7.何もかもがうまくいかない
「ごめん」
陽空は膝に両手をつきがばっと頭を下げた。
「……なんで?」
美香の声が震えていた。
「俺、花恋が好きなんだよ」
「知ってる」
美香はかぶせる勢いで肯定した。それぞれが次の言葉を急いで言おうとして、思いがぶつかってばらばらになった。陽空も美香も伝えたい思いがのどに引っかかり出てこない。
「……それでもいいって。あたし言ったじゃない?」
「それじゃあいつと同じだろ。出来ないよ。不誠実だ」
美香は今にも泣きだしそうだった。陽空は黙ってまた深く頭を下げた。このまま美香と付き合えば楽だし、気心知れた相手でたのしくカップルライフを満喫できる、と頭をよぎった。
でも出来ない。
幼馴染で親友だからこそ恋愛対象には見れなかった。
「花恋も俺に対してこんな気持ちなのかな」
陽空は初めて花恋の気持ちが分かった気がした。自分は花恋を恋愛対象にしか見れなかったが、花恋は陽空を家族にしか見れない。法律上は血がつながっていないし、本当の兄弟でも家族でもない。それでも無理だ。大切なのは本当だが、そういう対象ではない。
じゃあ俺は、一生かなわない恋をしているのかと陽空はがっかりした。
「ばか。おおばか。こんなときまで花恋ちゃんなんてね。それでもずっと好きなあたしもたいがいばかだけど」
ぽたぽたっとテーブルの上に水のこぼれる音がした。陽空が顔をあげると美香が静かに泣いていた。
「美香、ごめん」
「これ以上もう謝らないで。誰が悪いってことじゃないもの」
もう塾の時間だからと、ぎくしゃくしながら陽空と美香とわかれた。陽空はどう家に帰ったのか覚えていなかった。暗くなって家に着くと、門の前で花恋がスマホを片手に待っていた。
「お帰り」
ぎこちない笑顔で花恋がまっすぐに陽空を見つめた。
「ただいま」
陽空が言いたいことは山ほどあった。なぜ嘘をついたかにはじまって、自分のことをどう思っているのか。ただそれを聞いてしまって関係を決定的に終わりしてしまうことはもったいないとも思っていた。
「今日ね、かつみママ、ぎょうざだって」
「……ああ、いつもの冷凍の安売りの日か」
何もなかったかのように花恋がふるまうから、少し遅れて陽空も答える。
陽空の母、克美は自分でぎょうざは作らない。パート先の近くにあるぎょうざ工場がたまに特売するのを狙って買ってくる。普段はお高くてなかなか買えないぎょうざはスーパーの安い代用肉のぎょうざよりずっと美味しかった。
「楽しみだな」
焼き立ての味を想像すると自然とおなかが鳴って、陽空の顔に明るさが戻った。花恋相手にいつも通りにふるまえている。恋愛対象になれなくても、弟の立場はまだ手放したくない。美香を泣かせても曲げられなかった自分の恋心を終わりにすることなんてまだできない。
「ね。味噌だれで食べるの美味しいよね」
「あれな。なんで別で売ってくれないんだろ」
陽空も花恋もおまけで一パックに一つ付いてくるぎょうざ用の味噌だれが好きで、二人でわけ合っていた。会話からぎこちなさがとれて、なめらかに回り出す。
今はこれでいい。一緒に温かい夕飯が食べれられて今まで通りの距離感でいられるならもういい。
「はやくうちにはいろうぜ。なんか腹減ってきたし、こんな暗くなってから危ないだろ」
陽空はほっとして花恋をうながした。
俺を待っててくれるなんて可愛いよな。陽空は嬉しかった。もう4月とはいえ、夜はまだ冷える。俺のせいで風邪をひかせたら大変だ。単純なもので陽空はずいぶんと気分がうわむいた。
「あ、ごめん。いま佳くん待ってたから」
「け、いくん?」
さらっと花恋の口から出てきた名前は聞き覚えがなくて、すぐには誰のことかわからなかった。花恋は陽空の反応に気づかない。
「うん。長瀬佳くん。使ってない参考書持ってきてくれるって。ありがたいよね」
「生徒会長か」
