継者だと分かっていながら愛人にならないかなどの誘いがあったなど色んな話を残している。ジェラールの妻はシェマチクの南にある、南部で接しているフィルエ国の更に南にあるウステプという国の王女で、国王の愛妾の娘であり、ルクセアウスで留学した時に知り合ったという褐色肌の美女である。

 次男のクロードは祖父によく似た端整とも女性らしいとも異なる、どちらかというと美少年という言葉が似合っており、フレデリックと並んでもクロードの方が弟に見えるほど若く見える。その彼は領地にて商会の副会長として働いており、いずれは商会を取り仕切る存在になると言われている。彼もまた多くの女性の目を奪っていたが、それは愛玩の意味が強い。彼は独占するのではなく女性の中で共有されるべきであるという可笑しな不文律が存在していた。そんなクロードが選んだのは平民で大層美しい顔立ちの女性だった。

 誰もが自由に恋愛をし、美しい相手を選んできた中で、久しぶりのシャリエ家直系の女性であるオリヴィアはその確かな美しさも魅力的な肉体も何もかも有していながら、近しくなればなるほど知る女性ですら庇護したくなるほどの弱さを持っていた。傲慢にならなくてよかったと思えばそうかもしれない。もしも母に似たような性格であれば社交界の華どころか女王になっていただろうし、男性からの誘いを受ける様な性格であればとっくに純潔を失っていただろう。


 フレデリックの考えをオリヴィアが知る由もなく、兄の手に己の手を重ね、軽やかにダンスを踊る中に体を滑りこませる。黒く艶めく髪を持つ二人の男女が兄妹であるのは誰もが知る所で、美の集大成が音楽に合わせステップを踏むたびに周囲の視線が集まり、溜息が漏れていく。過剰な装飾を施すこともなく、ありふれたシンプルなドレスを身に纏っているだけのオリヴィアは彼女自身が夜の宝石のような美しさであるし、兄のフレデリックもまた真っ直ぐに伸びた背筋と鍛えられた筋肉がオリヴィアを支えながら息の合った踊りを披露する。

 ふと、オリヴィアは欲を孕む視線とは異なる強い視線を感じる。兄から視線を逸らしそちらを向くと、美しいプラチナブロンドの髪の毛をした男性がオリヴィアをじっと見ていた。周囲と異なるのはその視線には欲は無く、ただ観察するようなものだったからこそ、オリヴィアは不快感を感じることなく見る事が出来た。

 ぱちぱち。長い睫毛を数度瞬かせても視線は逸れない。フレデリックのターンに合わせてオリヴィアもターンをする。ふわりと揺れるドレスの裾。何度も踊ってきたステップは信頼している兄の腕の中にいる限り間違える事は無い。再び先ほどの男性がいた場所が見えるポジションに移動したところで視線を向けると、やはりまだオリヴィアを見ている。

 壁に立ちながらじっと見つめてくる男性の顔は美しい。そして何処かで見たことがある様な気がする。


「オーリー、何かあるのか?」

「ええ。あちらの壁にいらっしゃるプラチナブロンドの髪の男性を、お兄様ご存じ?」


 ポジションを変えフレデリックがオリヴィアの告げた場所にいる男性を見た瞬間、僅かに息を呑んだのがオリヴィアにも分かった。つまり、フレデリックは彼のことを知っているのだ。


「お兄様、どなたかしら」

「……国王陛下の歳の離れた弟君だ。前国王陛下の最後の妾妃のお産みになられた方で兄上と同じ年、つまり25歳だな。まもなく臣籍降下する予定で大公になられる予定だ」

「まあ……先程から視線を頂いていたの。ねえ、お兄様。王弟殿下はお兄様のお知り合い?」

「いや。お前を見ていたんだろう」


 くるり、くるり。ターンを繰り返し、曲が終わると少し体を離して互いに礼をする。そうして再びオリヴィアの手をフレデリックが取るとミレイユたちの元へと戻る。フレデリックはオリヴィアをエスコートした時は必ず妹とファーストダンスを踊る。その次はオリヴィアの友人の中から一人。そしてそこからオリヴィアが帰りたいと願うまでがダンスの機会なのだ。本日、友人たちの中から選ばれたのはミレイユで、何度か踊っているミレイユはにこりと笑ってその手を取る。

 ミレイユは華やかな薔薇のような美貌は無いけれども、百合の花のような凛とした清楚さを持っている美しい女性だ。オリヴィアはフレデリックが誰かを選ぶのならばミレイユであって欲しいとこっそり思っている。そして義姉になってもらって姉妹で仲良くしたい。

 兄嫁たちもオリヴィアにとってはとても優しい姉ではあり、可愛がってもらっている。それでも幼い頃からの友人であるミレイユと一緒に居たいと望んでしまうのは仕方のないことだろう。


