3-5 責任を取らねばなるまい
白い円の中央から、何かが飛び出ていた。
山羊のような立派な角がついた、暗紫色の肌を持つ恐ろしい形相の悪魔――の頭部のみ、だった。赤黒い瞳が獲物を探してぎょろぎょろと動き回る。
その傍に、女子生徒らが用意したらしい、ひらがなが『あ』から『ん』まで順番に書かれたお決まりの紙が落ちていて、隣に『エンジェルとは!? ~これでバッチリ! 今すぐ召喚だ!』なる本が落ちていた。タイトルのつけ方に覚えがある。このシリーズ本は馬鹿に出来ないかもしれない。
ただし、呼び出されたものはどう見ても『エンジェル』ではないけれど。
「…………出て来ない……?」
しばらく待ってみても、召喚されかけた天使様こと魔物は、ちらちらと宵待に視線を送るだけでそれ以上は現れない。いたたまれなくなって、宵待は千歳を見上げた。
「召喚の陣に不備があるか、この方の大きさに合わないんじゃないですかね」
「あ、なるほど」
円の大きさが、魔物の肩幅よりも小さいようだ。出て来ない、というよりは引っかかって出られない、が正しい。
「えっと、どうすればいいの? 戻す? 引っ張る?」
「戻しましょう」
「よっこいしょっと」
「その掛け声はちょっと――可愛いですけど」
千歳の苦言なんだか甘言なんだかわからない言葉を聞き流して、今や眉尻を下げている魔物の頭部を押してみたもののびくともしない。
「自分じゃ戻れない感じ……?」
思い切って本人に聞いてみると、ウンと頷く。このままでは体育館倉庫の哀れなオブジェになってしまう。可哀相になって、どうにかしてあげようと考え、宵待ははっとする。
「宗一朗は!? 退治するのが本職なら、逆に救う術もあるんじゃ――」
希望を持って顔を上げたところ、信じられないことに千歳が魔物の頭部を踏みつけた。あまりにも悪逆非道な光景だというのに、何故かしっくり来る。加虐者とはかくあるべきという後光さえ見えた。
魔物の頭部が床にすぽんと消えた。倉庫内は静まり返り、床にはチョークの魔法陣が残るのみだ。
「これでよかった、のか……?」
一抹の不安に駆られ、宵待は後ずさる。
そのすぐ後に、魔法陣から暗紫の気流が噴き出た。逆流する瀧のような勢いで、間欠泉を思わせる。それが収まると、憤怒の表情の魔物が立っていた。倉庫の天井は大分高かったけれど、魔物は胸から上を前屈みに曲げないと立っていられないほどに巨大だった。上半身は大男らしい逞しい体躯を誇り、腰から下は牛の下半身のようだったけれど、二足で立っている。
どうやって出て来たのだろうと下を見ると、床に大穴が空いていた。誤魔化し様のないほどに立派な穴が。
「よくなかった! 何してんの千歳!」
「助けてあげたつもりだったんですけど……」
「このひと怒ってるし!」
「宵待さんに触れてもらうとかずるいし」
「それが本音か!」
しおらしくしたかと思えば、半眼になって憮然として見せる。千歳は宵待の手を握ると、体育館の方へと駆けた。その頃になって、宵待がいた位置に魔物の拳が叩き込まれる。また床が壊れた。動きはそれほど素早くはないようだ。
「責任取って全部喰え!」
「ご冗談を。こんなの無理です。ゾウやキリンを見て食欲がわきますか?」
「え、そういう感覚なんだ……」
それは初耳、と呟いた時、千歳が宵待の手を離した。代わりに、千歳の両手に湾曲した大振りの赤いナイフが二本、手品のように現れる。血を模したような暗い赤は、何やら不吉の象徴のようにも見えた。
「ちょ、ちょっと! さっきのは冗談! 流血沙汰はよくない!」
「殺しませんよ。弱らせて帰しましょう」
「いや、でも……」
「では、あちらに任せますか?」
ほら、と千歳が指示した方に、人影があった。体育館の二階のギャラリーに宗一朗が立っている。
「…………何で上った? いつの間に……」
「さぁ……」
二人が見上げ、魔物までもが見守る中、宗一朗が手すりに手をかけ、そこから飛び立った。
「とうっ!」
声高に叫んで、床に降り立つ。片膝をついたポーズは、戦隊モノのヒーローの登場シーンのようだった。
「とうって言った」
「言いましたね」
ひそひそと言い合う宵待達の視線を受けたまま、宗一朗は動かない。
「絶対あいつ足やったぞ」
「大丈夫ですよ、頑丈だからすぐ治ります。怪我には安静が一番です」
「呑気な! 待ってくれないでしょ!」
魔物がゆらりと動いたのを察して、宵待は宗一朗を目指して駆け出す。そのまま体当たりする勢いで飛びついて、来たる痛みに備える。
けれど、その痛みはいつまで経ってもやって来なかった。
「……?」
恐る恐る目を開けると、宗一朗の右腕が腰に回って抱き留められている。
「お人好しめ――こちらに来るとは、思わなかった」
