第三章【崩壊】
降り始めた雪で空が白く染まる中、彼女は「それでも私は幸せだった」と小さく微笑んでいた。
これから彼女が迎える終焉を思い確かな胸の痛みを覚えるけれど、私は何処かでそんな彼女が羨ましく眩しく見えた。
遊女になった時から、「幸せだ」と、心の底から言える女はいない。ましてや身請けされて自由になれたわけでも、好いた男と暮らせるようになったわけでもない。それでも目の前の彼女は、まるで今までとは別人のように暖かい眼をして「幸せ」と口にした。
『幸せ』。その言葉の意味は知っている。だけど中身は全くわからないものだった。叶わないからこそ、慰みに手をのばしていたい。月のようなものだと思っていた。
あの『月』に手が届いた時、私は何を思うのだろう。
第三章『崩壊』
肆拾『終焉』
女郎の夢とは、そも命までも確も散るに容易いものなのか。
吉原に来てこの方、何処の女が駆け落ちを謀って男共々折檻の末に死んだとか、はたまた河岸に零落し終いはお歯黒溝に身を投げた女の旧は何処其処の売れ娘であったとか、果ては何処の物語かと云わんばかりに彼処の女は度を超した仕置きに耐え兼ね見世に火をつけた結果見世の仕打ちが明るみに出てあっという間に見世が潰れた、なんていう噺までこの界隈では珍しくもなく聞きなれてさえいた筈の伊織は、今目の前の山吹により知らされた事実が信じられなかった。
先日霜月に入った今日の空はどこまでも青く清み渡っているのに、話がしたいと呼ばれ山吹に連れられてきた茶店で伊織が耳にした事の何と無常な。
「松尾姉さんが昨日死んだ」
他所の見世に身を置く山吹が気にかけていた彼女の姉女郎。間夫に入れ揚げていたとは聞いていたが、どうしてこうも早く死ぬことになどなったのか。
山吹曰く、松尾の情男は金に困り自分に入れ揚げていた女にまで無心していたらしいという。それを知った山吹は当然姉を諫めたものの、情を傾け過ぎていた女は男との関係を続けた挙げ句に子を宿し、利用されていただけなのであろう以前約束した筈の逃亡も心中も拒まれ棄てられたのだという。その頃には女は瘡毒〈梅毒〉を患い、容姿の崩れていく末路を鑑みて醜くなる前にと止める間もなく自ら命を断ち亡骸は投げ込み寺に送られたとの由。
何ということなのかと二の句が継げぬ伊織には、嗚咽を堪えることも出来ぬ友にかける言葉を持たなかった。
別れ際、友が溢した「必ず男を見つけて殺す」という言葉に、女郎の敵討ちなど世迷い事だと諫める事は、例え下手人となっても構わぬ覚悟を決めていた友を目にしては伊織には到底出来なかった。
肆拾壱『みらい』
霜月の八日、昼。吉原ではふいご祭でそこかしこの妓楼の庭では火除けの蜜柑投げが行われている。
芙蓉の郭もまた例外ではなく、勝山や芙蓉、姉さん女郎達がそおれと投げる蜜柑を禿の娘達が楽しそうに拾っている。
他の禿達と仲良く笑いあっている鶴巻を見て、夕べ勝山や他の女郎達と呼ばれた剛毅な座敷での話を芙蓉は思い返していた。
夕べ来ていた客というのが所謂お武家様であるが、場が吉原指折りの大見世という格柄、浅黄裏(あさぎうら、武左とも。金払いはよくない癖に威張り散らす勤番武士を侮蔑した呼び方)ではなく、何処ぞの藩の留守居役という初老の田村という男と、彼を慕う武士などであった。とはいえ、郭を一晩貸しきってどんちゃん騒ぎした挙げ句に叱責を被るなどということはなく、きっと留守居役の人柄と指導の賜物なのであろう朗らかに語り合うような宴席であった。留守居役の田村は亡き橘の馴染み客で、以前から同じ座敷に呼ばれていた芙蓉のことも贔屓にしてくれていた。床を共にするようなことはなく、話し相手を求めているような風変わりな客というところは橘の頃から変わっておらず、まるで歳の離れた父親のような人である。
彼の老人もまた、橘の死を共に哀しみ、芙蓉の事も案じてくれる人間であって、鶴巻を紹介した折りには孫娘のようだと喜んでくれた。
さてその田村は、芙蓉や勝山と鶴巻のことに話が及ぶと、隣に座る親交の篤い文人学者の男との付き合いで見聞を拡げられたと語り、何れ鶴巻にも良い教養を学ばせることが肝要だと説いた。
女郎は禿のうちから幅広く教養を学び、書道、茶道から三味線など楽や将棋などまで各方面の師を招いて客の相手に不足しない為稽古に励む。
鶴巻を苦界の女郎に育てる事に、正直芙蓉は乗り気ではない。しかし、自分や実の妹もそうであるように、吉原に入った女に逃げ道などない。ならばせめて一方の立派な花魁に育ててやろうとは姉の心情である。
意識は昼の庭に戻り。
