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2-1 千年くらい生きてそう


 人間は嫌いだ。

 脆くて、すぐに死ぬ。

 僅かな時間しか生きられないくせに、笑っている人間が、嫌いだった。



 気まぐれなど、起こすべきではない。

 後悔というものは往々にして、したところで何の甲斐もない。

 水底から見上げた水面は、紅く煌めいていた。

 それが最後の記憶になるのも、まぁ悪くはない。

 充分、生きたと思えるほどの人生ではなかったが。



 そんなふうに思って目を閉じかけた時、多数の細かい泡の柱が立った。誰かが飛び込んだのだとわかった時には、少年の細い腕が意外なほどに力強く、彼を水面まで引き上げた。

 少年は今まさに溺れ死ぬところだった青年が桟橋に上がるのを手伝うと、自らも桟橋に手をかけ、水底に打たれた杭を足場にして川から上がる。

「――ははっ、水が苦手ですか?」


 笑う声は明るく、澄んだ瞳は聡明だった。青年は座り込んだまま、憮然とした表情で少年を見上げている。絡みついた水から受けた害は大きく、青年は動けないようだった。

「立てますか?」

「……見ていたのか」

「ええ。そこで」

 青年の不機嫌な声にも少しも臆することなく、少年は岸辺の木の下を指差す。そこに本が数冊、無造作に置かれていた。


 濡れそぼった髪を掻き上げ、青年は溜め息を吐く。少年は微笑んで手を差し出したまま、おやと眉を上げて振り返った。上流の方から幼い子供を抱いた女が駆けてくる。

「大丈夫ですか!」

 子供は全身を濡らし、まだ少し泣いていたけれど、身体に不調はなさそうだった。

 少し前、母親が目を離した隙に子供はここより一つ向こうにある桟橋から川に落ちた。すぐさま青年が駆けつけて川に飛び込んで助けたものの、青年が水面に上がって来ることはなく。更に少年が後を追って飛び込んで、没した青年を救い出したところだ。


 何度も礼を言って頭を下げる女が子供を連れて去った後、少年は青年に向き直った。

「申し遅れました。僕の名は千信――黒葛原(つづらはら)千信(ちあき)といいます」

 目を細めて笑う少年の顔を、青年はじっと見つめていた。



「もー本当、嫌になるわ! あの糞ガキ!」

 友人の愚痴を、少女は苦笑して聞いていた。

 学校帰り、バスを降りてから家に着くまでの間のお喋りは学校か家の話題が多く、大抵彼女の幼い弟の話になる。やんちゃで遊びたい盛りの彼女の弟は、毎日何かしら悪戯をやらかしては怒られているらしい。

「それにね、何でも拾ってくるのよ。川原の石だとか流木だとか、巨大な蛙とか蛇とか! 猫とか犬とか! 本当に困ってしまって……その点、千信君は良い子よねぇ。頭も良いし、おとなしいし、お馬鹿なガキ大将どもとつるんだりしないし」


「ああ、んー……」

 少女にも弟はいるけれど、年も近く、友人の弟のように幼い行動は起こさない。

 彼女の言う通り、おとなしくはあるし、あまり同年代の子供達と遊んだりもしない。けれど、それが“おとなしい良い子”だからというだけではなかった。

 なので、曖昧に頷くだけにしておく。


「――あ、噂をすれば千信君」

 友人が指差す前方、川へと下る道から弟がひょこりと現れた。

 その小柄な体に巨大な何かを背負っているように見えた。まるで夜のような昏い闇の塊が、弟に圧し掛かるように、飲み込もうとしているかのようだった。

「千信っ!」


 思わず大声で呼んで駆け出すと、少年は顔を上げて微笑んだ。

「おかえり、姉さん。今日は遅かったですね」

「……あれ?」

 あまりにも穏やかな弟の様子に拍子抜けして、何度か瞬きしてみる。少年は見慣れない青年に肩を貸して歩いているだけだった。

「そこの川で溺れかけていたので拾ってきました」

「はい……?」


 弟は、犬や猫は拾ってこない。その代わり、妙なものを招き込む。

 何と言うのだろう、妖怪? 妖異? 呼び方はよくわからないけれど、人間からはおよそかけ離れた何か。普通の子供が連れてきたりしないモノ。これなら蛙や蛇の方がいくらかマシだと思われた。


 今回は何だろう。人間の形はしているけれど、見たところでわからない。とりあえず、人間ではない何かだ。

「調子が戻るまではうちにいてもらおうかと」

 この弟の笑顔の、なんと清々しく、柔和なことだろう。だから、姉として同じように笑顔を返す。

「元あった場所に返してらっしゃい」



 少年――黒葛原千信には、特殊な癖があった。

 そのせいで、人間の知り合いよりも“彼ら”の方が多い。暇があれば逢魔が時の山野を歩き回り、自ら積極的に人外である魔物らと関わっていく。

「やぁ、少しお話しませんか」

 などと、柔らかい笑みとともに現れる人間の少年を、むしろ魔物達の方が恐れる始末。

 千信を騙して喰ってやろうと近付いた魔物など、本性を現したとたんに千信の「残念です」という一言のもとに退治されてしまった。現場を見ていた他の魔物は震え上がり、二度と悪意を持って近付かないことを心に誓ったという。


