2-2 優しいひとですね
彼の眼は、暗闇の中でも物を見分けることができた。
彼にとっての夜は藍色で、銀色の光が飛び交う世界だった。
黒葛原家の奥の間で、千信が気の慰めにと置いていった苔玉も良く見える。どう慰めになるのか、千信のすることはよくわからない。千聡が見ていれば、千信の行動は人間にもわからないと言ってくれただろうけれど。
この家で千歳と呼ばれる青年は何度か手を握ったり開いたり、動きを確かめていた。僅かに鈍いような気もしたけれど、もう問題は無さそうだった。思ったよりも長居してしまった。そろそろ離れる頃だろうと思う。
「千歳ー!」
続きの間から大声で呼ばれて、半眼になる。千聡の声だ。
返事をせずにいたら、千聡がずかずかと入り込んできた。
「千信が戻らないのよ。迎えに行ってくれない? どうせ山の中だから」
不機嫌な千歳に構うことなく、ほらと千聡が手首を掴んで引っ張り上げる。
「見つけたらさっさと帰って来るのよ。この前みたいに千信の写生に付き合ってたら承知しないから」
「自分で行けばいい」
「何言ってるの。もうすぐ夜よ。山の中は人間には危ない場所なんだから」
どうも千聡は千歳を、千信同様に弟か何かのように扱っている節がある。男手がないとつらいような作業をやらされることもあった。
「はい、いってらっしゃい。よそ見して川に落ちないようにね」
外に放り出されて、渋々山へと向かう。
人間にこんな扱いを受けるのは初めてで、腹立たしい気持ちもあったけれど、千信に、引いては黒葛原家には世話になったために無碍にも出来ない。
千歳が目を細めた先、飛び交う銀色の蛍のような仄かな光が、一部分だけ何かに吸い寄せられるように道筋を作っている。それが千信のいる場所に繋がっていることを千歳は知っていた。極稀に、そうして夜のものに好かれる人間が存在している。
山を中腹ほどまで登ると、突然光の筋が山道から外れて崖の下へ続いていた。ずっと下に川がある渓谷は高さもあり岩も多く、川の流れは早く、万が一落下すれば命はない。
(まさか、落ちたのか?)
駆け寄って下を覗き込むと、大人の背丈分ほど一段低くなったところに千信が座り込んでいた。ひとまず無事でいるとはいえ、大した広さもなく、更に向こうの崖下へ落ちていてもおかしくない。目が合ったとたん、ほっとしたように千信の顔に笑みが広がった。
「千歳、迎えに来てくれたんですか」
「それは――」
正面から見た右側、千信の目元と口元が酷く腫れていた。たとえば足を滑らせて滑落したとしても、そんな怪我はしないはずだ。
このあたりに、千信が敵わないような魔物はいない。殴られたような痕だった。理性的な千信が手を出せない相手だとすれば、それは人間だ。
「何があった」
千歳は千信の傍に飛び降りて、さっと全身に目を走らせた。顔以外も、腕や足に打ち身の痕がある。複数人に傷つけられたように見えた。
「まぁ、子供の喧嘩ですよ。ここに落ちたのは、僕の不注意です」
「――あいつらか」
苦く笑う千信に、千歳が目を細める。黒の瞳に、金色の炎が揺れた。
千信の家の近所に乱暴な少年達がいて、おとなしい千信に時々絡んでいるのを見たことがあった。
「千歳」
千信の静かな声が呼ぶ。千歳の瞳が向いても、彼は怯むことなく、むしろ笑みを深くした。
「大丈夫です。……さっき、一人でいた時は割と本気で、彼らに魔物でもけしかけてやろうかとも思ったんですけど」
「俺にやれと言えばいい」
「いいえ。千歳を見ていたら、何だかそんな気分でもなくなったので」
「……は?」
心底わからないというように顔をしかめる千歳の手に、千信が触れる。困惑したようにぴくりと動いた千歳を、千信は笑った。
「誰かが、自分のために感情を動かしてくれるというのは、とても良いものですね。ひと同士で友達や恋人を作りたがる気持ちが、少しわかりました。魔物と心を通わせるのは難しいなと、近頃思っていたところなので」
「……お前が言うことは、よくわからない」
「つまり――千歳が、僕のことで自分のことのように怒ってくれて、嬉しかったんです」
とうとう千歳は気勢を削がれて、不思議そうに千信を見つめる。千信は両手で千歳の手を握り、ありがとうと囁いた。
「優しいひとですね、あなたは」
「なぜ、そうなる」
「あ、照れましたね」
千歳は煩わしそうに目を閉じて、小さく舌打ちしてから、千信を荷物のように担ぎ上げた。
「もうすっかり暗くなってしまいました。姉さんに怒られそうです」
「……どうだろうな」
千歳は半眼になって呟く。
二人が帰宅して、千聡は烈火の如く怒った。
怒ったけれど、それは千信に対してではなく、近所の悪餓鬼どもに対してだった。
箒を引っ掴んで出て行こうとする千聡を止めながら、千信は笑ってしまって、そのことについては叱られた。