「ミレイユ様、フレデリック様と並ばれると本当に『剣と百合』の物語のようでお似合いよね」

「オリヴィア様もミレイユ様とフレデリック様を応援していらっしゃるのでしょう?」


 再び壁の花になるオリヴィアを両脇で固めるのはミレイユと同じく幼い頃からの友人であるナタリーとセリーヌで、最近流行しているという恋愛小説のタイトルを口に出しながら小さな声でオリヴィアに囁く。フレデリックを狙う女性は多い。大きな声でこの会話をするだけでミレイユが思いもよらぬ被害を受ける可能性があると思うと、小さな声になってしまう。扇を手に口元を隠しながらひっそりと、「内緒ですけど、わたくしもそうなればいいと思っていますの」と言えば、ナタリーもセリーヌも小さな笑い声をあげる。二人はすでに婚約者がいて、フレデリックとどうにかなりたいとは思っていない。ダンスに誘われると受けるのは思い出作りの一環でしかないことはオリヴィアも知っている。

 ミレイユはかつては婚約者がいたのだが、二年ほど前に相手の有責で解消をしている。それから未だに婚約をしていない。ミレイユがフレデリックの事をどう思っているかは分からないし、フレデリックがミレイユをどう思っているのかも分からない。ただ、傍で見ているオリヴィアはお互いが向ける視線は自然で優しいもので、一緒になってくれたらいいのに、という願望を消す事が出来ない温かさに満ちているのだ。

 二人の姿を見ながらオリヴィアは反対側の壁にいる王弟殿下のいた場所を見る。既にそこには誰もおらず、少しだけ落胆した気持ちになるのは何故だろうか。何の欲のない観察するだけの視線というのが新鮮で、初めてオリヴィアは男性の視線を恐ろしいと感じなかった。

 夜会で出会いを求めなければならないのに、どうしても兄弟以外の手を取って踊る事など出来ないまま屋敷に戻るばかりであった。シャリエ家は余りにも特殊な一族なので無理に政略的な結婚をする必要はない。内向的な性格のせいで積極的に自分から話しかける事が出来ない自覚があるオリヴィアは、長兄や次兄の様に出会った瞬間に運命を感じたいと言っていた。

 恋愛小説に出てくるような、「真実の愛」というわけではない。ただ、どうしても目が奪われ心惹かれ欲しくなったのだという。立場など関係のない、求めるからこそ欲しくなるという強烈な感情をオリヴィアは知らなかった。だから、王弟殿下と目が合った瞬間に湧いてきた感情がそれに近いものだと直ぐには気付くことが出来なかった。

 ナタリーとセリーヌがフレデリックとミレイユのダンスを楽し気に見ているのに合わせてオリヴィアもそちらを見つめる。

『剣と百合』は王家を守る騎士とその騎士を愛した女性が戦に巻き込まれる中で、互いの愛を確かめ合う正統派の恋愛小説だ。一度は離ればなれになった二人が、戦が終わり傷だらけになっても戻ってきた騎士を教会で祈り続けた女性が出迎え抱きしめるシーンはオリヴィアもそっと涙を零した。騎士と女性の外見がフレデリックとミレイユに似ているのも、ナタリーとセリーヌが想像を働かせてしまう一端を担っているのは間違いない。

 ミレイユは小説の中の女性の様にただ祈るだけの女性ではない。見た目は清楚で慎ましいが、実際は馬に乗って駆る事も出来る行動力のある女性だという事を知っているオリヴィアは、フレデリックにやはり似合いだと思う。祖母も母も美しいが、それ以上に積極的で行動的だ。彼女たちを理想の女性像の基礎にしているのであれば、間違いなくフレデリックの好みはミレイユだろう。

 ぼんやりとした目でダンスを眺めていたオリヴィアはざわめきが次第に己の近くに寄ってきていることに気付いていなかった。不意にナタリーとセリーヌが腕を突くのでふと意識をはっきりさせると、直ぐ近くに男性が立っていた。プラチナブロンドの髪の毛、空を思わせる鮮やかなブルーの目。先程まで壁でじっとオリヴィアを見ていた、王弟殿下がそこにいた。


「オリヴィア=シャリエ嬢。よろしければ俺とダンスを」

「え……」


 すっと差し出された手にオリヴィアは一瞬理解が及ばなかった。だが、両脇にいた友人二人が、体を寄せ、「オリヴィア、ほら、お誘いよ!」と急かしてようやく王弟殿下から誘われているのだと認識出来た。フレデリックほどの背丈はないけれどもクロードの様に小柄でもない。兄達とは異なるすっと通る鼻筋と涼やかな目元。子供が幼い頃に読んでは心をときめかせる様な甘い顔立ちではないけれども、男性らしい美しさを持つ王弟殿下の視線はやはり欲を含まない、ただオリヴィアを見極める様な観察するようなもので、それが心地よくてまるで兄を前にしているように安心できると判断出来た。

