Chapter 07 女神
艦橋に居た満は、制御盤の真下で仰向けになり、垂れ下がる配線に手を突っ込み、いじっていた。
腹の上には、ダクトテープ。周りの床には、散乱する工具。
ドリルやレンチ、各種ねじ回し、ニッパーとペンチ、鑿、玄翁。
満は、配線から一本のケーブルを選び出すと、次に腹のダクトテープを掴み、端を引き伸ばし、歯で切れ目を入れ、千切った。十センチ程度のテープを胸元に張る。
制御盤から垂れ下がるケーブルと、満が持ち出した新たなケーブル。
二本のケーブルの断面から飛び出す幾本もの金属線を満は一本一本捩じり合わせ、結合させていく。
それが終わると、胸のダクトテープを引き剥がして、結合部に巻き付けた。
制御盤から伸びるケーブルは、折り畳み式の端末と繋がる。満は起き上がると、床に置いていた端末を手拾い上げた。彼が端末のキーボードを操作し始めると、制御盤のディスプレイに様々な記号が羅列していく。それらの記号が、順次、漢字と平仮名とカタカナ、更にアルファベットに変換され始める。
満は立ち上がると、制御盤のディスプレイを見た。
「なになにぃ…風の操る…血管?……空調のことか?…それが、使用されている……どこで?
物体の、置かれた、棺桶?……物体を置く棺桶…棺桶は、容器のことか…それとも、空間、部屋……
だとすると、物置?いや、船だから、貨物室、とかかな?
貨物室と、ほかは…個別の棺桶……個室…客室のことか?
なんで廊下の電源オフにして、各客室の空調と湿度を調節してるんだ?」
ディスプレイに浮かぶ文字を爪弾き、表示を変えていく。
「取り合えず…船の制御をこっちのものしたい……そのためには……
一回シャットダウンしてから、再起動させて、その瞬間に制御をすり替える…その方が早いし、簡単だ」
満はディスプレイの表面と端末のキーボードを交互に素早く操作した。
最後にディスプレイの中央に現れた『沈黙シャットダウン』と言う文字を押す。
艦橋中にブザー音が響き渡ると、謎の音声言語が轟く。
しかし、それは、艦橋だけに止まらなかった。
誘拐犯の三兄弟が立ち止まった通路、オーヒャの居る部屋、そしてダンスホール。
各室内、船中にブザー音と音声が鳴る。
そして、船内の全ての照明が消えた。
暗闇に塗りつぶされたダンスホールで、薄紅のアウラが淡く灯った。幻想的な光は、緩やかに滞留し、不安定な球を形作る。その中でエメアが羽ばたいていた。小さな薄紅の光に、影が迫る。
「どうなってんだ?」
愛理の声が尋ねる。彼女の焦った表情が、薄紅の光によって薄っすらと浮き彫りになった。
「分からない……無事ですか神様?夢子は?」
エメアと愛理は、暗い中振り返る。すると、旦那の声が聞こえてきた。
「大丈夫…夢子さんも平気だ。二人は不用意に動かないで、身を守ることに専念してくれ」
艦橋でも、ディスプレイが真っ暗になり、静寂が広がる。
その後、何かが起動したことを予感させる音が響いてくると、真っ黒なディスプレイの端から、記号の羅列が流れ込んで来た。
船内各所の天井で、照明の光が降り注ぎ、一斉に明るくなる。
艦橋の満は、天井を見上げると、口角を釣り上げた。
無機質な部屋が明るくなると、その場にいたオーヒャは、箱が散乱する室内を見渡し、戸惑う。
「なんだ停電か?」
通路の照明が点灯し、兄貴が呟く。
「艦橋か……」
別の階。通路の左右に並ぶスライドドアが僅かに開く。
その一つから、鋭い爪が縦一列に飛び出す。
黒一色の爪は掴んだドアの表面を鋭い先端で削った。