千信は、家族と、そして千歳の存在に温かな思いを抱き、心の底から喜びを感じていた。
笑みが溢れ出すのも、仕方のないことだったろう。千歳は、相変わらず不可思議そうに千信を見つめていたけれど。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
千信が亡くなって、主のいない部屋は、見た目以上にがらんとしていた。
千歳は本棚の前に立って、指先を古い本の背表紙にかけたまま佇んでいる。本を見つめながら、思い出したのはまだ子供だった頃の千信のこと。
いつかは、夕暮れ時の木の下で、ページを手繰る指を見つめていた。あの時、千信が触れていた本は、この本棚のどこかにあるのだろうか。
結局長く居つくことになってしまった黒葛原の家は、もうあの場所にない。
千信は成人する少し前にこの洋館に移り住み、その間にも様々なことがあった。
その多くの時間を、千歳は千信とともに過ごしてきた。離れていた時間は、どれほどだっただろう。
千信が結婚する少し前から、千歳は千信の言葉を拒んで家を出た。彼の妻にまで一緒にいるように言われたけれど、辞退した。
そして千信が一人になった時、初めて仲違いした。それから暫くまた離れて、共通の知人から強く言われて戻った時には、千信は壊れかけていた。監視するように共に過ごして時間が経った後に、千信は自ら持ち直す。生きる喜びを、また見出した。
――新しい家族を迎えようと思う
千歳は、千信の笑顔を見てもう大丈夫だと確信して、この家を出た。
その時は、もう二度と戻らないだろうと思っていた。そのはずなのに、今はまたこの洋館にいる。
「……本当に、わからないものですね」
千歳はぽつりと呟き、目を閉じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「千歳は表情と話し方を改善するべきですね」
夕刻になって奥の間から出て来た千歳に、千信は唐突に言った。庭の生垣を剪定しながら、教師のような指摘をする。
また何か言い出したな、と思いながら、千歳は奥の間から持ってきた苔玉に、手水鉢から水を手ですくって与える。何だかんだ世話をするようになったものの、苔玉が元気なのかどうかはわからない。枯れた場所もなく、青々としているから大丈夫だろう。
「全然笑いませんよね」
「必要ない」
「そう言わずに笑ってみましょう。処世術というやつですよ。僕を参考に、どうぞ」
にこりと、千信が笑う。逆に、千歳は半眼になった。
「お前は胡散臭い」
「失礼な。ほら、笑って」
「…………」
千歳はじっと千信を見つめた後、ぎこちなく笑みのようなものを作った。今にも壊れそうなゼンマイ式の玩具のようだった。
千信は吹き出して、声をあげて笑う。今の顔の方が良いと、千歳は思った。けれど、それは顔に出さずに目を逸らす。
「何もないのに笑えるか」
「子供も親の笑顔を見て覚えると言いますし、まぁ少しずつ慣れていきましょう。千歳はせっかく優しいのに、表面上の怖さで誤解されたら勿体ないですからね」
「……怖いのか」
「顔を見ただけで小さい子に泣かれたのを忘れました?」
それは確かに事実だった。しかしながら、魔物に必要なことなのかと疑問は残る。笑い方など、とうに忘れていた。
「ちょっと、二人とも!」
千聡が興奮気味に廊下を走ってきて、二人は顔を上げた。千聡の手にはどこからか来たらしい手紙が握られている。
「いっちゃんが帰ってくるって!」
「逸樹さんが?」
誰だそれは、と眉をひそめた千歳に、千信が「お隣さんちの息子さんです」と説明した。
逸樹は黒葛原家の姉弟より年上で、幼い頃にはよく遊んでもらった。都会の学校に進学していて、大学卒業を機にこちらへ戻って来るらしい。その挨拶と準備に一時帰還するということが手紙には書かれていた。
「何年振りかしら!」
頬を染めて、いつになくはしゃぐ千聡の様に、心が透けて見えている。
「千信、駅まで迎えに行きましょう」
「あー、僕はいいです。家で待っていますよ」
姉さんのために、とぼそりと付け足された言葉は、千歳の耳だけに届いた。
「ええ? じゃあ、千歳、一緒に行って頂戴。夕方に着く便だから大丈夫でしょう?」
「……何で俺が」
「乙女を一人で行かせるって言うの!? お嬢さんには付き添いが必要なのよ」
「…………」
無言の千歳に、何らかの反論が滲み出ている。
「こっそりついて行ってあげてください。逸樹さんの前に出なくてもいいですから」
「……わかった」
どうにも千信のことは否めずに従ってしまう千歳だった。
「何を着て行こうかしら!」
幻の花を飛ばしている千聡を置いて、千信は剪定道具を抱えて去ってしまう。千歳もこの場を離れたいと思いつつ、千聡がうるさそうなのでおとなしくしている。傍らに苔玉を引き寄せて、溜め息をついた。