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2-3 人間は、嫌いです


 栄えた街にある駅舎は、列車の到着を待つ人の群れでごった返していた。

 千歳(ちとせ)千聡(ちさと)から離れた壁際に立って、そちらを見るともなしに腕を組んでいた。千聡はそわそわと列車が来る方と時計とを見比べている。

 出かけ際に千信(ちあき)から重ねて「姉さんを頼みましたよ」と言われたために、勝手に去ることもできない。とりあえず何となく視界に入っているから、千信の依頼は果たしているはずだ。やれやれと溜め息をついた時に、遠くから汽笛の音が聞こえた。千聡の背がぴんと伸びて、長く連なった黒い車体の方を向く。


 ゆっくりとプラットホームに停まった列車が、次々と人を吐き出す。降りる人の波がまばらになった頃、千聡は目当ての人物を見つけたらしい。ぴょこんと跳ねて降車口へ向かう。

 眼鏡をかけた優しげな風貌の男の姿が見えたかと思うと、彼は降りる方向ではなく車内側へ向き直り、誰かに手を差し出した。その手に当然のように掴まって、物静かそうな女が逸樹(いつき)と共に降りてくる。千聡が凍りついたのが、離れている千歳からもわかった。


「ああ、千聡ちゃん、来てくれたんだ! 大きくなりましたね! それに美人になった」

「久しぶりね、いっちゃん――その人は……」

 にこにこと微笑む逸樹の顔が、耳まで赤く染まる。

「僕の結婚相手なんだ」

 同じく頬を染める女性とも挨拶を交わし、名前を聞いたけれど、千聡の頭には残らない。今すぐ駆け去りたい気持ちでいると、逸樹が妙な声をあげた。

「あの、千聡ちゃん? そちらの方は……」

「え――」


 逸樹に指し示されて振り返ると、すぐ傍に千歳が立っていた。それも、見たこともない穏やかな微笑を浮かべて。

「あっ、えっと――そう、お父さんの! お父さんの助手で……遠野さんというの! 付き添いで来てもらったのよ」

「はじめまして、遠野と申します。黒葛原(つづらはら)さんのお宅でお世話になっています。お帰りなさい、逸樹さん」

 千歳は微笑んだまま、柔らかい声で言って手を差し出す。逸樹は焦ったようにその手を握った。


「いやぁ、綺麗な方だなぁ! あ、いや、男性に失礼かな」

 しどろもどろに言う逸樹は、さらに赤くなっている。その様を見て、千聡は少しだけ笑うことができた。

 けれどやっぱり、家に帰るまでの間のことは覚えていない。逸樹に寄り添う女性の姿が、頭から離れなかった。



 黒葛原家の縁側の端に、ぼんやりと座り込む千聡の姿があった。

 反対側の端には、千歳が苔玉を傍らに置いて座っている。さきほど水をやりに出てきたところだ。

「ありがちすぎて笑えないわ……」

 ぽつりと、千聡がこぼした。千歳が顔を上げてそちらを見ると、笑えないどころか――泣いていた。

「向こうで結婚相手を見つけて、連れて戻って来るって何!?」

 喚く声には涙が混じる。千歳はどうしたものかと、苔玉に相談したくなる。今日も良い丸みだった。


「……返事しなくていいから、何となく聞いてて」

 千聡の声はすとんと落ち付いて、千歳は黙ったまま頷く。

 千聡はぷらぷらと足を揺らして、鼻を鳴らした。ここ数日の浮かれ様を思い出すと、ものすごく激しい落差だった。

「小さい頃からずっと好きだったのよ。昔からあんな感じでぼんやりしてて、優しくて、ちょっと間抜けで……わたしが結婚してあげなきゃ! くらいのこと思ってたのになぁ……」

 それが、まさか自分で伴侶を選ぶなんて。


「――まぁ、好きだなんて言ったことも、ないんだけどね」

 自嘲気味に笑うと、また涙がこみ上げた。長い時間、逸樹を想ってきたのに、それが突然途絶えてしまった。これまでの時間も、ここから先も、どうすればいいのか。どうしたら気持ちが消えていくのか、わからなかった。