 そんな千信の性分は、何も急に身に付いたものでもなく、父親の影響が強かった。

 地質学者であり、年中方々を歩き回っている彼の父親は、民俗学を趣味にしており、各地の様々な伝承や民話を蒐集していた。私室の本棚に入りきるはずもない多量の蔵書は家の離れの書庫に詰め込まれ、専門の学術書よりも趣味で集めた怪異本の方が多いのではないかと思われる。幼い頃から千信が親しんだのが、そうした魔物に関する本だった。

 闇に潜む“彼ら”を見分ける目もまた、父親からの遺伝だったのだろう。


 母親は呑気で穏やかな気性の持ち主で、夫や息子の千信の周囲を付きまとう者達が見えているのかいないのか、仮に見えていたとしても何ら問題にしていなさそうな女だった。

 姉の千聡(ちさと)はというと、少しだけ見分ける目を持っていたので、上手く関わらないように賢く生きるようにしていた。

 時々、道端の魔物を避けて蛇行して歩くことになり、学友達に奇異な目で見られてしまうこともあるけれども。


 千信が連れ帰る魔物――彼曰く、友人――を、どう対処したものか悩んだりする日もあるのだけれども。



 さて、そんな千聡は本日、完全武装していた。

 祖母の割烹着を纏い、髪は結い上げて手拭いを巻き、割烹着の腰紐にはたきを差して、手には箒、もう片方の手には取っ手付きの木桶を下げ、雑巾やら磨き粉やらを突っ込んである。

 勇ましく立つ目の前には、締め切られた奥の間。ここ数日、この部屋だけ掃除が出来ていない。


 それというのも、先日千信が川で拾って来た魔物がいるからだ。結局、千聡はあれから一言だって言葉を交わしていないし、そもそも姿さえ見ていない。

 至極真っ当に「捨てて来い」と言っただけなのに、千信からは体の弱った者を見放すのかと非難の目で見られ、普段温厚な弟だけに結構心に響いた。


 かなり力のある魔物と見え、ならば母の目にも映り拒まれるのではと期待を抱きつつ家に戻ると、確かに母の目には映った、映ったのだが何だか乙女のような目で「奥の間に寝かせてあげたら?」などと言われ、千聡の目論見は即砕けた。

 生憎いつも通り父親は不在にしていたけれど、いれば大歓迎しかねなかった。

 黒葛原家においての唯一の常識者は自分だけだ――と、千聡は自負していた。そして、たぶんそれは正しい。


「あーのー、ちょっとよろしいですかー?」

 千聡は声を張り上げ、奥の間の襖を叩いた。襖の上部にある欄間の透かし彫り部分にまで暗幕がかけられて、徹底的に守られている。

「掃除したいんですけど」

 一応、気を使って夕刻にした。千信の話では日光が苦手らしいので。

 そして更に気を使って、少し待ってみた。返事はない。


 お伺いは立てた。けれどそれは、返事がないなら後にしよう、などという相手を思い遣る気持ちではなく、道場破り的な入室宣言だった。

「失礼します!」

 千聡は高らかに言って襖を開けた。

 既に外はだいぶ暗かったけれど、奥の間の方がなお暗い。千聡が立つ場所から夕方の頼りない光が差し込んで、彼の白い足まで届いた。


 整った爪と足の甲の骨の形、踝――その先は黒いズボンに隠れている。それしか見えていないというのに、思わず美しいと思った。

 闇に目が慣れると、千聡の背後の夕暮れの暗さで室内を見渡すことができた。床の間の前に置かれた籐の椅子に、彼は座っていた。

 僅かに癖のある黒髪は頬にかかり、やや陰気な印象を与える。千聡を煩わしそうに見る瞳は昏く、今までに見たどんな闇さえもこんなに深くはなかっただろう。透けるように青白い肌は普段からそうなのか不調のためかわからなかったけれど、年頃の女である千聡よりもきめ細かく滑らかに見えた。


 少し前屈みに、片膝を曲げて座面に載せて両腕で抱えるようにしていた。長い四肢は、彼の背の高さを思わせる。

(――本当、お母さんって呑気だわ)

 これを見て、胸を躍らせていられるなんて。

 千聡が感じたのは、恐怖。あまりにも美しいその姿は人間からかけ離れて、もし千聡に何の知識がなかったとしても人間以外の何かだと見抜いただろう。


 青年が千聡を見ていたのは、ごく僅かな時間だった。今はもう瞳を閉じて、誰もいないかのように興味を向けもしない。目を逸らされたことで呪縛が解けて、呼吸を取り戻す。気分としては今すぐ逃げ出したい。