 ほんの少し目尻を下げ笑みを浮かべたオリヴィアはそっとその手に己の手を乗せる。


「わたくしでよろしければ」


 その夜、夜会に参加した者たちを中心に一気に話が広がる。今まで家族以外と踊る事のなかったオリヴィア=シャリエが、これまた誰とも踊った事のない王弟殿下とダンスをした、という話が。



「ねえ、オリヴィア。王弟殿下から婚約申し込みがきたって本当?」

「何を言っているの?ミレイユ」

「最近の社交界で物凄い噂が広がってるわよ」


 伯爵家の令嬢であるミレイユに招待を貰い王都のタウンハウスを訪れたオリヴィアはミレイユからとんでもない話を聞いて驚きの表情を崩す事が出来なかった。夜会に出る時のオリヴィアはその体型を惜しみなく見せる色気を前面に押し出しているものだが、気心の知れた友人であるミレイユの家を訪問する際は、少し甘さを見せる可愛らしいフリルのついたワンピースを好んで着ている。化粧も薄く落ち着いたものを施しているが決してそれが似合わないという事は無い。

 招待をしてくれたミレイユは男性のようなトラウザーズを着用している。少し前までは女性がトラウザーズを履くなど考えられなかったのだが、ミレイユの様に馬に乗る女性が増えてきたこともあって、平民から広がり始めたその恰好が貴族にまで浸透して来た。それでもまだ他の伯爵家の令嬢などは抵抗があるのだが、ミレイユは紹介されて積極的に着るようになった。愛馬に乗るのも楽で、普段の所作もワンピースやドレスの裾捌きを思うとだいぶん気が楽になるのだという。

 オリヴィアも一度着用したことがあるのだが、細身のミレイユに比べて臀部や太腿に肉がついている所為で兄達から盛大に反対された。オリヴィアも余りにも余裕のないトラウザーズに似合わないと着用を諦め、ワンピースを着るようにしている。ミモレ丈のワンピースはベースが濃紺でスカートの裾に二本の白いラインが入っている。胸元にはふんわりと大きな白のリボンで袖は肩から二の腕にかけて少しふんわりと丸みを帯びるように膨らませ、一度絞ると、そこから手首に向かって広くなるように作られている。袖口にフリルがついていて可愛らしいシルエットになっているワンピースだが極端に甘さを前面に出さないのはウエスト部分を絞るデザインコルセットがついているからだろう。コルセットには三本のベルトがついており、少しばかりハードな印象がつくことで全体的な印象の統率をとっている。

 服の流行はルクセアウス国から始まるとも言われ、ルクセアウス国でしか整備されていなかった蒸気機関車が大陸全土に広がるに従って、ファッションも様々なものが取り入れられるようになってきた。勿論、国をまたぐし宗教的な観念からも受け入れられないものはある。それでも若い女性たちは流行の最先端を常に望み、オリヴィアもその流れに逆らわないようにしている。

 さて、そんな二人が向かい合い、オリヴィアが紅茶を、ミレイユが南国から輸入され広がりを見せつつある珈琲を飲んでいる最中に落とされた爆弾。ぽかんとミレイユの顔を見つめるオリヴィアに、ミレイユは可愛いなぁという内心の声を漏らさないようにしながら、この一週間で王都中に広がった話を話題の中心であるオリヴィアに告げた。


「普段はフレデリック様やお兄様方としか踊らない『妖艶なる社交界の蕾』のオリヴィアが王弟殿下の手を取るだけでも奇跡なのに、王弟殿下も今まで夜会に参加はしても踊った事が無いのだから何かあるのかもって思うのは当然じゃない?」

「何かしら、その『妖艶なる社交界の蕾』というのは……」

「いずれ社交界の華になるのは間違いないという事でしょう?で、実際の所はどうなの?」

「そのようなお話は頂いていないわ。あの時は、王弟殿下の眼差しが他の方と違っていたから……お兄様の様に安心できたの」


 誤魔化そうと思った。しかし、誰よりも大事な友人であるミレイユに嘘は吐きたくないし誤魔化しもしたくはなかった。カップをソーサーに戻し、両手を重ねて指を絡めながら落ち着かない心をどうにかしようとする。