隣で同じことを考えていたのであろう勝山は、「細見で山形に一つや二つ星つくような女郎に育ててやろうじゃないか」と芙蓉に微笑んだ。
翌朝折よく訪れた貸本屋に目を輝かせた鶴巻に、沢山本を読むんだよと気の早い難しい本までこれはどうだあれはどうだと二人は早速薦めたのである。
肆拾弐『想い』
先日吉原の水道尻では、秋葉様の祭が行われた霜月の半ばも過ぎれば、冬の羽織を纏っていても肌を撫でる空気は随分と冷たく感じられるようになってきた。
秋から冬という時節は、殊更に人肌が恋しくなるものという切なさは、相手を選ばなければ無縁ではないかと市井の人間には思われるであろう。
かくいう伊吹もまた、女郎という身分柄恋など縁遠く、ましてや自分が恋慕の情を募らせひとりの男の肌を求める日が来ようとは努々考えたこともなかったのも当然で。
こうして竜臣に惚れているのだと自覚してしまった今日となっては、ひたすらに男を待ち、いざ登楼すれば名を呼ばれたい触れられたい求められたいと欲は募るばかりであった。
今夜は会えるか、いっそ苦しい程貴方が恋しいと告げて仕舞おうか、他の客の相手をした床の夢で見るのは竜臣に抱かれ肌を掠める口付けひとつにすら感じて甘い声をあげる己の姿という始末である。
そんな夕べ見た夢を反芻しては、昼とは思えぬ空を眺めてつくこの溜め息すら甘いのではないかと錯覚していると、部屋の一角から「覚悟はいいか」と吾妻の声がした。
何事かと問えば、初雪の金蔓にしている客が起請文では信用ならぬ名を彫れと強いたので、渋々吾妻に彫物を頼んだのだという。
苦痛の声を手拭いを食い縛り耐える初雪の白い腕に、好いてもいない客の名が焼かれていく。その様をただ見つめる伊吹の心中は、初雪のように『竜臣命』と彫ってしまいたい衝動に駆られていた。
肆拾参『予兆』
朝から雪がちらつく曇天の師走の空。久方ぶりに妹女郎の浜木綿を連れた伊吹は、昼の空き時間に茶屋で一息ついていた。
「やっぱりこう寒いと温かい茶に限るね」
「姉さん、年寄りみたい」と呆れる浜木綿の表情は、寒い寒いと文句を垂れる言葉とは裏腹に、近頃こうして共に出歩くことから遠ざかっていたこともあって満更でもなさそうであった。
そろそろあれが食べたい、これが流行っているらしいと他愛ない話に華を咲かせていると、いつぞやの夏の日のように、鶴巻を連れた芙蓉が店の暖簾を潜って声をかけてきた。
「ゆうに、伊吹も久しぶりだね。二人も息抜きかい」
「おねえ、奇遇やね」
珍しいと驚く浜木綿に笑みをひとつ溢し、茶を二つ、と店主に頼んだ芙蓉は、鶴巻を促し二人の傍に腰掛けた。
「偶にはね。うちの見世は他所の大見世よりも鬼じゃないしさ」
「鶴巻も、随分芙蓉さんになついたみたいじゃないか。良かったね」
初めて会った頃と比べてにこにこ笑っている鶴巻を見て、伊吹も我事のように喜んだ。
「そういや、おねぇ。一寸痩せたんじゃないん」
流石実の妹というべきか、浜木綿の問いに伊吹も改めて目の前の芙蓉を観察してみると、只でさえ色白でほっそりとした顔付きが、より細く見受けられ顔色も若干蒼白い。
「確かに。風邪でも引いたの」
「いや、少し疲れてるだけだよ大丈夫」と何時もより弱々しく笑った芙蓉の言葉に、隣で黙って美味そうに茶を飲んでいた鶴巻が「大丈夫じゃないよ」と心配そうな声をあげた。
「最近芙蓉姉さん、あんまり飯も食べなくなったんだ」
芙蓉付きの禿というだけあって、鶴巻は姉女郎の変化を敏感に感じ取っていた。
「どっか悪いん」
姉の不調とあっては、妹の浜木綿にも不安が募る。そんな大事な妹達に「少し食欲がないだけだよ。心配ないさ」と芙蓉は沈む二人の頭を撫でた。
きっと先日の軽い風邪が長引いてるだけだと笑う姉の横顔に、浜木綿のみならず伊吹も胸の裡に芽生えた言い知れぬ不安は払拭されなかった。
肆拾肆『愛しい女』
何時ものように店を終えて今夜も馴染みの女に会うため、竜臣は雪のちらつく吉原への道を行く。
あの見返り柳を越えれば吉原よと、今日も己を出迎える女を思い浮かべた竜臣は、そういえば女に出会ったのも雪の日であったかと反芻する。
女に目をとめたのは、雪の降る昼間の仲ノ町通りであったか。年を越えればあれからもうじき一年。彼女の声と笑顔に思いの外癒されていくうち、気づけばその声に姿に亡き恋人の蔭を追わなくなった。なつを忘れた訳ではないが、全く別のところで伊吹という女に対する純粋な愛しさが育っていった。
伊吹の小さな身体を抱き締めて眠る床で見る夢が、なつから伊吹にかわっていた。
