7
「さ、お腹いっぱいになったし、これからどうする?」
ついさっき起こった大事件に呆然としていた僕に天音は何事もなかったように話しかけた。
僕はその声を聞いて、ようやく現実に戻された。
いけない、いけない。
天使か悪魔かわからない、危険な女にキスされて僕は一瞬有頂天になっていたのかもしれない。
いや、有頂天じゃないな、びっくりしすぎて違う次元に放り込まれた、という方が正しい気がする。
有頂天という言葉は嬉しい時にしか使わないだろうから。
天音のキスは破壊力抜群の爆弾のように僕を吹き飛ばした。
「ねえ、聞いてる?
ど、こ、か、い、こ、う」
天音は僕を見てゆっくり一言ずつ、こう言った。
「え?あ、あぁ、今日は休みだからいいよ。
どこか行く?
行きたいところあるの?」
「うーんとね。水族館!」
「へ?水族館?」
「うん!さ、そうと決まったら早く行こう!
朝一で行かないと混んじゃうよ。
あ、その前にコンビニ寄っていい?
化粧品買って、君の家戻ろう。
昨日着てた服だけど、しょうがないか、それ着て最低限のメイクしなきゃ。」
最後の方は完全な独り言だった。
天音はそうと決まると、僕のキャップとマスクを素早くつけ、さっさと喫茶店を出てしまった。
僕は慌てて会計を済まし、喫茶店を出て天音を追いかけた。
マスターが一瞬ニヤリと笑ったのを僕は見逃さなかった。
いや、違う。
最近できた恋人、とか思ってるかもしれないが、マスター、それは間違っている、そんなスウィートな関係ではないぜ、と僕は心でつぶやいた。
やれやれ、こうして僕と天音は今度はコンビニを目指した。
コンビニは同じ通りにあった。
ここでメイク道具も揃うのだから、便利な時代だ。
天音は他には目もくれず、化粧品コーナーに直行し、あれこれ物色していた。
僕はその間にペットボトルの水を2本買った。
恋人とデートに行く前のようなワクワク感を久しぶりに感じた。
実際はそんな甘いものではなく、天使だか悪魔だかわからない影のある、謎の美人と半ば強制的に水族館に連れて行かれる、というのが本当のところだ。
一通り、化粧品を買った天音は(実際には僕が支払いを済ませたのだが)上機嫌でコンビニを後にして、僕のうちに向かった。
家に帰ると、天音はすぐに洗面所にこもった。
僕は一週間たまりにたまった洗濯ものを洗っておきたかったのだが、彼女がいる洗面所に洗濯機があるので、それは叶わなかった。
しょうがないので、掃除機をかけた。
10分ほどで天音は出てきた。
思ったより早いな、と思い、彼女を見ると、そこだけ世界が違ったように光輝いているようだった。
白いロングワンピースを着て、長い栗色の髪はまっすぐにおろされ、綺麗に化粧をした天音は目を見張るほど美しかった。
僕が見とれて何も言えないで立っていると、
「ねぇ、寒いかな、この格好。
何か羽織るものない?」
確かに天音が来ているワンピースは肩が出ていて、寒そうだった。
「えー、羽織るもの?
男物のパーカーか、セーターしかないなー。」
僕はクローゼットを物色した。
天音もやってきて一緒に覗きこむ。
「ふーん、地味な服ばっかりだねー。
あ、これ、いいんじゃない?」
天音は白と紺のボーダーのセーターを引っ張り出した。
僕も気に入っているもののうちの一つだ。
天音はそれを肩からかけ、前で袖を結んだ。
こなれた着こなしで、元々天音の物だったみたいだ。
「これでよし、と。
さっ、出発!」
天音は張り切って靴を履いて先に行ってしまった。
一体あの子はなんなんだろう。
僕の生活にズケズケと土足で入ってきて、たまに色鮮やかな楽園に一瞬にして連れて行ってしまう。
靴を履きながら僕はそんなことを考えた。
同時に僕のなかの新しい扉が開かれるような、今までに感じたことのない、不思議な感覚もあった。
何かよくわからないけど、あの子と冒険してみたい、と思っている自分に驚きながら、天音を追いかけた。