「お兄様方がお義姉様方と出会われた時、運命を感じたとおっしゃってたの」

「ふぅん。運命、ねぇ」

「一目見た時から心が奪われて目も離せなくて、どうにもならない気持ちを抱いたとおっしゃるのね」

「お二人とも美しい女性だもの。確かに目を奪われるわ」

「確かにシャリエ家はお顔は大事な要素だけれども、内面から滲み出る美を大事にしているの。ただ美しいだけの方ならたくさんいるわ。でも、内面も美しい方は少ないと思うの」

「それはわかるかも。ほら、ミザラインド侯爵家のルシア様。美しいお顔だけれども意地の悪さが出てるものね。フレデリック様と踊ってると睨まれちゃうの」


 肩を竦めながら砂糖を入れずに珈琲を飲むミレイユは流行の最先端を行く女性だとオリヴィアは憧れてしまう。一度だけ飲ませてもらった珈琲はあまりにも苦すぎて最初の一口で断念してしまった。紅茶には何も入れなくてもおいしく飲めるけれども、珈琲は無理だった。

 とろりとした蜂蜜のような金色の真っ直ぐな髪の毛を後頭部の高いところで一つに括るミレイユは男性のような恰好でありながら女性らしさをきちんと合わせるようにしており、どれだけ見つめていても綺麗で、フレデリックには勿体ないくらいに憧れてやまない。

 そんなオリヴィアの内心を知らないミレイユは視線で続きを促す。


「わたくしね、あの日、お兄様と踊っている時に強い視線を感じたの。他の男性たちは、こう……憂鬱になる様な気味の悪い視線を向けてくることが多いのだけれども、王弟殿下はそのような事は無くて、ただ真っ直ぐにわたくしを見てくださったの。それこそ観察でもしてるのかと思うほど。それでもわたくしは不快に感じなかったわ」

「ああ……他の男性はオリヴィアの顔と胸とお尻を見るものね。あれ、気付いていないと思っているらしいわよ。じっと見られたら気付くっていうのにね」

「本当よね。それで、その後にお誘い頂いた時も変わらない視線で、まるで家族のような視線だったから安心できて。初めてだったの……その手を取っても決して不安にはならないと思ったのは」


 ほんのりと頬を赤く染めたオリヴィアの様子は、まるで恋をする少女のようで。否、彼女は確かに恋をしているのだ。夜空の色をした目が潤み、赤く染まった頬。目尻は下がり、唇の端の黒子が色気を更に加速させようとする。対面にいたミレイユにその色気が直接ぶつけられ、思わずぐらりとしてしまったのだが、これが他の男性なら今すぐに閨に連れ込まれてしまうほどの破壊力だ。二人しかいない空間で良かったと本当に思う。

 オリヴィアが来るときは絶対に男性の使用人の目に入らないように配慮している。女性でもこのようにおかしくなりそうなのに、男性の使用人など、道を外してしまいかねない。


「踊っている最中も王弟殿下はお優しくて……わたくし、お兄様とは違うけれども、心惹かれてしまったわ……ねえ、ミレイユ。わたくし、王弟殿下に恋をしてしまったのかも……あの僅かな時間で……」


 もう顔は真っ赤で、組んでいた手を外して両手で顔を覆うオリヴィアは、初めて抱いた感情にどのようにすればいいのかわからず戸惑う唯一人の少女だった。

 ミレイユは椅子から立ち上がるとオリヴィアの傍に寄り、オリヴィアの手をそっと握ると立ち上がる様に促し、室内にあるソファに誘導する。横に並んで座ると、ミレイユはオリヴィアの手を確りと握りながら目を潤ませるその顔を見つめる。


「ねえ、オリヴィア。貴方のお兄様達のように一瞬で燃え上がる様な恋をすることもあれば、長い時間をかけて育む恋というのもあるのよ。恋に落ちるのに正しい方法なんてないわ。貴方はあの僅かな時間で恋に落ちた。それだけのことよ」

「でも……王弟殿下なのよ……身分が違いすぎるわ」

「あら。貴方には王子殿下からの婚約の打診だってあるのでしょう?つまり、王族でも問題ないという事よ」

「……本当かしら。いいのかしら」

「残酷な事を言えば、王弟殿下がオリヴィアを同じように想ってくれるかは分からない。でも、貴方が王弟殿下をお慕いして恋をしても、それは誰にも咎める事の出来ない貴方だけの自由なの。王弟殿下への恋心を無かった事にする必要はないわ」


 ミレイユの優しい微笑みの裏には、彼女がかつて味わった苦しみが滲んでいた。婚約者との関係を終わらせた経験を持つ彼女だが、その時の彼女は確かに婚約者を愛していた。結果としてその愛は終わる事になったけれども、その時のミレイユは泣いた後にすっきりとした表情で言い放ったのだ。