好いた女が女郎であるなど竜臣には然して問題ではない。しかし伊吹の気持ちも知らねば、店を持つ己が身とて女郎の彼女を身請けするのも容易くはない。
此処まで考えるようになった竜臣は当然のこと、何時からか床を共にする伊吹を抱いて永久に我が物にしたいとも想いを募らせている。
「途中の店で饅頭でも買っていってやるか」
煙草と酒を好む女が、欲しがりはしないものの実は甘味にも目がない事は気づいている。
普通は女郎が繋ぎ止めたい客に菓子をやるもんだ、と櫛をやった時のように照れくさそうに受けとるのであろう。
いつぞや枕元で所望した、自分の好いた色の美しい羽織を纏って待つ女のもとへ、逸る足で男は大門を潜っていった。
肆拾伍『秘密の恋』
二人の女郎が各々の胸の裡を明かし合う場が出来たのは、偶然か必然か。
竜臣を送り出した翌朝の大門前、男を引き留めたい衝動を抑えて「また、」と別れを告げた伊吹は、同じく客を見送りに来ていた芙蓉に声を掛けられた。
同じ頃合い、大門で見送りをする女郎は数多あれど、意外に見知った顔と鉢合わせする機会は少ないもの。
折角だから少し話でもと、茶屋の開くその日の昼に待ち合わせをする運びとなった。
何時通り身仕度を整え、約束の時間にいつもの茶屋へとやってきた伊吹は、未だ障りのありそうな芙蓉を気遣うも当人に問題ないと返されてはそれ以上いい募るのを止めた。
「私ね、いい人がいるの」
徐にそう切り出した芙蓉に、伊吹は息を呑んだ。
「うちに出入りしてる髪結いの直五郎というひとでね」
茶の入った湯飲みを手慰みに語った芙蓉は、直五郎の優しさに、触れる指先に、恋を、幸せを感じるのだと続けた。
芙蓉という女を、いつも落ち着いていて道理を弁えた人間だと思っていた伊吹には、まさか彼女がそのような情熱を抱いていたなど露にも思っていなかった。
しかし、こうして自分に打ち明ける女を見て自分を重ねた伊吹は、素直にその先にあるものを訊いてみることにした。
「芙蓉さんは、そのひととこれからどうするの」
「この気持ちは未だ伝えていないのよ。どうすればいいのかずっと迷ってたから」
迷っていたとはどういう事か、との疑問を伊吹の表情から読み取った芙蓉は、先日察した勝山からの助言を貰ったのだという。
「勝山さんにも今でも忘れないひとがいるらしくてね、女郎でも女には変わりないんだから恋はしてもいいんだって」
だからもう少し勇気が出たら伝えるわ、と笑った芙蓉はとても美しく幸せそうだと伊吹は感じて、自分の恋心も打ち明けることにした。
「実は私も、好きになっちまった男がいるんだ」
竜臣という変わった男に声が気に入ったと言われたこと、一年近く話し相手の関係で馴染み客になっていることを話し、
「今は名を呼んで欲しい。他所の女の代わりでもいいから肌に触れて欲しいんだ」とずっとしまいこんできた本心を明かした。
目を伏せた伊吹にの耳に届いたのは、芙蓉の意外な「やっぱりね」という言葉。
「今朝見送ってたひとでしょう。伊吹の表情ですぐわかったわ」
驚く伊吹に、だから今朝声をかけたのだと芙蓉はいう。
そして、心配かけたくないから浜木綿にはお互いもう暫くは内緒ね、と約束して、
「女郎でも恋をしてもいいんなら、私も今度素直に言うよ」と腹を決めた伊吹の胸に、迷いはなくなった。
肆拾陸『優しさ』
「伊吹姉さん、滋養に良い食い物って何や」
師走も残り僅かともなれば、いよいよ寒さも本格的と今日も湯屋で暖まりに来ていた伊吹は、隣で同じく身体を洗う浜木綿の質問に驚いたものの、彼女が健康を案じる人物がすぐ思い当たった伊吹は「芙蓉さんか」と訊ねる。
「うん、この間伊吹姉さんが会った時も調子悪そうやってんろ」
秘密を打ち明け合ったあの日、恋の事は内緒にしてあるものの、芙蓉の具合の事は心配だろうと妹に知らせていた。
「滋養といやあ、やっぱり人参とか卵じゃないか」
病気の親の為に高価な人参を買う金が欲しいと、女郎が客から大金を引き出す方便にも使う常套句である。
「人参かぁ…、おねぇの為に私もねだってみようかな…」
厭だけど背に腹はかえられぬ、と思案顔の浜木綿に、「ゆうは優しい子だね」と伊吹は浜木綿の頭を撫でた。そして、照れた浜木綿が拗ねるのも、何時もの如くである。
肆拾漆『本当の、』
いよいよ年の瀬も押し詰まらんという雪の夜。次こそは想いを伝えんと伊吹が待ち望んでいる男が姿を見せた。
竜臣を迎えてからずっと、今夜の伊吹は何時にも増して心の臓の音が聞こえてしまうのではないかと気が気ではない程に緊張している。