艦橋では、満が、起動した制御盤のディスプレイを操作しながら、囁く。
「よしよしよし…OKOK…操作できるぞ……」
何もなかった宇宙空間。瞬く星々と銀河の光が引き伸ばされ歪曲する。
歪始めた虚空は、ゆっくりと波打ち、楕円形に膨れると、その中心から、何かが飛び出てきた。
艦橋の窓から見える星々を浮かべた宇宙が波打つ。が、徐々に波は収まり、平常の宇宙の景色を取り戻す。
歪む宇宙空間から姿を現したのは、巨大宇宙船であった。
スペースシャトルを戦闘機の如く幅広くした機体。その上には、円形の巨大構造が載せられている。船首は全面ガラス張り、船底は縦長に垂れ下がっている。
艦橋に居た満は、やったぜ…と呟く。それから端末のキーボードを操作し始める。
ディスプレイ上に新たな表示が躍ると、その光が満の顔を照らした。
ダンスホールの旦那は、硬直して動かない夢子に向き合う。
骨の様な質感の銀色の甲殻は、彼女の服の上から覆っている。
「旦那!何とかならないっすか?!」
後ろで見守る愛理が問い質すと、エメアが前脚を口元に当てて、しゃべるなのジェスチャーをした。
旦那は、目を瞑り、意識を集中させる。
暗転する視界。
鋭い耳鳴りの様な音が反響した。
暗い水底を思わせる光景が見え始める。
意識だけの存在となった旦那は、精神の海に沈み、言葉を発した。
『夢子さん…この声が届いているか?…届いたなら、何か反応を示してくれ!』
この精神の水底では、紡ぐ言葉が鈍い音となって広がる。
――旦那さん!聞こえます!
夢子の声が、聞こえた。旦那は目を見開き、周囲を見渡す。暗く碧く歪んだ世界では、誰の姿もない。しかし、気配だけは感じる。
『夢子さん!よかった、まだ君の心は消失していない…むしろ、これほど鮮明に響いていると言うことは、まだ望みがある!』
その瞬間、荒々しい圧力が、向かい風の如く、旦那に襲い掛かかる。
夢子の気配が遠のいて行くのを感じた。
――何奴ダッ!?我ガ領内ニ土足デ侵入シオッテッ、コノ狼藉者メッ!!疾ク去ルガイイ!!
吹き荒ぶ圧力に乗ってやってきたその意思は、すべてを拒絶するかのように刺々しく、憤怒の熱に満ちていた。
旦那の意識は、幻影の肉体に纏っていた布で顔を隠し、全身を激しく揺さぶる衝撃に耐える。
『邪神かッ……滅びてもなお、これほどの力を持っているとは……』
――煩ワシイ限リダ…ドイツモコイツモ、我ガ邪魔ヲシオッテカラニ……
水底の世界で荒れ狂う奔流。それに抗い旦那は進み続けると、布を彩る図像が精神世界で光を放ち、自然界にありふれた色彩が流れ出した。
麻布から広がる色は川の如く何度も分岐し、絡み合い、単純な線で立体的な四肢と胴体を構築すると、単色の動物たちに生まれ変わる。
黄色の獅子が旦那の前を駆け抜けると、向かい風が僅かに弱まる。
赤い牛が長い鼻梁で旦那の背中を支える。
――オノレェ…小賢シイ呪術ヲ我ガ神域ニ持チ込ムトハッ……
向かい風は、更なる暴風となって、旦那を襲う。
白い狼が飛び出し、厳かな遠吠えを轟かせると、暴風に反響する。
青い猛禽類が甲高い鳴き声を上げ、風の中を舞う。
灰色の巨象が、旦那の傍に寄り添い、風を遮る。
暴風が勢いを失う。
新緑の蔦が暗黒の中で成長し、綾織の如く複雑に重なり合い、堅固な足場を作ると、その上を旦那が進む。
やがて、遠くの方から、淡く小さな光が差し込むと、それに向かって、旦那は叫んだ。
『夢子!』
――旦那さん!
少女の強い声が聞こえてきた。
――あの、わたし、闘いますのでッ!ええっと、走りますからッ!