『私があの方を愛したことに悔いなんてないの』


 涙を拭ったミレイユはただただ、美しかった。

 ミレイユの言葉が胸にすとんと落ちてくる。初めての恋という名の感情を抱いたオリヴィアはミレイユの目をまっすぐに見つめる。思うだけならば自由だ。これが誰かを傷つけるものであれば許されない。しかし、オリヴィアの中でそっと花を咲かせるのであれば、誰の許可もいらない。

 一度ぎゅっと瞼を閉じて心の中の感情を整える。そうして再び瞼を開いたオリヴィアはいつもの彼女らしい笑みを浮かべる。


「ええ、そうね。わたくしはあの方に運命を感じた。恋に落ちたわ」

「オリヴィア、今の貴方はとても綺麗よ」



 ミレイユと話をしてから二週間後、社交シーズンも、終わりに近づいてきたその日は、父親の学生時代の友人であるハイドリッヒ公爵家で夜会が開かれることになっていた。オリヴィアは父であるフランツにエスコートされ会場となる公爵家へと赴いた。母親は一足先に長兄夫婦と共に領地へと戻っており、フレデリックは別の女性をエスコートするのだと宣言していたので、父と共に参加することになったのだ。フレデリックが誰かを誘うというのは初めてのことで、誰なのかと問うては見たけれども言葉を濁して明確な答えは得られなかった。会場に行けば自ずとわかるのだととりあえずその場を引いたオリヴィアだが、何となくの予想は出来ている。

 ミレイユの家から戻ってきたオリヴィアにフレデリックがさりげなさを装いながらも全く隠せていない様子でミレイユが招待されているのか、誰かにエスコートされているのかを聞いてきたのだ。つまりは、そういう事なのだろう。

 兄がミレイユへの思いを抱いていたのだと改めてわかって喜ばしい反面、ミレイユがフレデリックの事をどう思っているのか、オリヴィアには判断がつけられない。だが、ミレイユはオリヴィアの兄だとしても苦手だと思っている人とダンスはしないので嫌ってはいないだろう。兄の思いが少しでも通じますようにと願いながら、オリヴィアは父の手に支えられながら馬車から降りた。

 まだ袖を通していなかったドレスの中から選んだのは、濃いブルーをベースにしたマーメイドラインのドレスだ。黒の髪の毛に黒の目はどの色でも合わせられるので、その時の気分で選ぶのだけれども、普段はそれでも体の線を隠すようなAラインのドレスを選ぶことが多い。誰かに性的に見られる事に嫌悪感を抱き、それが嫌で仕方なかった。しかし、性格は大人しいけれども外見の華やかさは今更変える事は出来ない。長い睫毛も、ぽってりとした唇も、その唇の傍にある黒子も、それがオリヴィアなのだ。

 だからオリヴィアは父に入手してもらった参加者リストに王弟殿下の名前を見ると、自分に最も似合うと思っているマーメイドラインのドレスを選んだ。胸元と耳を飾る宝石はドレスに合わせたアクアマリンだ。王弟殿下の参加を見て喜んだオリヴィアを見てフランツは己の娘が彼の人に恋をしたのだとすぐに気付いたが、何も言わないでいた。

 夜会に行っても男性の不躾な視線に心を疲弊させていた娘が、初めて恋をしたのだ。過保護な兄達が過剰に守ってきてしまったせいで異性と触れ合う事のなかったオリヴィアに訪れた折角の機会だ。まもなく大公位を得ることになる王弟殿下が相手であれば叶わないかもしれない。それでも、その恋を大事にしようとしている娘をフランツは見守る事にしたのだ。もしもその思いが報われない結果になったとしても、誰かを思った時間がオリヴィアという人間の魅力を更に輝かせるのだとフランツは知っていたから。

 フランツの耳にも先日の侯爵家で行われた夜会で起きた出来事の話は届いていたが、生憎噂にある様な婚約申し込みは来ていない。王家の王子殿下からの

 申し込みを断り続けている話は有名で、それの所為かもしれないと思わないでもないが、今日の夜会でどうなるかが分かるだろう。

 妻の目の色であるエメラルドのラペルピンとカフスボタンを視界に入れたフランツは、美しく装っているオリヴィアと共に歩き出す。年齢の割にまだまだ若さを見せるフランツはオリヴィアの親世代の憧れの方である事に間違いはなく、その娘もまた母に似た面差しを残しながらも初々しさがある美しさ。並び歩けば誰もの視線を一度は捉えてしまう。