今夜も優しい眼差しで、優しい言葉で傍に居てくれるその男に、意を決した伊吹は酌をする手を止めて男の大きな手を取り告げる。
「私を抱いてくれ」
なんて品のない言い方しか出来ぬのだろう。市井の女ならばまだ真意も伝わろうに、と口にした本人でも呆れているが、これが偽らざる本心なれば仕方なし。
震える声に、赤い頬に、駆け引きの冗談などではないのだと読んだ竜臣は、「いいのか」と返した。
本来吉原とはそういう目的で女を買う場であれば、客が女郎に是非を問う必要などない。
「あんたが愛する他の女のかわりでもいい。あんたに触れて欲しいんだ」
まだ恋も知らぬ幼い頃に吉原に連れて来られ、亡き姉さん達に恋なんて存在しないと教わってきた。望みなんて本気で持つものじゃないと諦めて、死ぬまでの短い享楽の夢よと生きてきた穢れきった女郎の身。今更大事にされるなどとは思ってはいない。
「あんたが好きになっちまったんだ」
だから私を楽にさせてくれ、そう伝えようとした伊吹の言葉は、竜臣の腕の中熱い口付けに阻まれた。
いつの間にか流れていた涙を、男の指が優しく拭う。
「誰のかわりでもねぇ、俺もお前がずっと欲しかったんだ」
伊吹を抱く腕に、もう離さぬと力が籠る。
「伊吹、愛してる」
額に頬に唇に落とされる口付けに、伊吹は死んでもいいと思う幸福を実感した。
頸に胸に腹に、男の物だと痕が欲しいとねだった。
繋がった二人の手に身体に熱に、このまま溶けてしまえと願った。
何度も自分に愛を囁いて果てる竜臣に、「楓」と名を呼んでくれと、いつか男と並んで参った日の願いを、男に叶えて貰った。
その夜男の腕の中で見た夢は、幸せに満たされていた。
肆拾㭭『大切なひと』
本日、吉原の正月の空は晴天である。
大門は閉じられ、妓楼の前には背中合わせの門松が飾られている。
そんな貴重な休みは、今年も大部屋で全員共に雑煮を食べるのは恒例のこと。
「美味いか」と何処か上機嫌で訊いてくる隣に座る伊吹の顔に、浜木綿は原因は解らねどまたひとつ姉が遠くへ行ってしまった心持ちがした。
初春の祝いも一段落つき、女郎達は連れだってまたもや恒例の吉原の小さな社に詣でに出掛ける。
姉・芙蓉と、姉女郎・伊吹の二人の姉と共に過ごす日々がずっと続くように、浜木綿の願い事は毎年変わらない。
「何をお願いしたの」と毎度の如く訊かれるが、今年もこの願いは誰にも明かさないと決めている。
目の前でけらけらと笑う伊吹も、偶に会えば優しく微笑んでくれる芙蓉も、これから先も傍に在り続けると信じて疑わない浜木綿がもしも、すぐそばまで迫っている哀しみに気づいていたならば、きっとすぐに引き返す事を強く願っていただろう。
肆拾玖『意味』
睦月の間、先月想いの繋がった竜臣と伊吹は、夜見世の郭以外、裏茶屋などで度々逢い引きするようになっていた。
早いもので睦月も終わりかというこの日も、人目を忍ぶ裏茶屋の褥の中に余韻に浸り竜臣に確りと抱き締められる伊吹がいた。
あれから幾度も重ねた逢い引きの間に、おなつの事や身の上など竜臣のすべてを聞いていた伊吹には、竜臣の自分に対する想いにもう一片の翳りもない。
「いつか、少しでも早く楓を身請けしてやるから待っていろ」
抱き寄せた伊吹の白い肩をそっと撫でて、竜臣は約束だと囁いた。
先日竜臣の名を彫りたいと言った伊吹だが、好いた女の綺麗な身体に傷なんてつけるなと、いつも代わりに沢山の赤い証をくれる。そんな竜臣に出会えて良かった、生きてきた意味があったという伊吹に、これからも山程意味を教えてやるぞと男は女に誓った。
伍拾『白椿』
「芙蓉姉さん、具合はどう」
料理番から貰ってきた質素な粥の膳を持って、鶴巻は厭な習慣になってしまった姉女郎の部屋を訪れた。
「鶴巻か、面倒かけて悪いね」
先程渡した湯で身体を漸く拭い終わったのであろう、整えている白い襦袢の袷からは随分痩せ細ってしまった芙蓉の身体が覗く。
如月に入り、今日も外はやむ気配のない雪の日なれば、原因不明の病床の姉女郎の細い肩に、鶴巻は慌てて羽織と綿半纏をかけてやった。
去年の秋口から次第に食が細くなってしまった芙蓉は、今では椀によそったこの僅かな飯も口に出来なくなっていた。
胃の腑が受け付けぬのか、吐き気を理由に欲しくないという姉に、蓮華一口だけでも食えと無理矢理食べさせている始末。
美しい肌は痩せこけ、肉付きの程よい身体は骨が浮き出ている様子であれば、一月程前から客も取れぬようになった。
すまぬ、と謝る姉女郎に、暇をみて様子を見に来る勝山や直五郎、他の女郎仲間達と同じ言葉をかける。
