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中指に嵌めた宝石付きの指輪を眺めながら、村人にはちょっと手に入らない銘柄の葡萄酒を喉に滑り込ませる。つまみには高級な乾酪だ。こんな優雅な晩酌を楽しめる者なんて、この村では自分くらいしかいないだろう。
町から来た医者というものはそれだけで有り難がられる。少しくらい高い治療費を取ろうが、怪我や病気が治るなら黙って金を払うしかないのだ。
——いや、治らなくても、だな。
ひとりの子供の事を思い出した。どうやって集めたのか、小金を握りしめて毎週せっせと母親の薬を買いに来ていた。
ガラス瓶に小麦の粉を混ぜた水を入れたものを、有り難そうに持って帰っていく姿は、いつ見ても滑稽だった。
根治治療に必要な薬は高額でとても売れないと言うと、材料を採りに行くという。本当に馬鹿な子供だと思った。採ってこれる訳がない。万が一採取してきたとして、薬に必要な他の材料は、今の季節にはまず揃わないのだ。薬草を一種類持ってきただけで薬を作ることは出来ない。
それでも自分は何も言わなかった。薬草のある場所は魔の森と呼ばれる森で、子供が入って無事で済む訳もないが、その生死に興味は無い。貧乏人で病を抱えた母親の面倒を看ずに死ねるならその方が幸せだろうとすら思った。
「もう一杯いかがですか」
物思いに耽っていると、静かな声がかけられた。
「おお。これは、すいませんな」
グラスに並々と深い紫色の酒が注がれる。香りをたのしんで、また一息に煽った。
——儂としたことが、こんな美人を前に気を散らすとはな。
ふう、と息を吐いて、机を挟んで細い指でグラスを持つ人物を盗み見る。
蝋燭の灯りを艶々と弾く豊かな金髪。つるりとした乾き知らずの肌。色づいた唇に美しい所作。清楚な服の上からでもわかる豊満な胸。
深夜も近づいてきた頃に訪れた、怪我を治療に来たどこぞのお嬢様だ。こんな田舎ではまずお目にかかれないほど洗練された美女に、我知らずこくりと喉を鳴らした。
「お気に召されましたか」
「ええ、ええ、気に入りました。これはとても良い酒ですね」
「それなら良かった」
まるでこちらを誘っているような、グラスの縁に指を滑らせるその仕草に、少しずつ気持ちが昂っていく。
「治療の代価がこれ一本というのも、申し訳ないことですが」
うつむいた顔から瞳だけが薄くこちらを向いた。長い睫毛が上がる瞬間までよく見えて、艶かしい。
——これは、いけるだろう。
「いやあ、これほどの酒であれば、こちらの方が得をしたようなものですからお気になさらず。——ところで、どうですかな?治療したところは、痛みはありませんか」
机の上に置かれた白く細い左手に、不躾に手を重ねた。僅かに見開かれた瞳は一瞬のことで、次には艶やかな微笑が浮かんだのを見てとって、口元が緩むのを抑えられなかった。
「ええ。私にはきちんと治療をして頂けたようで、痛みはありません」
一瞬、意味を測りかねた。
聞き間違いでなければ、今の言葉には含みがあったように思う。
「……それはどういった事ですかな?そりゃあ、きちんと治療しますとも。誰に対しても」
「小麦の粉を売りつけるような奴がよく言う」
じわりと衝撃が走った。薬と偽って売っていたことを言っているのか?何故、そんな事を知っている。誰にも言ったことなんか無いのに。
「気づかなかったか?今自分で自白していたぞ」
女は、すでに女では無かった。金の髪も、色をなくしたように銀色へ変貌している。暗闇に溶けるようなローブを纏った、全く別の人物が目の前に座っていた。
「特別製の『自白薬』は旨かっただろう」
美しい事には変わりがない。だが、そこに居るのは冷たさが具現化したような闇色の魔法使いだった。
「なっ、何者だ?!何の為に、ここに」
「何者でもないさ。そして何のためでもない」
いつの間にか魔法使いの右側に、ナイフが一本浮いていた。それが瞬時に空を裂き、自分の首筋に当たって、止まる。
「…っ!!」
ぷつりぷつり、皮膚が切れて血の筋が出来ていく。じりじり押し込まれるナイフの感触は、数ミリだけ食い込んだところで動きを止めた。
こいつは、危険だ。魔法使い自体滅多にお目にかかれないが、詠唱もなしにナイフを操るような真似、生半可な奴に出来るものではない。
「おお、おいっ、やめてくれ、何がしたい?!何が望みだ?!金か?金ならある……ッ欲しいだけやるから、だから……っ」
「金は要らない。代わりにこれだけ頂こう」
魔法使いはその手のひらに何かを遊ばせていた。細長い何か——光を弾く石のようなものが付いている——どこか見覚えのあるものを。
それが何か理解して、ぶわりと汗が噴き出した。次いで右手に鈍い痛みが沸き起こってくる。恐る恐る自分の右手を見ると、嵌めていた指輪ごと中指がなかった。
「————————!!!!」
悲鳴を上げようとして、声が出なかった。それが恐怖を倍増させ、代わりのように涙と汗は滝のように流れ出ている。
「小さいが邪石だ。人の身には過ぎる物だろうから貰っておく」
魔法使いは布に指輪を包むと懐にしまい、温度のない瞳でこちらを見た。
「その手では医者を続けるのは困難だろう」
喘鳴が煩い。何故、何故こんな事をされなければならない。
「裁く、つもりなのか……儂を」
今度は、弱々しいながらも声が出た。
「裁く……それも良いかもしれないな」
魔法使いはごく自然な動作で立ち上がると、戸口まで歩いていく。
「これ以上弱者を甚振るような真似を続けるのなら、お前の指は更に減ることになるだろう」
ついでのように言い置いて、魔法使いは瞬きの間に掻き消えた。
自分以外に何の気配もしない部屋の中で、束の間夢を見ていたような気になる。
ただ指の痛みだけが、消えない恐怖を心に刻みつけていた。