 尤も、シャリエ家の人間にしてみればいつもと何ら変わりはない光景なのだけれども。


「フランツ、来てくれたんだな」

「久しぶりですね、ハイドリッヒ公爵」

「おいおい、私とお前の仲だというのに他人行儀すぎないか?おっと、そちらの令嬢はお前の大事な娘御かな?」

「お初お目にかかります、ハイドリッヒ公爵様。フランツが娘、オリヴィアにございます」

 優雅に一礼したオリヴィアに満足げな笑みを浮かべる主催者のハイドリッヒ公爵はフランツへと視線を向ける。この後話があるという合図なのだろうか、フランツは静かに頷く。親しい友人の間柄というのは間違いないのだろう、視線だけで話が通じるのはそれだけの信頼関係が構築されているのだと分かる。

 フランツの腕に手を添えながらオリヴィアは夜会の定位置である壁へと向かう。王族に連なる公爵家が主催するともなれば招かれる人物も厳選される。リストで確認した分には、公爵家と同じ派閥の貴族が招かれている。王弟殿下が参加するという事は公爵は王弟に対して友好関係を築いているという事。ここでもしも会う事が出来て、もしも話をする機会が得られたとして、家に迷惑をかける事は無いという事だ。


「おや、オーリー、見てごらん。フレデリックと……あれはミレイユ嬢かな?」

「やはりお兄様はミレイユをエスコートしていたのね」


 いつもは妹と共に参加しているフレデリックがその友人であるミレイユをエスコートしているという状況に、フレデリックへ思慕を募らせている令嬢たちの強い視線が向けられる。フレデリックは爵位を継ぐ事のない騎士で、良くて騎士爵、そうでなければただの平民になるしかない男だというのに、フレデリックと婚姻を結びたい令嬢は多い。フレデリックを婿に招きたいと願う令嬢も少なくない。

 その中でのミレイユが隣にいるという状況は令嬢たちからしたら穏やかではないだろう。しかも、そのミレイユはフレデリックの目の色であるグリーンのドレスを着ている。宝石も同色で、オリヴィアからしたらフレデリックの執着を感じさせる一式。フレデリックはミレイユと共に公爵の元へ行き挨拶をするとその足でフランツとオリビアの元へやってくる。


「オリヴィア!今日のドレスはいつも以上にとても素敵よ!」

「本当?ありがとう。ミレイユのドレスも素敵だわ。そのドレスって」

「そ、その……フレデリック様から……」

「綺麗だろ?」


 ほんのり頬を染めるミレイユは先日までと異なり明らかにフレデリックと距離が近くなっている。ミレイユの腰に手を添えるフレデリックの顔が幸せそうなのだがニヤけ顔なのが何となく不満に感じる。兄の事は大事だけれども、ミレイユはオリヴィアにとって大事な友人で、その友人を独占しようとするフレデリックに微かな嫉妬をしてしまう。勿論、二人が結ばれるならばこれ以上ないほどの幸せなので文句はないのだけれども。


「ねえ、ミレイユ。今度は貴方のお話を聞かせてね」

「もちろんよ、オリヴィア」


 やはりミレイユは綺麗だ。心の底から幸せと分かる笑みを浮かべるミレイユを見つめながら、オリヴィアは二人がダンスをする為に場所を移動するその後ろ姿を眺めていた。フランツと懇意にしている人々が挨拶に来る度、オリヴィアはその隣で笑みを浮かべて挨拶を返すのだが、例え親世代とは言えどもやはり一部の男性の表情が気にかかり落ち着いてはいられなかった。そういう人物たちとの会話はフランツが速やかに終わらせていたのでほんのわずかな時間ではあったけれども、重なれば精神的な負担になるし、何よりも彼らが連れている令息たちの目がそれ以上に不快であった。口に出せないまま扇の下に隠して笑みを浮かべていると、一人の令息が尊大な態度を隠すことなく近付いてくる。


「オリヴィア嬢、よろしければダンスを」

「……」


 本来であればまず隣にいる父に伺いを立てるべきだというのにそれを無視しての直接の誘い。その時点でフランツとオリヴィアは不愉快に感じた。それなのに勝手にオリヴィアの手を取り甲に口付けようとするのは無礼を重ねるばかりであった。


「失礼だが、娘とのファーストダンスは私とだ。ところで君はどちらの子息かな?」


 女性から手を差し出してようやく挨拶としての手の甲へのキスを許されるわけで、勝手にするのはマナー違反である。相手の口が寄るよりも早く、フランツはオリヴィアの手を取ると彼女の体を後ろへと隠す。


「これは失礼しました。エアフルト家のグスタと申します。それではその次の予約をしてもよろしいでしょうか?」


 エアフルト家と言えば侯爵家の一つで、シャリエ家よりも家格が上であることは間違いない。伯爵家の令嬢が侯爵家の令息の誘いを断る事はないだろう、というその感情が露になっているにやけ切った笑い顔。彼は果たしてシャリエ家を知らないのだろうか。