「食べて眠ればじきによくなる」「早く治して戻ってこい」いつもかける言葉は、一向に良くなる気配を見せない病状において、まじないのように不確かな、芙蓉を繋ぎ止める儚い願いのように無力であった。
ほんの少し口にしただけの昼餉を終えた芙蓉のもとへ、勝山や他の女郎達の髪結いを終えた直五郎がやってきた。
勝山より二人の間柄を聞いている鶴巻は、邪魔になってはと「何か欲しいものがあったら遠慮しないで呼んで」と芙蓉に伝え、空の膳を手に部屋を出ていった。
そういや今日は髪結いの日か、と思い出した芙蓉は「私も何時ものように直さんに結って貰いたいのに」と吐露する。
思うように身体も満足に動かぬ芙蓉は、寝たきり同然で美しい髪もすっかり乱れたままで。
ついこの間まで己が髪を結っていた美しいそのひとの痛わしい姿に、直五郎はどうしようもなく胸が痛む。しかし、愛しい女に心配をかけまいと、以前と変わらぬ微笑みを浮かべた。
「芙蓉さんは、今日も綺麗ですよ。良かったら今日も髪を解かせて貰えませんか」
じゃあ、と弱々しく笑った芙蓉の艶が失われた髪を、直五郎は何時にも増して丁寧に優しく櫛削る。少し櫛を入れただけで無惨に抜けてゆく長い髪に女の命の儚さをみて、直五郎は自分が替われるものならばと幾度思ったか知れぬ。
静かなその空間は、雪のせいか、哀しみのせいなのか。櫛の滑る音だけが響く。
「私ね、直さんにこうして髪を解いて貰う時間が、一番幸せなの」
病床の上でも尚、静かに目を伏せて笑う愛しい女の顔を、直五郎には何者にも優り美しいと思った。
鋤くだけの作業はあっという間に終わり、男は女の為にと持ってきた花を差し出した。
「此処に来る時、綺麗に咲いていたので。どうぞ貰って下さい」
「白椿、もうそんな時節なのね」
白椿の花言葉は「理想の愛」「至上の美」そして「誇り」という。芙蓉に贈るには最適な花だと思った。
「貴女はこの花のように美しいひとです」
俺は貴女を愛しています、そう愛を囁いて抱きすくめた女の白い頸筋に口付けをする。ややあって、私も、と返してくれた芙蓉の涙が、小さな掌に収まるひと房の花をそっと濡らした。
伍拾壱『伝えたい言葉』
直五郎と想いを伝え合った日から半月も経たぬうち、芙蓉の容態はいよいよ回復の見込みもなく今日明日にも消えんとしていた。
鶴巻は昼見世が始まる前にと、羽織も取らず浜木綿と伊吹を呼びに走った。
浜木綿と伊吹が部屋に飛び込んで目にしたのは、呼吸は驚く程に微かで、身を起こすことも出来ず喋るのもやっとという変わり果てた女郎の姿だった。
あと少し金が貯まれば人参が買える、こんな病すぐに治してやると姉の手を握りしめる浜木綿の声は震えている。
伊吹はこれが最期の会話になるだろうと、「芙蓉さんのお蔭で竜臣と結ばれたよ」と幸せな笑みを見せた。ずっと報せようと思っていたことだ。
それを聞いた芙蓉は、「良かった、私も叶ったんだよ。お揃いだね」と微笑んだ。
「伊吹、それとゆう。あんた達は私の宝なんだ、」
妹の手を姉は力なく握り返す。
「諦めないで、…必ず、幸せになるんだよ。…佐奈」
最期に妹の実の名を呼んで、幸せそうに眠るように目を閉じた芙蓉の顔は、亡骸とは思えぬ程に美しかった。
おねぇ、茜ねぇ、
泣き叫ぶ浜木綿を抱き抱えるようにして、伊吹は部屋をあとにする。昼見世の刻限が迫っている女郎に、愛する者の死を弔う暇はない。
芙蓉の死を知った勝山が、直五郎に報せをやった。萎れてしまっている花の代わりにと、先程摘んだばかりの新しい白椿を握らせて、直五郎は生涯ただひとりの最愛の女の冷たい唇に最後の口付けをした。
「茜さん、身体には気を付けて…、俺が逝くまで待ってて下さいよ」
部屋の外で膝を抱える鶴巻の頭を、気がすむまで泣いてやれと勝山は静かにそっと撫でてやった。
伍拾弐『泡沫』
弥生。雪の時節が終わり梅が咲き始め、吉原にも春が感じられるようになってきた。
先月たったひとりの実の姉を亡くした浜木綿は、あれから涙こそ見せなくなったものの笑うこともなくなった。
団子や饅頭など浜木綿が好きな甘味を伊吹や伊織達が差し入れてやっても、何も要らぬと閉ざす始末。きっと姉の亡骸が送られた浄閑寺に墓参りにでも行きたかろうに、幾ら吉原近くの寺とはいえ女郎の身なれば一刻すら外に出ることも叶わぬ。
芙蓉の弔いが済み程無く、伊吹と浜木綿は鶴巻が届けた勝山からの文で芙蓉の病の原因が毒盛であり、下手人の料理番とお針が女郎殺しの罪で処断されたと知らされた。二人は奉公人という身分なれば、西方寺に投げ込まれたのであろう。それを聞いた浜木綿の例えようもない憤りと同様に、伊吹も下手人など弔う価値もないのにと心底思った。
