1.アップルパイは思い出の味
新連載開始です。毎日更新しますので、ブクマと評価で応援してくれると嬉しいです(*´▽`*)
オーブンの残り30秒はいつもじりじりとした。あまいはちみつとリンゴの香りが鼻をくすぐる。後藤陽空は「いっそのこともう開けてもいいかな、焼けたかな」と落ち着きなく歩き回った。
チン!
焼き上がりを知らせるベルに、陽空は思い切り扉を開ける。勢いが良すぎたせいで扉が小刻みにバウンドして陽空の腕に当たった。
「っつう!」
しゅっと音がして火傷の赤い線が走る。愛用のミトンをはめて、こどもの手のひらサイズの焼き立てのアップルパイを慎重に一つだけつかんだ。見た目は完璧。焼き上がり三分前に一度出してシロップを塗った。表面はつやつやだ。綺麗な層が出来てる。バターの折り込みも完璧。これならもしかして。
「来たよ~」
のんきな声とともに調理室を開けたのは三沢花恋だった。待ち人がベストタイミングで来た。
「花恋! ちょうど今出来たから食べてみて」
「食べるけどさ、わたしのことはお姉ちゃんって呼んでって言ってるよね?」
「やだよ。みんな誤解すんじゃん」
「もう! ちっちゃい頃はおねえたんおねえたんって超可愛かったのに」
「それほんと赤ちゃんのころだろ!」
花恋と陽空は幼馴染だ。家が隣で、母親同士が仲が良かったため自然と一緒に育ってきた。花恋が小学校三年生、陽空が一年生の夏、花恋の母の奈津子が交通事故で死んだ。
忙しい花恋の父に代わり、陽空の母の克美が「一人も二人もおんなじだから!」と花恋の世話を引き受け、それから本当に家族のように育ってきた。花恋は陽空の母を克美ママと呼んでしたい、陽空を弟として可愛がった。
陽空は花恋のことを一度も家族になんてみれなかった。
陽空にとって花恋はたった一人の特別な女の子だ。
家族になるなら自分の姉ではなくお嫁さんに。陽空は小さい頃からずっと願い続けていた。
「いただきまあす」
花恋はまだ湯気の立つアップルパイに大きくかじりついた。
「あっ花恋まだ熱いから……ああ遅かったか」
「んむむむ!」
花恋はとっさに吐き出しそうになったのを我慢して口をへの字にした。ジタバタと手足をばたつかせ、涙目になっている。
「ほらこれ飲め」
陽空は水道からコップに水をくんで花恋に渡した。花恋はしゃべれないまま頭をぶんぶんさげて受け取り一気飲みした。はーはーと何度か深呼吸する。
「あっつ! ほんと焼き立てだね。舌を火傷しちゃった」
花恋は照れ隠しにニヤッと笑った。陽空の記憶にある花恋の母の奈津子さんと花恋の笑顔がダブる。奈津子さんはいつも柔らかく笑っていて、色白で美人で料理上手だった。
「どっちかつーと、うちの母さん似だな」
陽空の母の克美は化粧っけがなくいつも日に焼け、あまり料理は得意でなかった。おしとやかとは無縁でおおざっぱだ。花恋は顔だけは奈津子そっくりだったが性格は育ての親の克美そのものだ。
「ちょっとそれどういう意味よ?」
「そういう意味だよ」
陽空はニヤッと笑い返す。花恋はぐぬぬと悔しそうだ。陽空は言い返される前に一番気になることを聞く。
「それより、どうだ?」
「……うん、美味しいけど違う」
「そっか」
陽空は自分もちょうどよく冷めてきたアップルパイをひとかじりした。確かに思い出の味とはどこか違った。やっぱりという思いもあった。陽空もなにか欠けている気がしていた。
花恋の母、奈津子はよくアップルパイをおやつに作ってくれた。花恋はずっと食が細くてかなり痩せていた。小さい頃花恋が唯一美味しいと言って食べたのがアップルパイだったそうだ。
陽空の一番古い記憶は花恋のうちのリビングのソファで並んで熱々のアップルパイを食べていたシーンだ。奈津子は「ぽろぽろくずれるからね」と笑ってキッチンペーパーに包んで渡してくれた。
奈津子の指先には薄いピンクのマニキュアが塗られてつやつやして清潔でよその母親ってこうなんだと陽空は子供心に衝撃を受けた。
奈津子さんのアップルパイはもっとさくっとふわっとしていたよな。
「でも美味しいよ! ありがとねいつも」
もう少しなんだ。もう少しで再現できる。でも決め手になる「なにか」がわからない。陽空は物思いに沈む。花恋は陽空が落ち込んでしまったと思って慌ててフォローした。
「あのさ、もう無理しなくてもいいよ」
陽空はあれからいくつのアップルパイを作ったか分からなかった。
「いいんだ、俺が好きでやってるんだし。それに俺これしか覚えてないし。今日のはさ本当は焼き上げているときから、違うかなって思ってたんだ」
「味は美味しいから! もはやプロだよ! ……きっとママのより美味しいから……」
花恋の最後の言葉は消え入りそうだった。