「無論、お断りさせていただきます」

「なんだと……!」

「我が家に爵位での脅しは意味がありませんよ」


 傲慢な態度をしていた令息が何か告げようとする前にフランツは鋭い言葉で切り捨てる。それは事実だ。シャリエ家はどのような爵位の相手であろうとも尊敬すべき人には尊敬の念を込めた対応はするが、そうでなければ拒絶し続けてきた一族だ。己の領地を最低限守れるのであればそれで良し。もしも圧力を掛けようとしても、父や母、祖父母、兄達などを助けてくれる親切な方たちは多くいるのだ。

 それに、嫁入りしてきた女性達とて無能な者はいない。長兄の妻は他国の王族であるし、次兄の妻は国内有数の大商会の娘だ。コネクションは広い。だからこその王族からの婚約申し込みも拒絶出来るのだ。それは貴族では割と知られている話なのだが、この令息は知らなかったらしい。

 圧倒的美貌を前に婦人たちは「そうよね」「フランツ様、相変わらず素敵だわ」など頬を染めながら小声で話をしているし、男性であればフランツの妻、オリヴィアの母であるミランダを思い浮かべては「ミランダ夫人を不快にさせてはいけないな」など囁いている。顔だけの一族と言われないように、さりとて強大すぎる権力を持ちすぎないように、王家を立てながらも変わらない信念を貫くシャリエ家は他国では無礼と言われるのだろうけれども、極めた美というのは人の心を掴んで離さないし、最大限に利用してこそ美というのは輝くのだ。という事をオリヴィアの目の前で実践しているフランツは余裕の態度を崩さない。

 そもそも、フランツ自身がこの夜会の主催者である公爵と親しくしており、公爵は親友だと言って憚らない。仮に侯爵家によって圧力を掛けられたとしてもそれ以上の力が知らない内に働くのは考えなくても予想出来る結末。


「そうだな。そして、シャリエ伯爵の次のダンスは私が申し込む予定だ。君は引くと良い」


 蔑ろにされたと怒りに顔を赤くしていたその令息だったが、割り込むように入ってきた声に勢いをつけて振り向き、そしてさぁ、と血の気が引くようにその顔色を白に変えていた。そこにいたのは王弟殿下で、この場においては誰よりも高貴な身分の方。仮に先程の令息が無理を通そうとするのであれば王弟殿下を相手にしなければならない。果たしてそれが出来るのであろうか。


「シャリエ伯爵。令嬢をお誘いしても良いだろうか?」

「オリヴィエ、どうだい?」

「え、ええ。喜んで」


 フランツ越しにその誘いを受けたオリヴィアは胸の高鳴りが止められない。顔を合わせるのは二回目で、王弟殿下の前回とは異なり少しばかり優しい表情はオリヴィアに注がれている。噂は本当だったのかなど密やかに広がっていく囁き声の真ん中にいるオリヴィアと王弟殿下は周囲など気にする様子もなく二人の世界を作り上げる。許可を得て早々二人の世界に入ってしまったのを見て、フランツは呆れ顔になりながら、呆然と立ち尽くしている失礼な態度をしていた令息へと視線を向ける。その令息はびくりと体を揺らすと、小さく舌打ちをした後その場から去っていく。彼の事など誰ももう気にしていないだろう。

 

「殿下、私は公爵に呼ばれていますので、よろしければオリヴィアとこのまま踊っていただけますでしょうか」

「お、お父様?」

「ああ。それでは行こうか、オリヴィア嬢」


 フランツとのダンスの間に落ち着こうと思っていたのに、その父はあっさりとオリヴィアを王弟殿下に委ねてしまう。委ねられた王弟殿下はしっかりと頷いた後、音楽が終わりそうなタイミングに手を差し出してくる。恐る恐るではあるが、それでもオリヴィアはその手に手を重ねる。大きな掌が華奢なオリヴィアの手を壊れ物に触れる様な優しさで受け止めた。

 曲が終わり、数組と入れ替わる中で王弟殿下と共にホールに向かったオリヴィアとフレデリック、ミレイユがすれ違う。小さく頷きながら頑張れ、と口を動かしたミレイユにオリヴィアも同じように小さく頷く。

 二人の様子を見た周囲が自然と道を作り、ホールの中央へと立った二人は向かい合う。ゆったりとしたワルツ曲が流れ、オリヴィアは王弟殿下のリードに合わせてステップを踏む。


「オリヴィア嬢、そのドレスの色は、期待してもいいのだろうか」

「……は、はい。失礼だとはわかっているのですが、殿下のお色を……」

「ベルンハルトだ」

「え、そ、それは」

「君になら名前を呼ばれたい」


 近い距離で見上げると優しい表情で見下ろされている事に気付かずにはいられない。王族の名前を呼ぶという意味はオリヴィアとてわかる。恐れ多すぎるが、許されたその名をそっと、宝物に触れるように音にする。