 堪えきれずに、顔を覆って泣いた。涙が零れれば零れるほど、気持ちが無くなるのではないかと思った。無くなればいいと、思った。


 全てを断ち切って無かったことにして、逸樹を笑って祝福したかった。ちゃんとおめでとうと言うために、出来るだけ流しておかなければいけない。どこへ行くこともない、何の意味もない独り善がりな想いなど。いっそ、自分ごと――

「もう消えてしまいたい……」

 顔を覆ったまま呟いた後、長いこと経ってから千歳の声がした。

「……突然、全てを無くすこともないんじゃないのか」

「だって、もういっちゃんには選んだ人がいるのよ。せめてお祝いしたいじゃない……」


「俺には、よくわからないが――大事に想ってた気持ちがあるから、この先も逸樹が幸せになれるようにと、考えられるんだろう? お前の気持ちは大事にして、お前のそのままで笑って送ってやればいい。そうでないと、お前が傷ついたまま終わる……気がする。全部無駄だったわけじゃないだろう。逸樹だって、お前を本当の妹のように大事だと、言ってたじゃないか」

「……千歳」

 この男がこれだけ長く喋るのを見るのは初めてだった。話すのも人付き合いも苦手なくせに、精一杯話そうとしてくれている。


 逸樹を出迎えた時だってそうだ。固まってしまった千聡のために、近くまで出て来てくれた。微笑んでまともな挨拶までしてくれた。咄嗟に遠野なんて仮名を出したのに、それを名乗ってくれた。

 家まで帰る道中、逸樹が千聡を「大事な妹」だと、あの女性――優梨子(ゆりこ)に紹介してくれたことも思い出した。妹だなんて、と憤慨した気持ちもあったような気がしたけれど。


 初めて、優梨子の顔が鮮明に思い出された。逸樹と同じように、はにかんで笑う人。

 今になったって、逸樹のことが好きだ。千歳がそれでいいと言ってくれた。あの千歳が、だ。ならば、逸樹を好きなまま、心から祝福してみよう。大事な人が選んだ人と、幸せになるようにと。いつか、この気持ちが家族を想うような気持ちに変わるまで。

 千信はおそらく、こうなることを予測していたのではないだろうか。千信の前では存分に落ち込めないと察して、千歳を連れて行かせたのだ。

(気を回しすぎよ……)


 溜め息をついて千歳を窺うと、視線を落として居心地悪そうにしていた。千聡は小さく笑う。

(以前にも人と暮らしたことがあるんじゃないかしら)

 ふと、そう思う。

(千歳もいつかは、誰かを好きになるのかしらね)

 ほんの少し、自分との未来を思ってみたけれど、何も浮かばなかった。

 千歳がこちらを向く想像ができない。駅舎で見せたような、千信を写し取ったような笑顔でなく、心からの笑顔で誰に何を言うのだろう。


 けれど、彼が自分の傍に立ってくれた時――

(――ちょっとだけ、素敵だと思ったわ。ちょっとだけ、ね)


 千歳の名は、「千年くらい生きてそうだから」なんて安直な理由だけではなかった。

 何だか全てがつまらなそうで、どうでもよさそうに生きているように見えたから――そんなものは、生きているとは言い難いから、長い人生が良いものであるようにと、言祝ぐ名前としてつけた。

 そんなことを言うのは気恥ずかしいから、今際の際くらいでしか、言えないだろうけど。

 優しいこのひとが幸せになるようにと、祈った。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ――千歳、僕と一緒に行きませんか

