『夜がまぶしすぎて』考:アンリ・デュジャールの創作観について
「『夜を疾走できるだろう』という善良な、しかし誤った観念ゆえに、僕が死ぬにいたった話をしようじゃないか」。――フランスの小説家であるアンリ・デュジャール(Henri du Gard)が、1955年に執筆した小説『夜がまぶしすぎて(Parce que la nuit est trop brillante...)』は、こんな奇妙な出だしから始まっています。
小説の中身に入る前に、まずはアンリ・デュジャールという、日本ではあまり知られていないこの人物について、説明をしなければならないでしょう。アンリ・デュジャールは1916年に、スイスのヌーシャテル(Neuchâtel)に、衣料品問屋の四男として生まれました。
デュジャールは幼い頃から聡明であり、特に学校では数学と哲学で才能を発揮しました。生まれてまもなくして、一家はパリに移り住んだため、デュジャールもまたコンドルセ高等中学校で学ぶこととなったのですが、当時のかれが全国コンクールの数学問題に出した解答は数学年報に記載されるほどであった、とのことです(今でも、学校ではデュジャールの解答を読むことができるそうです)。
とはいうものの、自身のもつ才能とは裏腹に、デュジャールは数学者になることにも、哲学者になることにも、あまり関心はありませんでした。かれを引きつけたものは文学であり、とりわけ当初は詩でした。1934年に、一家は再びパリを離れて英国へと移住するのですが、デュジャールだけはパリに残って、パリ第一大学へと進学します(ただし、かれが進学したのは、どういうわけか哲学科でした)。
デュジャールはパリ第一大学で勉学に励む傍ら、精力的に詩を創作していきます。これらの詩の大半は出版されることがなく、パリにあるデュジャールが住んでいた家(今はミュージアムとなっています)で鑑賞することができるだけとなっているのですが、それらの詩からは、哲学者のベルクソン(Henri Bergson。奇しくも、かれの名前も”アンリ”です)から受けたであろう影響が色濃く残っています(もっとも、デュジャール自身はベルクソンの影響をはっきりと否定しています)。
かれの創作の転機となったのは、1938年に執筆した小説『ラーゲリ(Лагерь)』でした。一口にその小説を説明するのは筆者の手に余ることですし、またそれは本論の本懐でもないのですが、いずれにせよこの小説は、同人誌として発行されてから瞬く間に評判となり、1939年にはデュジャール本人の名義で出版されます。第二次世界大戦が始まったために、『ラーゲリ』はすぐに絶版となってしまったのですが、これがデュジャールの華々しいデビュー作であったことは間違いありません。
『ラーゲリ』の中に登場する文章を、少しだけ垣間見てみましょう。
――岩盤の上に安らっている聖堂を眺め、あなたは岩の持つその無骨な、だが何ものに向けられているわけでもない支える力の暗さを実感する。聖堂は、荒れ狂う雨に耐え、荒れ狂う風に耐え、そのようにして初めて嵐の存在にあなたの目を開かせる。石材のきらめきと輝きは、なるほど一見すれば太陽の恩寵と錯覚するだろう。しかしじきにあなたは、その石材のきらめき、その石材の輝きこそが、日の光を生み出し、空の広がりを生み出し、夜の闇の深さを生み出していると気づくようになるだろう。
――このときあなたは、聖堂は決して虚空の中に描かれた単なる絵でもなければ、精彩ある物質のありさまを、広大なる無自覚のとばりの中へと没し去ることによって得られた抽象でもないということに気づくだろう。聖堂の揺るぎなさは大海原の波のうねりの中から生み出され、聖堂の安らぎは背景に響き渡る潮騒から生み出されている。聖堂は、そこに立つことによって一つの世界を開いているのだ。
――近くのものは大きく見え、遠くのものは小さく見え、もっと遠くのものはもっと小さく見え、そのもっと向こう、すべてのものが消え去る一つの点がある。かくしてあなたは、見えるものを見えるとおりに描くことを学ぶだろう。しかし同時にあなたはまた、人間では決して見ることのできぬ遠くがあることも知るだろう。それでもなお、いやだからこそ、あなたは夢を見るかもしれない。見ることのできない遠くの世界へと、少しでも近づくその一瞬間を、夢見ることの不可能性の中で夢見るのだ。
上記の文章には、デュジャール自身の詩に対する愛好と、哲学に対する造詣の深さとが顔を覗かせています。いずれにせよ、これがデュジャールの小説の特徴であると言ってしまっても言い過ぎではありません。
第二次世界大戦の終結後、かれは『気分屋ごっこ(Comme ceux qui sont une personne maléfique)』(1948年)、『青いバス停(L'arrêt de bus bleu)』(1951年)、『笑い声(Rire)』(1953年)といった作品(及び短編集)を次々と書き上げ、一定の評価を受けます。そして、1955年に『夜がまぶしすぎて』が出版されます。