旦那は、夢子の言葉を理解できない。しかし、彼女の強い意志を感じた。
その瞬間、目の前から溢れ出した真っ白な光が、暴風を吹き飛ばし、旦那を包み込む。
『だから、夢子の邪魔をしないでね……』
透き通るような女性の声が、最後にそう告げた。
現実の旦那は、瞼を開け、琥珀色の眼で世界を見る。
目の前に、変異した夢子が飛び込んできた。
夢子の肥大化した左手が旦那の顔面を鷲掴みにする。彼女はそのまま旦那の体を飛び越えた。
一瞬の出来事に、愛理とエメアは硬直する。
旦那は重心を崩して背中から倒れ、夢子は屈むように着地した。
エメアがアウラの光を放出しようとしたとき、脳裏に旦那の声が響く。
『やめなさいエメア』
愛理は、骨の銃を夢子に向け、引き金に指を掛た。
夢子が顔を上げる。
銃を構える少女は夢子の左目と視線を交わす。
一瞬の沈黙。
夢子は走り出すと、愛理とエメアの間を突っ切って、扉を潜り、そのまま通路へと、消えていった。
「大丈夫なのあれ?」
エメアは疑う。愛理が銃を肩に担いて答えた。
「さぁな……夢子を信じるしかねぇよ……そうだろ旦那?」
振り返る愛理。立ち上がった旦那は、何か思うところがある様な目で虚空を見つめた。
その頃オーヒャは、腹の甲殻に取り付けた半球形の機器の縁に触れる。
機械の縁には、円環が一周しており、暗い青緑色の指がそれを捻った。
直後、オーヒャの体が少し浮き上がる。
「はぁ…この重力操作ユニットも、買い替え時かなぁ……」
オーヒャはそう言うと、四肢で体を支え、壁に寄り掛かって立ち上がる。
壁に埋め込まれていた正方形のタッチパネルを太い指先で器用に操作すると、直ぐ横の大きな扉が左右に開く。
開放された向こうから、様々な鳥獣の鳴き声が響き、生臭い野性味を帯びた臭気が漂ってくる。
オーヒャは壁から手を放し、四つ足で床を歩き、扉の向こうに進んでいく。
そこには、様々な形の容器が、大小の区別なく、左右にうず高く積まれていた。
夢子は、通路に飛び出てから、何度か道を曲がった。
床には、塵一つなく、汚れもない。
夢子は立ち止まると、前後を見渡し、耳を澄まし、誰も居ないことを確認した。
その途端、体中を駆け巡る違和感に気付く。
痛みとは違う。まるで細い長い流れが血管や神経の間を広げ、全身に通るような、自分とは関係ない別の生命が体内で躍動しているような、おぞましい不快感だ。
それに、左右で体の重心が偏っているのを理解する。
己の変わり果てた左手を見つめ、左目が潤む。
右腕に浮かぶ黄疸も、より鮮やかになり、肌の質感も滑らかになって、光沢を帯びていた。
人間の右手で顔を触ると、無機質な感触が指先に引っ掛かる。
自分が自分でなくなり始めていることを強く感じた。
左目の端から、涙が溢れ、喉の奥から嗚咽が漏れる。しかし、彼女の声には、少女の声に混じって、低く唸るような雑音が混ざっていた。
最早、声すら歪められたことを知り、夢子の静かな慟哭が強まる。
女性の優しい声が脳裏に届く。
『夢子……其方の今の心情、妾には、よくわかる。
其方の嘆き、痛み、不安、そして、絶望の全てが……妾も、同じ思いをしたから……』
夢子は、涙に濡れた左目を見開く。
同じ思いをしたから――その言葉が胸に突き刺さった。
「邪神様も……こんな目に、あったんですか?」
『……えぇ…遥か昔に……遠い遠い、古の時代に……』
夢子の胸に、虚しさが込み上げる。
自分と同じ境遇の人に出会えた、と言う気持ちより、自分と同じ苦しみを味わった人が居る事実に、胸が痛んだ。
『でもね、夢子…其方は、今すぐにでも元に戻れる。だから、今は前を向いて、走り続けて、そして、取り戻すの!自分の姿を、自分の意思を、自分だけの未来をッ!