あの男と本当に付き合っているのか? と問いただしたい気持ちを必死で抑えた。だめだ。だいなしだ! せっかく元に戻せそうだったのに。
「こんな時間に? 明日学校でもよくない?」
「うん、あたしもそう言ったんだけど早いほうが良いし、女の子に重いからって」
花恋は照れたように頬を染めて笑った。女の子扱いされるのが嬉しそうだ。自分ではさせたことがない、恋する女の子の顔だ。陽空はずきっと胸が痛んだ。
「あのさ」
「やあ、きみたちは本当に仲が良いな」
キキッと軽いブレーキをかけ自転車が止まった。長瀬だ。
「後藤くんと二人で待っていたのかな。妬けるね」
「違うの! たまたまちょうど陽空が帰ってきただけだよ。佳くんうち分からないかと思って外で待ってた」
「なんだよ。じゃあ俺んちの前で待つなよ」
花恋の言い訳に陽空は腹が立った。
「だってうちよりも外灯近くて明るいし、かつみママがぎょうざ食べてけっていうから」
「ああそうかよ」
フォローされてもむしゃくしゃがおさまらない。
「ふうん。あ、そうだ。花恋、この際だからはっきり言ったらどうかな?」
「いま?!」
長瀬は陽空を見ながらもったいつけて言った。花恋は驚いていたが、長瀬が深くうなづくのを見て、陽空と長瀬をちらちらと見比べた。
「言わないと伝わらないよ」
「いったいなんだよ花恋。俺に何かあるのかよ?」
優しくうながす長瀬に、陽空もいらいらとしてきた。先ほど感じた空腹が怒りを増幅させる。花恋は一度ぎゅっと目をつぶってから、陽空に向き合った。
「あのね、もうさ、アップルパイも作んなくていい。もうだってぜんぜんママの味覚えてないもん」
その一言は、陽空には想定外だった。
「え……あ。そんな」
今まで日々が一気によみがえり、陽空の努力も思い出もすべて否定された。
「よく言えたね。花恋はさ、アップルパイ好きじゃないそうだ。君に遠慮してただけだ」
「はあ? 何言ってんだよ? こんなちっさいころからの大好物だぞ」
「幼馴染の君に遠慮していたようだな」
「嘘つけ。そんなわけあるかよ」
「花恋、本当のことを言ったらどうだ? さっきのカフェのときの話をしてやらないといつまでも嫌いなもの無理やり食べさせられるぞ」
長瀬にはすぐに反論はできる。でも花恋から続きを聞くのはこわかった。
そんなわけない。花恋はアップルパイが好きで、いつだって喜んで食べてくれた。美味しいって言ってくれた。花恋だって俺が奈津子さんのアップルパイを再現するのを待っているんだ。
「あんた言っていいこととわるいことあんぞ!」
今までの積み重ねが、陽空にとってかけがえのない花恋との思い出が長瀬の言葉を否定する原動力になる。
「えっ陽空のは嫌いなわけじゃないよ!」
花恋が驚いて否定したことも、陽空の自信を回復させた。きっとこれは長瀬の嘘だ。
「カフェで一口食べて甘すぎて苦手だって言ってたろう。僕に嘘をついたのかな?」
「違います! 違うんだけどその」
長瀬は花恋に冷静に問いただす。花恋は陽空と長瀬をおろおろと交互に見あげた。
「どういうことだよ、花恋」
「あーえっと、うん。あっ! 違うの。アップルパイ頼んだけど甘すぎてね。私ほんとはそんなに甘いのは好きじゃないって言ったの」
花恋は陽空を見て申し訳なさそうにしながらもはっきりと言った。
「……まじかよ」
陽空にとって青天の霹靂だった。長瀬がよくできましたとばかり、うなづいている。
「だから金輪際、花恋につきまとって好きでもないアップルパイを食べさせるは止めるんだな」
「嘘だろ。だっていつも美味しいって食べてくれるじゃん」
「ごめん、あとでちゃんと説明するから」
「良かったじゃないか。腐れ縁が切れて」
陽空はもう何も頭に入らなかった。花恋の声も痛ましそうな目も、無神経な長瀬の言葉も素通りした。
「いやもういいよ。いいんだ……」