陽空も確かに味は間違いなく美味しく出来ていると思っていた。陽空はアップルパイに関してはプロ級の腕前、というよりも下手なパティスリーよりもずっと上手に焼き上げることが出来た。けれどでも違う。
奈津子さんが死んだあの日。陽空は泣き続ける花恋を抱きしめながら、花恋を笑顔にするため、自分が出来ることはなにかずっと考えていた。
「ほら食べたいやつら、いっぱい居るからさ。全然問題ないから花恋は心配すんな」
陽空は、しょんぼりしてしまった花恋の頭をよしよしとなでた。
陽空の恋心に全く気づかない花恋もアップルパイ作りは自分のためだということは知っていた。花恋も小学生の頃は「卵の殻入ってる」とか「ちょっと甘すぎるよ!」と「おいしくなってきた」などと素直に感想を言っていた。
だんだん回数を重ね、中学、そして高校生となった今。陽空が普通にただ超絶おいしいアップルパイを作るようになってしまった。花恋はアップルパイの試食には来ても、味について何か言うのを避けるようになってきた。
「うーんでも普通に美味しいし、わたし、いちゃもんつけてるみたいじゃん」
花恋は無理に笑ってごまかした。花恋は陽空の作るアップルパイをたくさん食べてきた。それは確かに美味しいのに食べれば食べるほど母の味を思い出せなくなる気がしていた。
花恋は大切な母の記憶がかすれ、思い出が塗り替えられていくようで怖かった。
陽空は花恋の目が不安げに揺れるのがわかったが、花恋がなぜ味について何も言ってくれないのかはわからなかった。
「いいんだ」
陽空は寂しくて不安定になっている花恋を昔のように抱きしめたかった。ぎゅっと包み込んで慰めて甘やかしたい。
しかし家族としてでなく異性として見て欲しい。並んで立てば陽空には花恋の後頭部が見えた。身長も陽空は花恋よりも10㎝以上高くなった。
花恋の華奢な肩に陽空の手が伸びる。
「ほらもう一個食べて元気出せよ」
陽空は花恋を引き寄せて抱きしめる代わりに、後ろのオーブンへと手を伸ばしアップルパイを手に取った。花恋の口元におどけながら差し出す。
「え~もう! 食べれないよ」
思わず苦笑した花恋を見て、陽空はアップルパイを脇に置いた。花恋が笑顔になれば無理に食べなくてもいいと陽空は思っていた。
花恋はいつまでもどこまでも陽空を弟扱いして無防備だった。陽空は花恋のこと昔のように抱きしめたり、近すぎる距離に居れば、理性を保てる自信が全くなかった。
「陽空! もういいか?」
「あー、良太、美香大丈夫だ!」
がらっと調理室の廊下の窓を開けたのは陽空の同級生で保育園からの腐れ縁の二人だ。花恋との間の微妙な雰囲気が換気されて、陽空は小さくため息をついた。
「じゃ、今日のラッキーな人たちに渡してくるからね」
「いつもわるいな。助かるよ」
「あっじゃあわたし行くね」
「花恋、またあとで」
花恋がそそくさと調理室を出ていった。美香がてきぱきとオーブンに残るアップルパイを一つずつ袋に詰めて、良太が流れ作業でかごに入れる。
陽空としては食べることは目的でなく、花恋の思い出の味を再現することだけが目的だった。一口味見をして違うと思えば陽空はそれ以上食べなかった。そのため余った分を友達に適当に配っているうち、陽空の作るアップルパイのおいしさにハマる生徒が続出した。
陽空はアップルパイのパティシエ、パイシエとまで呼ばれるようになり、ファンクラブが結成され、有志によるクラウドファンディングにより材料費と研究費が提供されるようになっていた。
「パイシエのアップルパイ焼きあがったぞ!」
「おおおお! 今日こそ俺がいたただく!」
「整理券ないやつはだめだ」
「おいこれ転売された整理券だろ?! 認められっかよ!」
「美味しいよお」
「もうほかのアップルパイが食べられないよおお!」
「なんで整理券が全然あたらないんだよ!!」
中毒者が続出する人気ぶりで、世話人の良太と美香がうまくさばいてくれなければ大変なことになっていた。陽空としてはアップルパイを作り続ける費用が捻出できればあとはどうでもよかった。阿鼻叫喚をよそに、陽空は洗い物をちゃっちゃと済ませるとエプロンを外した。
あせり過ぎだ。パイづくりと同じだ。待つ時間、寝かせる時間も必要。これは長期戦なんだ。陽空は自分に言い聞かせた。アップルパイだってあと少しのところまできている。……アップルパイが完成したら、告白する。花恋に俺のこともっと男として意識させる。思い出の味に感動してるところを狙えば、すんなりオーケーしてくれるかもしれない。
「いやそれはちょっと都合よすぎるな」
陽空は自分につっこみを入れ頭をがしがしとかいた。
「あ、俺今日、日直だったんだ」
陽空は日誌を職員室にまだ届けていないことを思い出した。
「良太、美香。悪いけど俺、職員室行って帰るから!」