涙は、すべてが終わった後に、笑いながら、流せば良い!そうでしょ?』
その物言いには、憐れみも、悲しみも、痛みもない。
爽快で、気前のいい力強い熱意が込められていた。他者に対する純粋な願いが宿っていた。
夢子は、自分を励まし、勇気づけてくれた言葉を受け止める。
残った視界を涙で滲ませながらも、彼女は俯く顔を上げる。
右手で左目を拭い、何度も引きつる呼吸を深呼吸で屈服させ、そして、歩き出した。
『満くん、そっちはどうだい?』
『こっちは順調ですよ』
艦橋の満は目を閉じ、脳裏に届いた旦那の声に応える。
『僕たちの現在地が分かりました。場所は、天王星の……約、一億三千万キロ付近です』
『地球からは…まあまあ離れているね。
だとしたら、この船を地球の近くにぃ……でも、それだと、衛星の望遠鏡に見つかってしまうかな?』
『うん、その可能性は大いにあります。今は、遠くにあるから、船体が光り輝かない限り、暗くて見つからないでしょうけど…地球に近づくには、少し工夫が必要ですね』
『そうか……なら現状は、この船は動かさないで…あ、そうだ、夢子さんが変異した』
『変異?というと…ヤバいっすか?』
『ヤバいね…しかもダンスホールから飛び出して行った。だから、なるべく出会わない様に、それと、出会っても、なるべく攻撃は避けてくれ、見た目は変わってるだろうが、彼女の意思はまだ残っている』
『わっかりました…じゃあ、ぼ…俺は、引き続き、艦橋に籠って、色々と作業してます』
『たのんだ』
旦那の念話を最後に、満の脳裏から言葉は退いていった。
満は目を開け、振り返ると、自分が入ってくるためにこじ開けた扉に視線がいく。
近づいてみると、大きな鋼の爪が飛び出す隙間から、充血して赤黒くなった眼が覗き込んでいた。
「ひぃいいいいッ!!」
満は悲鳴を上げ、扉から飛び退くと、勢い余って後ろから転倒する。
赤黒い眼は、上下左右に視線を向け、一通り室内を見渡し、何もせず引き下がっていく。
震える満は、呼吸を荒げ、強く拍動する心臓の音を鼓膜に感じていた。
変異した夢子は、明るい通路を見渡しながら疾走し、心中で嘆く。
『すみません!見つかりません!本当にこの近くに、目的のものはあるんですか?!』
『あらぁ…御免なさいね…なんとなく近づいていると思ったんだけど、もしかして、その下にあるのかしら…』
『さっき言ってた下方向は、わたしにとって前方向だったんですが……』
『きっと、妾と其方の感覚に、ずれが生じているのね…もしかすると、アノ羽虫の妨害?それとも、ただの偶然?』
――何ガ起コッタ…何故、我ガ意思ヲ受ケ付ケナイッ!
夢子の脳裏に、荒々しい声が轟く。
『今の声なんですか?!』
『今の声は気にしないで、気にしたら負けよ、働くのと同じくらい負けよ!』
『え、えッ?……働いたら、やっぱり、負けなんですか?!と言うか、優しい方の邪神さんは、どこからそんな言葉を覚えたんですか?宇宙でも、働いたら負けという標語は、共通なんですか?!』
混乱する夢子。優しく語る邪神の声。
『そうね、働いたら負け、というのは、発達した文明では、必ずと言っていいほど誕生する概念よ。
寧ろ、働かないために、あらゆる文明は進化を進めている、と妾は思っている……
因みに、妾が今使っている言語は、其方の魂魄から記憶を覗き見て収集したものが素になっているわ』
驚愕した夢子は立ち止まる。
『わたしの記憶を勝手に見たんですかッ!?』
『まあ、記憶と言っても、言語に関わる狭い範囲だけで、しかも、現在進行形で覗き続けているから、これからもどんどん妾の言葉遣いが変わってくるかもしれないけど、気にしないで!』
『なる、ほど…そ、そうですかぁ……』
プライバシーはどこへやら、と思う夢子は、胸に生じた不安を抱えつつ、再び走り出す。彼女は、一流アスリートの様な健脚で疾走し、目につく半開きのドアを片っ端から覗き込む。
