1-3 幸せな家庭を築きましょう
「ただいま」
学校から帰宅し、宵待は小さな声で言いながら玄関の扉を閉めて施錠した。
もう家には自分以外の住人はいない。それでも帰宅の挨拶をしてしまうのは、クセであり、一人であることを認めたくないためでもあった。
古い家の中は薄暗く、しんと静まり返っている。靴を脱いで上がると、丁寧に靴を揃える。一人になってからも、祖父の教えは守っている。
廊下にある背の高い木製の置時計は、もう時を刻んでいない。宵待がネジを巻くのをやめたわけではなく、ある日突然止まってしまった。祖父がいたのならともかく、宵待には修理できるような知識はない。
しばし時計を見つめたまま立ち止まっていた宵待の耳に、微かな音が聞こえて来た。
紙をめくる音――リビングで祖父が本を読む姿が思い出された。古くなって、時々軋んだ音を立てる揺り椅子に腰かけて、そうして顔を上げて眼鏡を外しながらあたたかく笑うのだ。おかえり、と言って。
そんなはずはない。
けれど、宵待は駆け出していた。
「――――」
リビングに駆け込んで、宵待は立ちすくんだ。大きく瞠った目には、そこにいる誰かが映る。
「おかえり」
そう言って迎えてくれたのは、当然ながら祖父ではなかった。
いつも祖父が座っていた場所に、青年がいた。膝の上には、閉じられた本がある。
「……あなた……?」
座り込んでしまった少女に、青年は目を細めて笑った。
「おかえりなさい、宵待さん」
けれど、すぐに笑みを消す。立ち上がって、真摯な表情で宵待を見つめた。視線を受けた宵待の目が、炎を映したように煌めく。
「どうやって着替えさせた!」
「……まず、そこですか?」
非難され、嫌悪されることを覚悟していたらしい青年は、拍子抜けしたように身を引いた。けれど、睨む宵待の威勢が削がれないため、両手を上げて首を振る。
「濡れたまま放置するわけにもいかないでしょう。見ても問題ない方に任せました」
曖昧な言い方だったけれど、女性に任せたという解釈で合っているはずだ。
「あなたじゃないなら、とりあえずいい」
うん、と一つ頷いて宵待は、青年を睨みつけたまま腕を組む。
「何者なの? どうして、おじいちゃんの名前を知っているの」
「友人ですよ」
「聞いたことないけど」
祖父は大学教授を退任した後は、宵待が読んでも意味がわからないような本を書いていた。ほとんど、家に閉じこもっていたはずだ。
視線を俯けて考え込む宵待を見て、青年の方が困ったように笑う。
「……あれを見て、恐ろしくなったのでは?」
「危害を加えないなら問題ないよ。人間は襲わないんでしょ?」
「ええ、それを聞いてあなたが千信の家族だと確信しました」
深い溜め息を吐いて、青年は目を閉じて眉間を揉んだ。変わり者の部分が見事に受け継がれている。
「今後もああいった輩が、あなたに吸い寄せられて現れるでしょうね」
「――あの子達が襲われたのは、わたしのせい?」
一番、聞くのが怖かったこと。それは結局最後になってしまった。
宵待の友人と思わせて近づいたあの魔物が、襲った少女達。学校で聞いた話では、行方不明だった少女達は昨夜のうちに発見され、病院に運び込まれたらしい。命に別状はなかったものの、衰弱していて入院することとなった。中には昏睡状態が続く者もいるという。
「多かれ少なかれ、魔物は存在します。それに襲われるかどうかは、事故みたいなものですよ。あれはあなたがいたからあなたを標的にしただけで、仮にあなたがいなくても、この街に来た時点で誰かしらを襲っていたでしょうね」
青年は淡々と語る。それを聞いても、宵待の喉のつかえが取れるわけではない。
「あなたが気に病むことではありません。事件になる前に退治できなかった奴らが悪いんです。それが生業のくせに」
「……そう」
ひとまず、魔物を狩るような者がいるということはわかった。
そして、今回はこの青年に救われたということだ。
「今後も助けてもらえるなら嬉しいんだけど、そういうわけにはいかないか」
どうしよう、と小さく呟いた宵待は、青年に見つめられていることに気付かなかった。唐突に腕を引かれたかと思うと、気づいた時にはソファに組み敷かれていた。