『夜がまぶしすぎて』は、当初から全三巻になることが告知されていました。これは、デュジャールがこれまでに書いたどの小説よりも長い小説です。デュジャール自身にとっても野心的な試みだったことは十分に推察できますが、この試みは見事に成功し、1955年4月に出版された上巻、7月に出版された中巻は、発売と同時に話題となり、あっという間に売り切れとなりました。
さて、このようにして、誰もが下巻の出版を待ちわびたのですが、11月に出版された下巻は、人びとの度肝を抜くものでした。そもそもそれは”下巻”とは言いがたいものであるばかりか、”出版された”と言えるものなのかどうかさえ、怪しいものであったためです。
『夜がまぶしすぎて』の下巻は、たった1ページの分量しかありません(”出版”された際には、書店でチラシのごとく山積みとなっていたそうです)。そしてそこには、たった一文、次のように書いてあったのです。
「この物語は、結末まで書かれないことによって、物語として真理となる」
このようなデュジャールの離れ業を、だれもがトリックだと考えたのは無理もないことでした。要するに、デュジャールは本当の下巻を手元に残しておいて、まだ出版する気はないのだ――と、人びとはそのように考えたのです。
ところが、いつまで経っても、多くの人が想像するような「本当の下巻」が発売されることはありませんでした。それどころか、1961年に、デュジャールは旅行先のトルコ、アナトリア地方の川で突如溺死という謎の最期を遂げてしまうのです。
その後も、様々な噂がこの『夜がまぶしすぎて』の周辺を取り巻いていたのですが、現在、一部の批評家・愛好家(筆者も含む)の中では、一ページの分量しかない下巻こそが真の下巻であり、それをもって『夜がまぶしすぎて』は完結した(完結しないことをもって完結した)、ということが定説となっています。
なぜデュジャールは、「結末を書かない」という選択肢を選んだのでしょうか。『夜がまぶしすぎて』の物語は、デュジャールの手に負えないほどの大作となってしまったのでしょうか。――そうではありません。デュジャールの創作に対する姿勢は、かれが友人たちに送った手紙から窺うことができますが、かれは文学が技巧にはしり、理念的になりすぎるあまりに、文学から物語の身近さが喪われつつあることを懸念していました。かれの関心を数学・哲学から文学へと移行させた問題関心も、この懸念から出発していると筆者は考えています。デュジャールは、「物語は点から先に考えるのではなく、線から先に考えなければならない」ということをくりかえし主張していますが、これは、デュジャールが数学の分野では集合論に関心があったこと、そして哲学の分野ではニーチェとベルクソンに関心があったことを考慮に入れてみるとよく分かります。
創作者は、創作物を作るにあたって、頭の中で構想を練ります。このときの構想とはとらえどころのないものですが、同時に創作者がこれから作るであろう創作物の基準ともなる、イデアと呼んでも差し支えのないものです。つまり、書いてみた文章、描いてみた輪郭が構想と異なっていた場合、創作者は「思い通りにならない」と言って、それらを破棄するのです。
デュジャールが問題としたのはそこでした。「思い通りにならない」と言っているとき、創作者は自らの理想に基づいて、現実の創作物を断罪している、とデュジャールは考えたのです。創作者の思い描くものが理想である以上、その理想が現実として具体化することはありません。手の届かない遠くにあることこそが、理想が理想であることの条件だからです。存在するのかどうかさえ怪しい「理想」や「真理」に目を向けるのではなく、いま自分が書いている”この”物語、いま自分が描いている”この”絵画のために全力をむけよう、というのがデュジャールの主張なのです。
このような主張に則ってみると、デュジャールにとっての「真理」とは、一般的に考えられている「真理」とは別の様相を呈することになります。先ほども述べたとおり、手の届かない遠く、今を生きる人間にとっての彼岸に存在することこそが、「理想」が理想たること、「真理」が真理たることの条件でした。すなわち、完結してしまった創作物は、それがどれほど完成度の高いものであっても、現実に根ざしているものにすぎない、と言うことになるのです。つまりデュジャールは、物語を未完結とし、その結末を手の届かない遠くに据えることによって、その物語自体を一つのイデアとし、物語を永遠にしようと試みたのです。『夜がまぶしすぎて』の下巻において、「物語として真理となる」とデュジャールが言ったことには、そのような意図が込められているのです。
では『夜がまぶしすぎて』に込められたデュジャールのこの意図は、一種のニヒリズムでしょうか。たしかにデュジャールの創作観には、どこかひねくれたところがあるでしょう。しかしながら筆者は、これはむしろ一種の求愛と捉えることができるのではないかと考えています。デュジャールの創作観は、まるで、「作品の理想」を追い求めるあまり、それに溺れ続けている創作者のことを見越しているかようです。誰しもが創作者として表現をすることができるこの時代を鑑みれば、デュジャールの創作観は一つの黙示録だったのだと言うこともできるのではないでしょうか。