確認した室内の調度品は様々。ベットの様な家具、椅子の様な物体、用途不明の宙に浮かぶ盆、照明器具と思われるクラゲの様な存在。
現実味がない内装の部屋ばかり。しかし
『目的のものはどこですかぁ?!』
探し物は無かった。
様々な容器が積み重なり壁を作った部屋。その真ん中に通る隙間をオーヒャが進む。
円筒形、長方形、正方形、三角錐、形と大きさに統一性がない容器は、透明な素材や、鋼材、木材など、材質も違う。
そして、鉄格子の付いた入れ物と液体に満たされた容器を除いて、必ずどこか一か所、穴が開いていた。
透明な板に無数に開いた穴。鋼材の面に開いた細長い穴。木材に穿たれた雑な穴。
そこから、鳴き声が聞こえ、臭気が漏れ出る。
容器にある透明な窓や、鉄格子から見える鳴き声の主は、地球ではお目に掛れない生物たち。
一部は、地球に居る動物と共通する身体構造をもっている。だが、どこかが違う。
サルの様な生物は、全身を色鮮やかな鱗に覆う。
マグロの様な生物の背中には、翼が生えている。
四つ脚のトカゲの胴体から伸びる細長い首が掲げるのは、ハスの花托や、切ったレンコンを思わせる穴の開いた円錐形の頭部。
子猫に見えた生物が檻の中で振り返ると、顔の三分の二を占有する両目が、瞳孔を収縮させる。
小さい体ながら牙をむいたり、おびえた様に丸まったり、膨らんだり、縮んだり。
各々の声帯から、甲高かったり、低かったり、楽器の如く鳴き声を上げる生き物たち。
オーヒャは、そんな空間を突き進むと、動物が入った小さな容器を踏み越え、壁に近く。
壁に埋め込まれていた画面には、縁に沿って歪曲するメモリと、形を変える記号が映る。
オーヒャは、飛び出た左目を細め、白目を向き、真っ当な右目で睨んだ。
「…おいおい、ここに居る生物の適温にしちゃ、ちょっと高いぞ…それに、こんなに明るいと、皆驚いて、起きちまう……」
ぼやいたオーヒャは、ディスプレイを指先で操作し始める。
「もしかして…ほかの部屋の空調も、設定が変わったか?
わぁ…だったら面倒だな……奴に任せるか……そうだな」
一方、通路を走っていた夢子は、向こうからやってくる何かに気付き、立ち止まる。
彼女の目の前に現れたのは、二頭身半の人型の小さな存在。
背丈は、夢子の膝の位置を少し上回る程度。
頭にブラウン管テレビの様なヘルメットを被り、全身を覆うスーツは黄色く、つやつやしている。
小さな足をめいいっぱい使って走っていたブラウン管頭。その前方に、見たこともない化け物が現れた。
二頭身半のブラウン管頭は、急停止し、左右非対称の化け物を見上げる。
夢子が見下ろすと、ブラウン管頭は小さな三つ指の手を合わせて、体を震わせた。
慣れた様に脳裏に話しかける夢子。
『あの、すみません…なんだか、先住民と出くわしたのですが……』
『先住民?……焼き払えッ!』
『やめてッ、話を聞いてください!真面目に話を聞いてください!』
『分かってるわ。して、その先住民は攻撃体勢を取っているの?』
『いいえ、むしろ怯えているような…あ、今両手を上げて…威嚇しています。
ヒメアリクイみたいに…』
『ヒメアリクイは…ああ、今、其方の記憶を覗き込んだわ…なるほど、妾の感性から見ても、かわいらしい生き物ね、頭からバリバリ食べちゃいたい』
『食べる以外の選択肢を享受してください邪神様…そして、勝手に人の記憶を覗かないでください』
『大丈夫。節操なく覗き見る様な真似はしないわ。安心して……』
『うぅ……まあ、なら、良いですけどぉ……それで、どう対処すればいいですか?』
『そうねぇ…まずは、その先住民を見ながら、後ろに下がって、横に逸れるの…そして、向こうも同じように逸れて行ったら、接触を回避できるはずよ』
お告げ通り、夢子と先住民は距離を取ると、お互い円を描きながら立ち位置を入れ替える。