暮六ツを迎えれば、今夜も張見世に素見(すけん、冷やかし」や客が群がる。伊吹は竜臣を待つ傍ら、男の快楽の為に囚われる女郎の地獄の生きざまを呪った。
浜木綿の今夜の相手は半可通(はんかつう、江戸っ子気取りの知ったかぶりする冴えない客)の男であって、訊きもしない下らない噺に辟易しながら味も何も感じなくなった煙管をまたひとつくわえて紛れも出来ぬ虚しさをもて余した。
伍拾参『思わぬ』
弥生も半ば。先日の逢い引きの折り、竜臣から身請け金の目処がついたと聞かされた伊吹は、妹女郎の残して行くことに不安を抱くも、二人分も金が工面出来ぬ故連れても行けねば仕方なし別れの時までは傍に居ようと考えていた。
とはいえ、未だ今すぐとは行かぬ身請け話なれば、正式に決まるまでは今少し黙っていようと過ごしていた折り。
思いがけぬ他の客から、近く身請けをと持ち掛けられた伊吹は、誰にも知られぬ頃合いを見計らい遣り手婆のもとを訪れた。
「身請けを断りたいって、どういう事だい」
珍しく頭を下げてまで頼みにきた伊吹に、老婆は有り得ないと怪訝に問う。
「惚れた商売人の男が、もうじき金が出来るから身請けしてくれるんだ」
だからそれまで待ってくれと、伊吹はもう一度深く頭を下げた。
遣り手婆も身請け金が手に入るならどちらでも構わぬし、鬼でもなければ女の情けも持ち合わせている。長い付き合いの伊吹の幸せを思えば、今生の願いぐらいは叶えてやりたいと思うが。ただ、断ろうにも相手が悪かった。
今すぐにでも伊吹を身請けしたいという客は、伊勢屋という名の知れた商売人であって、身請け金も大層弾むと楼主にまで告げてしまっている。最低限の身請け金をいつ持参出来るかわからぬ男よりも、今すぐ大金を持ってくる男を取るのは避けられぬことであった。
珍しく人前で泣き崩れる伊吹に、老婆はせめてもの忠告を「まかり間違っても足抜けなんて考えるんじゃないよ」折角自由になれるのに、とその背を撫でた。
伍拾肆『足抜け』
翌日、一晩悩みぬいた伊吹は今すぐ会いたいとの文を竜臣に届けてくれと親しい下女に頼み、男を呼び出した裏茶屋で事の次第を話しかくなる上はと相談を持ち掛けた。
「私を連れて逃げて欲しい」
突然降って湧いた障害に、途方にくれそうな心持ちの竜臣も、伊吹と生きたいと願う気持ちは同じなれば、是と応えた。
男が手引きしたとて逃亡が如何に困難で、捕らえられた先に待つ苛烈な折檻や鞍替え後の河岸への転落の末路はどれほど惨いか、女郎でない竜臣でもよく知っている。
しかし、目の前の愛しい女が他の男の愛人にされてしまう現実を前にしては、危険を侵しても二人の人生を諦めぬという選択肢を選ばざるを得なかった。
伍拾伍『逃亡』
一刻の猶予も残されてはいない伊吹は、その晩早速逃亡を決行することにした。
泊まろうとした客には「急な行水(月経)で」と方便を使い、夜見世を終え郭の人間が皆寝静まる大引け(八ツ、午前ニ時)を待って郭を抜け出した。
見廻り人に見つからぬよう提灯は使えぬ暗闇は心許ない。しかし、黒い頭巾を目深に被り人目の寄り付かぬ羅生門河岸の道を蔭に紛れて進んだ伊吹は、なんとか約束の刻限までに竜臣が待つ明石稲荷の境内に無事たどり着いた。
吉原から脱出する方法は二つある。ひとつは高い塀を乗り越え吉原の周囲を取り囲むお歯黒溝を渡ること。そしてもうひとつは男の客に変装して、面番所と四郎兵衛会所の監視を欺き大門の脇の袖門を潜ること。
前者は怪我の危険が大きい為、同心の陽動と合わせて後者の策を実行することとなった。
同心の目を小火騒ぎに向けて、騒ぎに紛れて無人とはいかねども手薄になった検問を手早く済ませて門を潜れば、外には既に籠を待たせてある。
少しでも長く留まっていれば怪しまれる為、男物の着物を着せて河岸見世帰りの冴えない武家の奉公人に仕立てる。髪も女と露見せぬように、結わえるだけの簡素な見た目にし強かに酔った伊吹に肩を貸した竜臣が介抱しながら連れて帰るという設定である。酔っていれば顔を伏せていても怪しまれぬし、急いでいても怪しくはない。
強引な客引きで有名な河岸女郎に引き留められ、帰りが遅くなったという口実で抜けるぞと、竜臣は伊吹にひとつ口付けし男二人連れを装い大門を目指して歩き出した。
月明りの下、もう少しで見頃を迎える夜桜に囲まれた大門が見えてきた。
吉原名物の桜並木を、竜臣とこんな形で素通りせねばなるまいとは残念であるが、此処を無事抜ければ生涯共に過ごせるのだと不安を押し隠して、そろそろ芝居開始と竜臣に肩を預ける。