「……な、何だ」
「本当は昨夜、どうにかしようと思っていたんですけど、意識のない時にするのはいかがなものかと思いまして」
「え……な、何を」
そんな問答は、数秒延命する程度にしかならない。覆い被さる青年を見上げ、宵待は顔を引き攣らせた。
「あの蜘蛛のお嬢さんがあなたになかなか厄介なことをしてくれまして。いつからあれが傍にいたのか、覚えていないのでは?」
確かに、そうだった。いつから彼女を友人と思い込み、どこでどう会っていたのか。
けれど、それが何故この体勢に繋がるのか、それもまた疑問だった。
「それを解きます」
失礼、と一言断る声音は、いかにも紳士的だった。が、次の行動はそれに反する。
抵抗しようと手を上げた宵待の腕を左手で捕らえ、右手が宵待のあごに添えられて上向かせる。親指で唇をなぞる青年の目が、伏せられる。睫毛が陰を下ろした瞳に浮かんだのは、愉悦。
「ちょ――」
最後の抵抗の手段は、あっさりと封じられる。乾いた冷たい唇が、宵待の唇に触れていた。驚きで一瞬頭が真っ白になり、抵抗を忘れた。どちらにせよ、宵待の力では青年の拘束を外すことは出来ない。
ぱきりと、脳裏で薄い硝子が割れるような衝撃があった。視界がちかちかと明暗に揺れ、ややあって鮮明に認識することになる。目の前に、ゼロの距離に青年がいるということを。
「――! ――っ!!」
くすりと、青年が笑ったような気がした。唇が離れ、宵待は噛みつかんばかりの勢いで怒鳴――ろうと口を開いたところを、再び捕らえられた。
もう触れるだけでは許されず、深く、深く繋がる。氷を舐めたような感触が舌に絡む。それが青年の舌と気付いた時には、思考の限界に達していた。気付かない方がよかったのかもしれない。性急に、狂暴に絡めとられるわけではなく、あくまでも優しさを持って乱される。
意識が強制終了されそうになる寸前、今度こそ青年が離れた。身体を起こして床に膝をつき、宵待を見つめる。とても凶行をしたとは思えない、清廉な微笑さえ浮かべて。
「申し遅れました、名を千歳といいます」
驚きと、怒りと、理解の及ばない何かによって涙目になった宵待は、何一つ言葉に出来ずに真っ赤になって睨むしかない。
「好きです、宵待さん」
「…………は!?」
渦巻いた感情を原動力に起き上がる。
「どんな順番だ! 順序立てて行動しろ!」
「出会い、自己紹介と順調なお付き合いだと思いますけど」
「どこが! さっき多大な間違いがあったでしょ! き……キスする必要ある!?」
「あ、そういう言葉に詰まるところ可愛いです」
ぐっと宵待の拳が握られたのを瞬時に覚り、千歳はその手を握った。軽く握られているだけなのにぴくりとも動かず、宵待は諦めざるをえない。暴力はいけない、と自分を取り戻した。
「挨拶程度です」
「あんな挨拶があってたまるか! 絶対、後の方のはいらないでしょ!?」
「思わず」
「そういう短絡的な思考が犯罪を生むんだ!」
「宵待さんにしかしたいと思いません。初めてなんです。一目惚れと言うのでしょうか」
恥ずかしそうに俯く千歳に絶句する。
何度か視線を上げて、下げて、と繰り返した後、長く、肺の中を空っぽにする勢いで息を吐く。
「それが免罪符になるとでも……?」
静かな声は震えていた。
千歳はにこりと笑って小首を傾げる。仕草と相まって少し幼く見える笑みだった。
「まぁ、そうですね。これからたっぷり時間はあるわけですし、ゆっくり時間をかけてお互いを知っていくというのもいいですね」
「え、なに、これからって」
ぽかんと表情が抜け落ちた顔で、宵待は右手を中途半端に上げた。ちょっと待て、の制止の手だったのかもしれない。宙で迷子になった手は、千歳の大きな手の中におさまる。
「今後も助けてもらえるなら嬉しいと言ったじゃないですか。傍にいられるなら、わたしも嬉しいです」
「状況が変わった! 前言撤回だ!」
「千信からも頼まれていますし、ご家族の了承は得ています。ご安心を」
「何を安心するんだ。危険しかない!」
「幸せな家庭を築きましょうね」
新婚のお決まりの文句を言って、にこにこと笑う。
「わー!」