その途端、先住民は夢子に背を向けて走り出し、彼女はそれを黙って見送った。
『邪神様…助かりました……』
『それは何より…あと、邪神様と言うのは、やめてくれないかしら、アノ羽虫と被っちゃう』
『そうですか?そう言えば、お名前を聞いていませんでした』
『ごめんなさいね…妾を含め、邪神は、己の真名を明かせないの……もし、明かせば、それを知るものに魂を束縛され、利用されてしまう』
『なる程…では、これからは何てお呼びすれば、良いのでしょうか?』
『そうねぇ…この時代で、通りのいい響きと言えば……うむ、それでは、ひとまず、女神、と呼んでもらおうかしら?』
『わたしのフェ〇トの記憶見ましたか、女神様?』
その後も、夢子は通路を疾走し、大きく開いたドアに出くわし、室内を覗く。調度品は滅茶苦茶で、円筒形の装置は凹み、金属質なものは潰され、ガラス質の物は砕かれ、布地は引き裂かれ、柔らかいスポンジの様なものが細切れになって散乱していた。
天井や床、壁一面に無数の裂傷が刻まれ、濃密な獣臭で満たされている。
夢子は部屋から振り返ると、通路の壁に刻まれた四本の大きな爪痕を発見し、呼吸を忘れるほど恐怖を感じた。
同じころ、三兄弟は、壁に押し付けられたロボットの傍にたどり着く。
そこを左に曲がると、艦橋の入り口がある。しかし、三人が目にしたのは、破壊が生み出した無数の凹凸と、融解した金属によって繋ぎ止められた扉の繋目だった。
兄貴は、扉の繋目を蹴り飛ばす。重い反響音が鳴っただけで、溶接はビクともしない。
代わりに、艦橋内に居た満が響いた音に肩を跳ね上げ、目を潤ませ、怯えだす。
「どうする兄貴、これじゃあ、船橋に入れない上、船をどっか訳の分からないところに移動させられる、かもだぜ?」
パクーダの意見に、兄貴は頷く。
「そうなるかも、しれ、ん……いや……」
兄貴は後ろを振り返ると、壁にめり込むロボットを見て言った。
「妙案があるかもしれない」
その頃、ダンスホールには、群青のアウラが満ち溢れていた。
旦那はホールの中心で胡坐を組み、横たわる人々の方を向き、瞼を閉じて、瞑想に入っている。
扉の縁には、愛理が骨の銃を構えて警戒し、エメアは通路に出て見張っていた。
旦那の脳裏に浮かぶ暗い景色には、群青の水面が広がっている。
その水面に、黄緑色のしみが浮かぶと、そこから波紋が生まれた。
しみは幾つも溢れ、その度に波紋が生じる。稀に大きいしみが拡大すると、大きな波紋を作り出す。
だが、大半のしみは小さく、淡く、生み出す波紋も矮小で細やかだった。
旦那が目を開け、息を深く吸う。それに合わせて、床を覆っていた群青のアウラが旦那の方へ飲み込まれて行く。
愛理はその様子を一瞥して、直ぐに通路へ視線を向ける。
エメアは飛び上がると、室内に入って旦那に声を掛けた。
「いかがでしたか、夢子の様に変異しそうな感染者はいましたか?」
ダンスホールから、群青のアウラが消え去ると、旦那は立ち上がり、振り返った。
「私の見立てでは……ここに居るほとんどの邪神の残滓は、このまま自壊するはずだ。
それほどまでに、反応が弱く、アウラや、その他の力が欠乏している」
「ほぅ、そりゃまた、邪神様ってのは、坊ちゃん体質で、あんまり強くねぇな」
愛理が声を大にして嘲笑する。
旦那は軽く肩を竦めた。
「…坊ちゃん体質、というのは、ある意味、的を射る言葉かもしれない……
もっと正しく言えば、邪神とは、大食漢で、新陳代謝が激しい、と言うべきか…つまり、整った環境が必要で…」
「わりぃけど、そう言う説明は、夢子が帰って来た後にお願いします」
愛理にそう言われた旦那は、成程、と言う目で頷いた。
エメアは、床に着地すると小首を傾げる。
「でも、ならなんで…夢子だけが、変異したんでしょう……」
旦那は、首を横に振る。
「分からない…何らかの引き金があったと思うが……」
旦那は、遠くに視線を向ける。