『……は?』

 ――東京にいる伯父が家を一つ貸してくれると言うので、そこから大学へ通おうかと

『まぁ、いいですけど』

 ――そう言ってくれると思っていました



 ――千歳、結婚することにしたよ

『そうですか』

 ――あれ、驚かないのか

『あなたの唐突さには、慣れています。おめでとうございます、千信』

 ――ははっ、ありがとう

(ゆかり)さんでしょう?』

 ――それもバレてるのかぁ



 ――縁がわたしを置いて逝ってしまったよ、千歳

『ええ』

 ――わたしを君の元へ連れて……死なせてくれないか

『嫌ですよ』

 ――お願いだ、わたしにはもう、何もない

『千信。死にたいからって僕の傍に来るなんて、許しませんよ』

 ――酷いことを言う

『酷いのは、どちらですか。僕を――いえ、何でもありません』


 千信。一緒に生きたいと、言って欲しかったんだ。



 ――千歳、姉さんまで死んでしまった

『……ええ』

 ――君はもう、二度と現れないと思っていた

 ――ひとりに、なったと……

『弱気なことを。僕はあなたを叩きに来たんですよ。さぁ、生きてください』

 ――全く。手を引いてくれるのではないのか

『何を言うんです。自分の足で立ちなさい、千信』

 ――君がいてくれるのなら、生きてみようか

『……その意気ですよ』



 ――ひとつ、頼まれてくれないか

『なんですか、嫌ですよ』

 ――まぁ聞いてくれ

 ――わたしはどうしたって、あの子よりも先に逝ってしまう

『それで?』

 ――わたしに代わって、あの子を守ってくれないか

『……嫌ですよ。人間は嫌いです』

 ――千歳、頼んだよ

 ――約束だ

『千信、勝手にそんなもの結ばないでくださいよ。絶対、嫌ですからね』



「……一緒に行こうと、言ってくれたのはあなたじゃないですか」

 夕闇が迫る部屋の中、一人佇む千歳が囁く。

「何、勝手に死んでるんです」

 今日最後の太陽が、まだ細く光を残していた。手を差し伸べ、別れを告げるように。

「絶対、嫌だって言ったじゃないですか……そんな遺言みたいなこと」

 本棚にかけていた手の甲に額をあてる。喉に何かが詰まったように、痛みがあった。


「人間は、嫌いですよ。短い一生を笑って生きて、先に逝ってしまう――僕は、置いて行かれるだけだ」

 言葉が落ちる。千信には、言えなかった。子供のように泣き喚いてしまえたら、どんなによかっただろう。言えずに胸に溜まった言葉が、重く残ってしまった。聞いてくれる者はもういないというのに。

 本当はわかっている。短い一生だと知っているから、笑うのだ。精一杯、充分だったと思えるように、最後の日も満足だったと笑えるように、生きるのだ。

 自分ばかりが、残される。終わりなど見えない、長い日々を生きているとも言えない、自分だけが。

「嫌だって……言ったのに、行かないで――」


「千歳?」

 小さな声だった。彼女の声を、聞き間違えるはずがない。

 顔を上げて振り返ると、戸口に宵待(よいまち)の姿がある。やけに表情の乏しい顔をして、首を傾げていた。

「なん、で――今日はアルバイトだったのでは?」

「休み、代わって欲しいって言われて、急遽今日がお休みに」

「そうですか。では、夕食の用意をしましょう」


 太陽はもう沈んだ。薄暗い部屋では、彼女の目には見えないだろう。

 千歳が本棚から離れた時、宵待が動いた。小走りに部屋を突っ切って、手を伸ばしたかと思うと、その勢いのまま千歳の胸に飛び込む。

「――どうしました」

 突然のことに腕のやり場に困って、手が宙に浮く。背に回った宵待の腕に、ぎゅっと力が篭った。

「何でもない」

「何でもないって……」

 千歳が苦笑すると、宵待が密着したまま顔を上げた。


 左手を千歳の胸にあて、背伸びして右手で千歳の頬を撫でる。何度も、撫でた。そのうち左手も上げて、両手で頬を拭う。黒い瞳を濡らして、涙が零れ落ちる。

 千歳は自分の目元を拭って、宵待の手に触れた。

「すみません……まさか、帰って来るとは」

「帰って来て、よかった」

「いえ、わたしは困ってます」

「一人で泣かれたら、わたしが困る」

 宵待はどこか挑むような顔で千歳を見上げる。眉根を寄せて、千歳は目を閉じた。


「――ああ、もう」

 短く言って、千歳は宵待を抱きしめて、髪に顔をうずめた。あたたかく、柔らかい香りがする。

 宵待はまた千歳の背を抱きしめ、ぽんぽんと優しく撫でた。

「ありがと。おじいちゃんのこと想ってくれて」

「こちらこそ、ありがとうございます。あなたがいてくれたから、千信は――」

 主を亡くした部屋の中、少女と青年はそれきり黙って、夜の闇が満ちるまで身を寄せ合っていた。


 互いに失くした大きなものを、埋めるかのように。

「どんなに長く生きていても、おとなでも……男のひとでも、泣くんだね」

 不思議そうに言う宵待に、千歳は憮然とする。

「……泣いてませんよ。見間違いでは?」

 今さら、とても苦しい反論をして。



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