千鳥足で歩き、なんとかたどり着いた風体で門番の男に許可を取る。集まってきた同心達の注意を剃らせる為、「そういえば通りがかりの明石稲荷の辺りで小火だと地回り(冷やかしだけで一日中吉原を彷徨く男)連中が騒いでやしたよ」と報せてやる。
それを聞いたとみるや、同心達はこうしちゃいられねぇと大慌てで今二人が来た道を走っていった。残ったのは二人の男で、竜臣は簡単に事情と身分を説明すると気分の悪い連れの為に早く通してくれと許可を仰いだ。
「よし、通れ」との言葉に、さっさと抜けようとした二人を、黙ってみていたもうひとりの男が見咎めた。
「まて、その酔っぱらい。念の為に顔をみせろ」
竜臣は閉口し、伊吹の背に季節外れの厭な汗が流れる。
暗がりなれば怪しまれぬうちに素早く見せて、顔色が悪いのだと装う他はないと、伊吹は口許に手をやり顔を僅かに見せる。
新米の同心連中ならば、これで誤魔化せていただろう。しかし誤算なのは、運悪くこの男は会所の長で長く吉原勤めをしている故に女だと見破る目に長けていたのである。
「お前、女じゃないか。こんな時間に男装で門抜けということは、女郎だな」
伍拾陸『露見』
「神妙にしろ」
竜臣と伊吹は必死の抵抗も虚しくあっという間に引き離され、縄で容赦なく拘束された。
提灯の明かりに照らされた美しい顔が、ほどかれた艶やかな髪が、無常にも伊吹が女郎であることを物語る。
程無く小火騒ぎが虚言であったと気付いた同心達が戻った上では二人で心中することも叶わず、竜臣は沙汰が下るまで会所の牢に入れられ、伊吹は郭の折檻部屋の柱に縛り付けられた。
二人を収監し、騒ぎが郭に知れ渡った頃には、吉原の闇が晴れようとしていた。
五拾『あねといもうと』
翌朝、伊吹逃亡の報せを聞いた浜木綿達女郎仲間は、思わぬ事態に言葉もなかった。
殊伊吹の妹女郎である浜木綿に至っては、何故自分が何も知らないうちに姉が騒動を侵したのかと、悔しさと哀しみの海に突き落とされた心地であった。
女郎達は伊吹は勿論のこと、硬く小さな拳を握りしめて涙も流せぬ浜木綿を気遣うも、かける言葉を誰も見つけられねばそっとしておくしかしてやれることはなかった。
閑散とした昼見世も、いつも通りの夜見世も終わった引け四ツを過ぎた頃。夜食を終えた浜木綿に、床についた楼主と女房の目を盗んで遣り手婆が握り飯ひとつと鍵を浜木綿に手渡した。
「伊吹と話したいだろう」
老婆の真意が解らず躊躇する浜木綿の背を、傍に居た藤袴がそっと押した。それを見ていた伊織も初雪も、浜木綿がどの選択肢を選ぼうと目を瞑ろうとその背を見送った。
真っ暗な廊下を静かに渡った先に、鍵がかけられた折檻部屋があった。
普段は用もなければ誰も寄り付かぬ、蔵のような小さな部屋である。
意を決して鍵を開けて暗い部屋に入った浜木綿が目にしたのは、白い襦袢で梁に吊るされた伊吹の姿だった。
想像していたとはいえ、見るも無惨な姉女郎の身体は、身体中は鞭で打たれたのであろう酷い痣に血が滲み、顔も目を背けたくなる程に殴られていた。
「伊吹姉さん、」
「ゆう」
憔悴しきった伊吹の目が自分のそれと交わることに、浜木綿は久方ぶりのような錯覚を覚えた。
「なんで逃げたんだ、」
理由ならば朝遣り手婆に聞いたからよく知っている。それでも、浜木綿は伊吹に直接問わずにはいられなかった。
「ごめんね、ゆう。
…私は知っちまったんだ。恋の味も、好いた男に愛される幸せも。
だから、その気持ちからは逃げられなかった、逃げたくなかったんだよ」
そう話した姉女郎の顔に、捕らえられても尚後悔の色は一切なかった。
私のもうひとりの大切なこの人は、生きる意味を見つけてしまったんだ。
そう、と小さく呟いた浜木綿は、黙って提灯の火を取り出すと、姉を吊るす縄を焼き切り残る縄もほどいてやった。
「婆からの伝言、飯を喰えって」
口の端に滲む血を手拭いで拭ってやった。
「……それともうひとつ、男は夕刻逃げ出して同心連中が未だに血眼になって探してるんだって」
きっとまだこの辺にいるんじゃないの、と何でもない口振りで、先程老婆心が態と伝えてきた情報を教えてやった。
そのままでは見苦しいと言い訳して己の羽織をかけてやると、呆けていた伊吹は「ありがとう、ゆう」と静かに涙を流した。
「飯はあんたが喰いな」と立ち上がる伊吹に、「勝手にどっかいっちまえ、」と女房が取り上げた櫛を握らせそう吐き捨てて背を向けた浜木綿は、鍵を開けたまま部屋を出ていった。
残された伊吹は、
「本当にゆうは優しい娘だね…」と笑った。