あまりにも話が通じないことに言語中枢が故障した宵待は、ひと声叫んでがつんと青年の額に頭突きしてソファに突っ伏した。単純に痛みと、ままならない状況から逃避したかった。けれど簡単に放棄できるはずもなく、悔し紛れに叫ぶ。
「この石頭! 覚えてろ!」
「敵の下っ端みたいな台詞ですね」
ふふっと笑われ、肩にやさしく手がかかる。反射的に顔を上げた。人離れした美貌が、見る者の心を溶かすような笑みを浮かべていた。
「ゆくゆくはわたしの眷属となって下さいね」
「……え?」
何やら物騒な意味が込められた言葉に聞こえた。
「人間の血は好みではないので、ちょっと種族を変えてください。こんなに美味しそうなのに堪能できないなんて拷問でしかありません」
ちょっと着替えてください程度の軽さで言われて、言葉を取り込むのに時間がかかる。やっと脳に伝達された時には、口が半開きになっていた。人差し指で唇をつつかれ、宵待は無言で叩き落とす。
「自分のままがいいので遠慮します」
「やっと一緒に生きたいと思える方に巡り合えたのに」
しょんぼりと肩を落とす。
宵待はふと思い当たって、瞬きして千歳を見つめた。
千歳が言うことは理解したくないし、するつもりもないけれど、最後の言葉ならば少しわかる。祖父が全てだった日々から祖父が消えて、宵待には何もなくなった。家族を作りなさいと、生前に祖父が言ったことも不可能だと思った。
けれど、一人がいいわけではない。一緒にいたいと思える誰かを、願わなかったわけではない。それが千歳に該当するかは別の話だ。
「まぁ、何かあれば呼んでください。いつでも駆けつけます」
昼間と川の中はかなり困りますけど、と千歳は困ったように笑って立ち上がる。
「――えっ、どこ行くの?」
口を衝いて出た言葉は、無意識のもの。
両者、動きを止めて見つめ合う。宵待が自分の失言に気が付くのと、千歳が嬉しそうに微笑むのは、ほぼ同時だった。
「待て、三秒ルールだ! 今のはなかったことに!」
「そんな、まさか宵待さんから同棲を持ちかけられるとは」
「違う! てっきり居座るつもりかと思っていたから……」
どうにも頭が正常に回っていないらしい。宵待はこれ以上失言を重ねないように、一番注意したいことを言っておくことにした。
「いきなり妙なマネをするのだけはやめてよ」
「妙なマネとは?」
「だ、だから、さっきみたいな」
「ああ」
頷いた千歳が腰を屈めて、宵待の唇に軽く口付ける。
「――こういうことですね」
「実践するな。今さっき言ったことを軽々と踏み越えるな! 唇は駄目だ!」
「それ以外ならいいと」
「やめて。言質を取ろうとするな。駄目だ、何を言っても通じている気がしない」
ぐしゃぐしゃと髪を掻きむしり、宵待は身を屈めて小さく丸まった。何をどう言えば今後の安全が確保できるのだろう。主導権を握る必要がある。
「そうだ、主はわたしということにしよう。ね、言うことはちゃんと聞いてよね、千歳」
人差し指を立てて、宵待は顔を上げて胸を張る。けれど、その表情はすとんと抜け落ちた。
千歳は漆黒の瞳を揺らして、呆然と佇んでいる。
「千歳?」
もう一度呼ばれて、はっとしたように千歳が動いた。右手の甲を口元にあて、視線を逸らす。泣くのを堪えるような、初めて見る顔だった。
「ごめん、わたし変なこと言った?」
ソファの上に立ち上がると、千歳と目線が合った。
「いえ……違うんです、ただ……名前を、呼んでくれたので」
「それだけ?」
拍子抜けして、ほっと息をつく。
「それだけじゃ、ないですよ」
千歳の顔が近づき、しまったと思ったけれど、ぎゅっと抱きしめられただけだった。
抱擁を“だけ”と思ってしまうあたり、相当毒が回っている。
「宵待さんが呼んでくれることが、重要なんです」
何かの香のような匂いがした。祖父の部屋の匂いに似ていて、緊張がとける。ぼうっとして千歳の背に腕を回しかけた時、千歳が体を離した。慌てて手を引っ込める。
「もう一度呼んでください」
「や、やだ! 無理」
「無理!?」
「や、改めて言われると……」
何をしようとしていたのか、自分の行動に動揺していた。千歳に何度ねだられようと、宵待は首を振って拒み続けた。
本格的に頭がどうかしている。防御の後、撤退をするしか身を守る術はない。