9.誰かの笑顔のために
作って確かめたい! 陽空は椅子をひっくり返す勢いで立ち上がった。
「か、母ちゃん、俺あとかたづけやっとくから台所替わって!」
「あんたも本当飽きないよね」
克美は呆れながらも好きにしなと手をひらひらとふって了承した。陽空はパンの残りを無理やり口の押し込んでもごもごしながら冷凍庫を探った。
「パイ生地は冷凍してたのあるな。りんご……ない!」
8月後半。まだ夏真っ盛りだ。りんごの時期じゃない。毎年この時期は苦労していて冷凍のりんごやジャムでしのいでいた。アップパイを作るのに肝心なりんごがないという事実で急速に熱が冷めていく。
そして花恋の言葉を思い出す。
「あ……いややっぱいいや」
一気にテンションが下がる。
「なんで? 作りなよ」
何も知らない克美は軽く言うが、陽空は詳しく説明する気も起きなかった。冷凍庫の扉を閉めるとまたテーブルに戻り、さめたコーヒーをすすった。
「いいんだよ。花恋アップルパイ好きじゃないって言ってたし」
「はーそうかい。じゃ私に作っておくれよ。しばらく食べてないからね」
「そうだっけか」
陽空はこれで話を終わりにするつもりだったが、克美から予想外のことを言われて驚いた。
「高校になってからはずっと学校で作ってたろ」
「あーいつも残りは配っていたから、家に持って帰ることもなかったっけ」
「そうそう。どのくらい上達したか母ちゃんが食べて判定してあげるよ」
にやにやと笑って自信満々に言う母親に、陽空も釣られて笑った。
「はは。母ちゃん、そんな味の違いわかんないじゃん」
「うまいかどうかくらいはわかるよ。で? 作ってくれないの?」
ダメ押しで聞かれ、陽空は作ろうという意欲がわいた。これで最後にするとしても食べたいと言われるなら作りたかった。
陽空にとってただ花恋の笑顔が見たくて始めたことだった。それでも色んな人が食べておいしいと言ってくれるのは純粋に嬉しく、楽しかった。
「わかった買ってくる!」
「あ、でもりんごなんて今売ってるのかい?」
「探す!」
居てもたってもいられなくなった。陽空は急いで着替えると財布をつかんで家を飛び出した。
しかしいつも行くスーパーじゃこんな時期外れには売っていない。何となく避けていた駅前のあのカフェの先、輸入食品も置いているデパ地下の高級スーパーに行ってみるしかない。
「うへえ。1個398円もするのかよ」
さすがに値段が高かった。予算の都合で買えるのは2個が限界。お菓子によく使う紅玉じゃない。
「でも青森産か。色もいいな」
「うちに帰ったら生でかじってみて味を確かめればいい。酸味はレモンでごまかす。やっとたどり着いた手がかりだ。こうなりゃ意地だ」
陽空はふわふわどきどきした。ずっと探していた思い出の味の予感がする。
作っている最中、手元がおぼつかなくていつになく失敗した。りんごでなく指を切りそうになったり。計量中グラニュー糖はこぼしたり。
「出来た」
いつものように出来たてをひとかけら味見しようとして怖くなった。もうこの方法が違ったら新しいレシピを試すような気力は湧いてこない。
「母ちゃん出来た。食べてみて」
表面がまだじゅうじゅうと音を立てているアップルパイを一つ、愛用のミトンで掴む。キッチンペーパーで巻いて克美に渡す。ミトンは9歳の誕生日に花恋からもらってからずっと使い続けていた。
「あっつ! まだ持てないじゃないか!」
「出来たてを食べてもらいたいじゃん」
「出来たてすぎるわ!」
キッチンペーパーを一枚巻いた程度では熱すぎて、克美は右手から左手と何度も持ち換えて熱を逃がした。
「うまい? どう?」
「まだ食べれてないの見てわかるだろ?!」
気がせいて、陽空は無茶なことを言った。克美が慎重に息を吹きかけて冷ます。陽空はそわそわと待つ。まったくと、克美は息子の様子を見て笑い、小さく一口かじる。
「どう? 奈津子さんの味?」
陽空は克美が飲み込む前からまた声をかけてきた。
「うん。さくさくしてとっても美味しいよ!」
「だから奈津子さんの味とおんなじ?」
ただようバターとりんごの甘い香りが最高の出来を告げていたし、陽空が知りたいのは美味しいかどうかではなかった。
「悪いけど、それはちょっと母ちゃんにはわからないかな。美味しいのは分かるけど」
「……そっか」
克美は正直に答えた。克美にはもう何年も前に食べたアップパイの細かい味の判別などは出来なかった。目に見えてしゅんと凹んだ息子に、克美は母親としてかけるべき言葉を探した。
「まあほらこんなに美味しいんだ。花恋ちゃんにも持っていってあげたらどうだい?」
「……花恋、アップルパイ好きじゃないって言ったろ」
陽空はしょんぼりとシンクに置いたままの調理器具を片付けだす。
「でもおまえも餃子、スーパーの食べないけど、あの工場のやつは大好きじゃないか。陽空のアップルパイをいつも高校で食べているんだったら、市販のアップルパイが嫌いってだけなんじゃないのかね」
「え?」
克美はもしゃもしゃとアップルパイを食べながら、ちょうど広げていた雑誌を指さした。紙面にはアップルパイの記事があった。陽空も雑誌を覗き込む。さすがSNS映えをする写真だったが、これでもかとホイップクリームが添えられはちみつもかかっていていかにも甘そうだ。
「昔から市販のお菓子は甘すぎて苦手で食べれないじゃないかあの子。お店のケーキもさ。唯一食べるのはおまえのアップルパイくらいだろ」