 けれど、ここまで来て引き下がるわけにもいかなかった。家の中に掃除をしていない場所があるなど、千聡が許せるはずもないのだ。


「すぐに終わらせるから、ごめんなさいね」

 言ってしまってから、千聡が気を使う必要などなかったと思い当たる。かなり弱気になっているのは間違いなかった。

 青年は言葉を発することはなく、目を開けることさえない。等身大の人形のようではあったけれど、こんなに威圧感を発する人形などあってたまるか。


「あれ、姉さん、何してるんです?」

「掃除よ。見ればわかるでしょ」

 ひょこりと現れた千信に、憮然として返す。はぁ、と千信は気のない返事をした。また山野を歩いて来たのだろう。

「それより、彼に名前をあげたいのですが、姉さんがつけてくれませんか?」

「名前!? ちょっと、いつまで置くつもりなのよ。犬や猫を飼うんじゃないのよ! それに、元々の名前があるんじゃないの?」


「随分呼ばれていないから忘れてしまったって」

 肩をすくめる千信に、千聡は面食らう。どれだけ生きると自分の名前を忘れてしまうのだろう。そんなものは嘘に決まっている。

 千信とは会話があるのかと、少しだけ驚いた。

「千信がつけたらいいじゃない」

「いいですけど……」


 視線を俯けて少し考えて、やがて千信は顔を上げた。千聡は箒を止めて視線をやる。

「じゃあ、川で溺れていたから、どざえ」

「わかった、わたしがつけます」

 全ては言わせないとばかりに、千聡は全力で遮った。弟の感覚はどこかおかしい。

「少し考えさせて」

「はい。――ふふ、良かったですね」

 千信は後半を青年に向けて言ったけれど、青年はやはり身動き一つしなかった。

 返事くらいしたらいいのに、と千聡は鼻を鳴らす。


 そして、自分がいるからかも、と目を伏せた。千信のように親身に歓迎してくれる相手ならばともかく、千聡のような態度では心も開けないだろう。

(この場合、人外のよくわからないものに気遣う千信がおかしいのよね?)

 千聡は少し自信がなくなった。

 青年をじっと見つめていると、唐突に鋭い瞳が覗いた。見すぎたせいで怒ったのかと千聡は身を凍らせる。


 音もなく、流れるような動作で立ち上がった青年が千信を見た。

「千信――連れて来たな」

「あれ、気付きませんでした」と、とぼけたように千信。

「えっ何!?」

 青年と千信が連れ立って部屋を出て行く。続きの間を突っ切って廊下に出ると、縁側で足を止めた。千聡はつられるように二人を追って、千信の肩越しに庭を見る。何かが立っていた。


「――あっ!?」

 思わず声を上げてしまった千聡を、奴の視線が射抜いた。

 兎に似た頭部を持つ黒い生物が、二本足で佇んでいる。手は猿のようで長く、だらりと下に垂れていた。

 後ろ足にぐっと力が入り、千聡に向けて飛びかかって来るまで一瞬のことだった。千信が庇うために肩に手をかけたのを、千聡が逆に引き寄せて抱え込むようにしてしゃがむ。


 ぎゅっと目を閉じていたけれど、何の衝撃も襲ってこない。恐る恐る目を開けると、青年の手が宙で魔物の首を捕えていた。

 ひとまず安堵し、言っても無駄とわかっていても、お決まりのように怒鳴る。

「変なものを連れてこないようにって言ってるでしょう、千信!」

「彼がいるから大丈夫ですよ」

 助けてくれたのね、と千聡は青年に目を向けて、お礼を言おうとして目を見開いた。


 青年が優雅と見えるほどに、おもむろに魔物の首に喰らいついて、しばらくすると魔物の身体がぼろぼろと崩れ去った。絶句する千聡に、千信が補足説明する。

「彼は魔物を食べるんですよ。正確には、血を吸う――吸血鬼らしいです」

「……なるほど、我が家にはお誂え向きということね」

 千聡はもう開き直って、目の前で起こったことを受け入れる努力をした。その方が、逆らうよりもずっと楽だ。

「家にいる間は千信を守ってやって頂戴。無茶をして困るのよ」


「…………」

 青年の目が眇められる。小さな声で言ったのは、たぶん「変な人間どもだ」とか何とか。千信の奇行には既に呆れた後だろう。

 目元に手をやった青年の身体が傾いで、立ち上がった千信が支える。まだ全快はしていないようだった。

 流水が苦手らしいのに、人間の子供を助けて溺れた妙な魔物。

(長年生きてそうな魔物でも、克服できないものってあるのね)

 少しだけ不憫に思って、千聡は額に手をあてて考える。


「そうね。じゃあ、千歳(ちとせ)にしましょう」

「ちとせ?」

 千信が聞き返し、青年が不可解そうに顔をしかめる。注目されて、千聡はけろりとして言う。

「千年くらい生きてそうだから」

「安直な」

「あなたのよりマシだと思うわ」

 千信の感想はぴしゃりと跳ね除け、千聡は青年を見る。


「ここにいる間は千歳よ。もし気に入ってくれるのなら、この先も名乗って構わないから」

「……勝手にしろ」

 青年は溜め息交じりに言って、拒絶するように目を閉じた。あからさまに他者を嫌う態度にも、姉弟は目を見合わせてこっそりと笑う。

 今しがた二人を助けてくれたという事実が、青年の心を表しているように思えた。



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