伍拾㭭『情け』
伊吹が部屋を出ると、裏口が開いていた。此処の戸締まりをするのは遣り手婆だから、本当にお人好しの鬼もいたものだと思う。
そっと外に出ると、待っていたかのように竜臣が軒下の陰から姿を現した。もう一度会える感動に、二人は抱き合い会いたかったと囁きあった。
また一夜、吉原の夜が明ける。朝早くから吉原の角には、同心や郭の人間達の人だかりが出来ていた。
遣り手婆に呼ばれてついてきた浜木綿が見たのは、お歯黒溝に二人抱き合って身を投げた伊吹と竜臣の変わり果てた姿だった。
警備が強化されていては逃げられぬ、二度も逃げれば浜木綿達郭の人間にも責が及ぶであろう。
浜木綿は姉に男と生きて欲しかったから逃がしたのだ。だからせめてもの手向けに己の羽織を着せたのに。
妹の願いを裏切った姉の白い顔は、好いた男の腕で共に死ねたことに満足だと言いたげに、幸せそうな穏やかな表情をしていた。
伍拾玖『遺されたもの』
芙蓉に続きその哀しみも癒えぬうちに伊吹まで喪った浜木綿は、確かに哀しい筈なのに時間が経っても涙のひとつも流れてはこない。唯一慕う大切な姉二人がもう居ない、その初めて味わう虚無感をどう消化すればいいのか、浜木綿には全く解らなかった。
他の女郎仲間達や郭の人間が、自分を以前にも増して気遣ってくれていることは理解している。
それでも、浜木綿はその気質故に他者を頼ることはもとより、甘えることなど出来はしなかった。
伊吹の棺桶を見送り、すぐさま姉女郎の部屋も空けなければならない。今日の夜見世までには移れとの指示なれば、昼の間に手早く済ませなければならなかった。
主の居なくなった女郎部屋には、今すぐにでも本人が帰ってきそうな程に女の持ち物がそのまま置かれている。
皮肉にも、頃合い的に順を踏まえ、妹女郎の浜木綿が持ち上がりの形でその部屋を使い部屋持ち女郎に格上げという指図が降りた。
幾ら慕っていた姉女郎の物とはいえ、いつまでも死んだ女郎の物を部屋に置いておく訳にもいかない。目立たぬ小物や姉愛用の煙管盆のみ形見として、楼主には黙って貰っておくことにした。
伊吹の決して多くはない私物を片付けている浜木綿は、皺などもなく書かれて未だ日も浅そうな文を見つけた。
件の好いた男に宛てたものかと思ったが、宛名が自分の名であることに息を呑んだ。
恐る恐る文を広げてみれば、よく見慣れた姉女郎の綺麗な字で綴られている。
伊吹は態々文で自分に何を伝えようとしていたのか、そも何故直接話さなかったのか、その答えは文を読み進めていくと自ずと解る内容であった。
文には、竜臣との出会いと伊吹の心情の変化、芙蓉に恋をして良いのだと後押しされて想いを告げて大切にされたこと、浜木綿は自分にとって血の繋がりがなくてもとても大事な妹であったことが記されていた。
そして、竜臣とのことを秘密にし、これから黙って足抜けする自分を許して欲しいとある。そのことから、きっと脱走する直前に認めたものだと判る。
【この先どうなっても、私は後悔しない。
こんな私でも、ゆうや芙蓉さん、郭のみんな、立派な家族が沢山出来た。そして竜臣とも出会えて、恋を教えて貰った。私の吉原は、ただの地獄では終わらなかった。
だから、女郎であっても私は凄く幸せだったよ。】
【ゆう、私の妹になってくれてありがとうね。竜臣にも優しい妹だっていつも自慢してたんだよ。私の大切なひとに、いつかあんたを紹介したかった。
あんたのもうひとりの姉ちゃんから、最後にあんたにひとつだけ約束して欲しいことがあるんだ。
諦めないで生きぬいて、必ず幸せになるんだよ、佐奈。
さっさと死んだら絶対許さないから。
あんたのもうひとりの姉ちゃん、楓より】
そう締め括られた文に、浜木綿は一方的にいい逃げした挙げ句に死んだ姉に憤りを覚えた。
自分だって伝えなきゃいけないことが山程あったのに、文句も礼も聞きたいことも沢山あるのにと。
「…姉ちゃんの馬鹿」
文を読み終えた頃には、暗くなり始めた部屋に、襖の僅かな隙間から西陽が差し込んできていた。もうじき夜見世が開く。
そろそろ下に降りなければと、気乗りしない重い腰を上げる。
襖を開けて廊下に出た浜木綿の脳裡に、この春を待たずに死んだ実の姉にも言われた同じ言葉が浮かぶ。
【幸せになれ、佐奈】
どうして二人とも自分に幸せになれなんていうのだろう。どうせ叶いはしないのに。
どうして最後に、誰にも呼ばれなくなった名を呼んだのだろう。
生きろと言われた浜木綿にとっては、あの世で今頃再会して居るであろう姉二人が、いっそ羨ましくて仕方がなかった。