「ベルンハルト様……」

「ああ」

「お慕いしております」


 スローテンポな曲に合わせてのステップ。まるで人魚を思わせる裾が鮮やかに翻る。ほぅ、と周囲からため息が漏れる程、二人は視線を集めている。ぽろりと零れたオリヴィアの言葉はとても小さいものであったけれども、目の前の男には間違いなく届いたようだ。

 曲が終わり、人気の少ないテラスへと誘われる。休憩するためのその場所は数脚の椅子とテーブルが並べられており、室内から出る前に二人分のグラスをベルンハルトは受け取っていた。その一つを手に、流れる様な所作で椅子に座らされたオリヴィアの隣に男も座る。

 会場内のざわめきは止まない。庭園に通じるテラスに出てくる客は今のところいない。いたとしてもベルンハルトがいる以上、場所を変えるだろう。緊張のあまり喉が渇いていたオリヴィアは、レモンとオレンジと言った柑橘類がふわふわと揺蕩う果実水を口に含む。爽やかな風味が広がり、緊張で強張っていた体がほぐれる。


「先程の言葉だが」

「……先日初めてお会いしただけですが、あの日以降ベルンハルト様のお顔が忘れられないのです」

「そうか。私もだ」

「え?」

「あの日、君の兄上と踊る姿を見て目を奪われた。君という存在を目に焼き付けようとしただけだったが、目が合った瞬間どうにもならない感情に支配された。どうしてもダンスを申し込みたくなって傍に近づいて君に触れる許可を得た。今日だってそうだ。伯爵が招待されていると聞いて、もしかして君も来るかもしれないと思ったらどうにもならなかった」


 レースの手袋に包まれたオリヴィアの手にそっと触れたベルンハルトの熱が伝わる。ミレイユが言っていたように育む恋もあれば、一瞬で燃え上がる恋もある。正しい答えなどなく、人によって異なるそれがオリヴィアとベルンハルト、双方が互いに向かう様に示された。交わるはずのない人生がたった一度の出会いで絡み合い繋がる。それを人は奇跡と呼ぶか、運命と呼ぶか。


「明日にでも婚約の申し込みをさせてもらいたい」

「お待ちしておりますわ」


 一瞬にして燃え上がる恋はすぐに潰えることもあるという。恋愛小説では、書きあがった物語の続きが描かれる事は無い。もしかしたら恋愛小説の中の登場人物は激しく燃やし尽くした恋の後に静かにその火を落とすのかもしれない。だが、シャリエ家の誰もが愛した相手への愛を潰えさせる事は無い。オリヴィアの恋が成就したならばそれはどこまでも続くだろう。ベルンハルトが同じだとは限らないけれども、それでもどうしようもないほどの感情が心を支配していく。

 咲き誇る庭園の花の匂いが風に乗って届いてくる。


「オリヴィア嬢」

「はい」

「私の愛を君に捧げたい」


 ダンスの最中に零してしまった愛の言葉への返事。こみ上げて抑えることが出来なくなった感情が、ぽろりと涙として零れたが、オリヴィアはそれでも美しい笑みを浮かべる。


 しばらくして後、現国王の一番下の弟であるベルンハルトが大公位を得て臣籍降下し、それと同時にシャリエ家の長女であるオリヴィアとの婚約が発表された。婚約発表後、シーズン最後の王宮舞踏会で改めてその発表を国王が行った際、並んだ二人は互いを見つめ合い、誰もが初めて見る様な心の底から幸せだという事を伝える様な笑みを向け合う姿を参加者全員に見せていた。

 政略など一切ない、お互いが思い合うからこそ成り立ったこの婚約に異議を表立って唱えられるものはおらず、祝福の拍手が王宮広間に響き渡ったという。

※閲覧ありがとうございました。


こちらの小説は現在別途制作中の小説の為に作り上げたファンタジー世界の世界観を有しております。

魔法のある大陸と魔法の存在出来ない大陸があり、その魔法が存在出来ない大陸ではスチームパンク的な世界観だったり、アラビアンな世界観だったりが乱立しています。

ひとつ前の短編小説『幸せになる最善の道』のプナグレオとクローもこの世界観になります。


誤字脱字報告をくださる皆様、本当にありがとうございます。

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[良い点] 大好きです! [一言] もうもうひたすら尊いです! ヒロインが辛い間に合うお話が多い中、やっと見つけたオアシスのように穏やかで優しく一本筋の通ったお話に感動です。 ありがとうございました。…
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