「彼女には、他の人たちに無い、特別な、絆があったのかもしれないね……」
爪痕が上下左右に点在する通路を夢子は進んでいた。
自慢の健脚は鳴りを潜め、今は慎重に歩く。
周囲に刻まれた爪痕は、そうさせるだけの危険性を如実に表していた。
それに、生臭い臭気も漂って、呼吸が苦しい。
『女神様…私たちの目標のものは、もう近いんでしょうか?』
『だと思いたい…けど……妾が感じているこの親近感の様なものは、多層次元を通過して自由に飛び交う認識、或は思念そのもの。物質世界の距離とは、乖離する部分も多い……』
『そ、それは、どういうことですか?あと、あの虫の王様が静かになったんですが…』
『ああ、あの虫けらの意志は、妾の意志で其方の意思から遠ざけているの、だから、其方には聞こえないように感じている。だけど、今でも小煩く喚いているわぁ……』
そうなんだぁ…と夢子が思ったとき、通路の向こうから、首を絞められた鶏の様な絶叫が飛び込んできた。
夢子は立ち止まる。丁度その隣に、ドアが開いていた。
そこからは、一層血生臭い、すえた匂いが漏れ出し、夢子の胃から何かが溢れそうになる。彼女はそれを堪え、まだ人間の形を保った右手で鼻先を覆い、部屋を覗き込む。
室内には、破壊された金属質の箱が転がり、透明な破片が砕け、床や壁や天井に、赤紫の飛沫が飛び散っていた。
更に、部屋のあちこちに羽毛の様なものが散乱し、その一部は、赤紫の飛沫で塗り固められている。
赤紫の物質を血痕の類と推測した夢子は、あの爪痕の主の蛮行と、即座に決めつけた。
匂いのことも忘れて、両手で胸を押さえ、身体の震えを抑えようとする。
激しく脈打つ心臓の音だけが鮮明に聞こえる。あとは静かだった。
と、その時
「ギュギィギャァアアァガガガァアアァァァアッ!」「ボォアオアバァアアガァァ……」
突如響き渡った甲高い絶叫。それに続いて低い咆哮が轟く。夢子が進もうとしていた通路の先から聞こえてきた。
両足が震えだす夢子は、床から足裏が離れない様な錯覚に襲われ、全身を包み込む寒気に痛みを感じた。
「ん?」
ヨヘルは、通路の向こうに目を向ける。しかし、すぐ近くから鳴り響く作業音で、何が聞こえたのか分からなかった。
「兄貴、本当にこれを動かせるのか?」
そう尋ねたパクーダは、横倒しになっていた満のロボットの隣に膝をついている。
その傍らでは、兄貴が床に胡坐をかいて、左腕に浮かべていた画面を見ていた。
それを操作するのは、千切れた右腕。床で断面を支え、低く構えられた左腕に手首を添え、人差し指で、画面の表示を操作する。
パクーダは、ロボットの胴体に開いた大穴に手を入れ、何やら配線をいじり、ボウルペンの様な工具の先端から青い閃光を放って、ロボットの内部を溶接をしていた。
ヨヘルが兄貴の背中に語りかける。
「なあ、そのポンコツを弄るより、兄貴の腕を直すのが先じゃないのか?」
「いいんだ…俺は片腕でも役に立つ。それに、今はこのポンコツの機能が欲しい」
「できたぞ」
そう言ってパクーダは立ち上がり、ロボットから離れる。
続いて、兄貴の千切れた右腕をヨヘルが支えると、兄貴本人が立ち上がった。
すると、倒れていたロボットの体内から駆動音が聞こえ始める。
「俺も片手で作業したぜ」
パクーダは、冗談めかして言う。
ロボットは胴体を起こすと、機械の足が動き始める。
ヨヘルに支えられた兄貴の右手が、兄貴の左腕の画面を操作。
ロボットは太い両足を曲げ、前のめりになった勢いで立ち上がる。
「姿勢制御装置は、問題ないな」
パクーダの言葉に兄貴が告げる。
「俺の操作がいいんだ……」
ロボットは前へ進み、左手の人差し指から、火花を放つと、溶接された壁にその指を押し付け、鉄を熱し始めた。
艦橋で作業をしていた満は、物音に気が付き、振り返ると、あの血走った目を思い出し、涙目になって、震え、慄いた。