「えっ……うわぁ!?」
振り返ると、視界いっぱいに暗紫の魔物の顔があった。宗一朗の左手が魔物の体に押し当てられ、触れた場所が陽炎のように揺らめく。左手の甲から手首にかけて、薄っすらと青い蔦が絡まっているように見えた。
焼け付くような音とともに魔物の叫び声が響き渡る。
やがて魔物の体が傾いで、次第に姿が薄れていき、幻のように消え去った。
「終わった……?」
宵待は今さら腰を抜かしてふらつき、倒れかけたところを宗一朗に支えられた。お礼を言おうとしたけれど、後ろから千歳に腕を引かれ抱きすくめられる。
「浮気ですか、宵待さん」
「何を前提に言ってるのか知らないけど、浮ついた気持ちは一切ない」
人形を抱くようにして宵待を支え、千歳は目を眇めて宗一朗を睨んだ。
「その右手の傷に免じて、多少は目を瞑りましょう」
「……ご厚意、痛み入る」
答える宗一朗の顔も苦々しく、言葉と合っていない。千歳が指摘するとおり、宗一朗の右手は手首まで長く切り傷が出来ていた。宵待は目を閉じていて気付かなかったけれど、魔物の爪が宵待に迫った時、宗一朗は咄嗟に右手で庇っていたのだ。浅い傷で済んだのは、千歳がナイフを投げて過たず魔物の肩を捉えたおかげでもある。
「……ねぇ、宗一朗、その左手って何?」
宵待に指し示され、宗一朗は目を伏せる。
「白星、当主の証だ。呪いでもあるがな――これが俺に孤独を宿命づける」
「……うん、普通に喋ろうか」
宗一朗はきょとんとした。その子供のような顔に脱力する。
「素なんだね……慣れるように努力する。えーと、呪いって?」
「当主はこの人知を超えた力を身に宿すために、代々短命なんだ。この蔦が心臓まで伸びた時に、命も尽きる」
「えっ――大丈夫なの?」
宗一朗は腕まくりして左手をかざす。ぼんやりと浮かび上がった青い蔦は、手首の少し下まで伸びていた。
「なぜか俺の呪いの進行は遅いらしい。当分生きられる。皮肉なことに、俺に流れる母の吸血鬼の血がそうさせているのかもしれない」
達観しているのか諦念なのか、宗一朗は自分のことではないように淡々と語る。
「あなたも血を吸うの……?」
「いや。不都合は皮膚が少し日光に弱いのと、空腹になりやすいくらいだ。身体が頑丈なのはむしろ利点だ」
聞いた分だけぺらぺらと答えてくれる。やけに素直に話してくれることが気になって、宵待は首を傾げた。
「そんなに部外者に喋っていいの?」
そこでなぜか、宗一朗は頬を赤らめて目を逸らした。
「嫁になら当然だろう」
「何だと」「何を言っているんです」
宵待と千歳の声が混ざった。宗一朗はますます赤くなり、真摯な目で宵待を見つめる。
「抱擁を交わした以上、責任を取らねばなるまい」
「何が抱擁だ! それでいったら、わたしは何度千歳と結婚するはめになるんだ!」
「心まで寄越せとは言わん。世継ぎを生んでくれればいい。妻が愛人を持つのを許すくらいの度量はあるしな」
「そんな度量は持たなくていい! 愛人なんていてたまるか!」
千歳がやけに静かなことに気付き、怒っているのかとそろそろと振り返ると――泣いていた。はらはらと静かに涙が零れる。
「うわ、しっかり! 千歳!」
「僕というものがありながら、お嫁に行くとか……」
「行かないから泣かないで! ほら、ここにいるぞー」
千歳が宵待をぎゅっと抱きしめて、こくりと頷いた。ひとまずこっちはこれでいい。宵待は身を捻り、宗一朗を見た。
「いい? 結婚っていうのは好き合った者同士でするものだから。本当に好きなら、愛人なんて許せるものじゃないと思う」
言ってみたものの、宵待だって恋愛の何たるかなど知らない。
宗一朗の生まれは置いておくとして、彼の家は相当の由緒ある家のようであるし、結婚というものは好き合った者同士でするものというよりも、第一に家を存続させるためのものであるらしい。さらに、宗一朗の認識はかなりズレていると見える。
「宵待君はその方が好きなのか」
「いや?」
あっさり否定した宵待に、宗一朗は考え込んだ末に言い放った。
「好きでもないのに複数の男を抱くとは、さては淫ら」
「いかがわしい言い方するな! 千歳、あいつあんなこと言う!」
「――わかりました。面倒なので、ここで誰が主人かわからせましょう。主導権というやつの在り処を」
千歳は宵待から離れ、宗一朗に向けて目を細めてふわりと微笑んだ。これほどまでに清浄で美しいものはないと思わせる、聖女の如き顔。
「多少は目を瞑ると言いましたが、許すとは……言っていませんよ?」
千歳はひょいと宗一朗の首に腕をかけると、ずるずると倉庫の方へ引きずっていった。
取り残された宵待はひらひらと手を振る。生きて帰って来られるのかなぁ、とぼんやり思いながら。




