ある夜の吸血鬼と少女
「――まったく、毎日不景気がどうの不祥事がどうの不一致がどうのと暗い話題ばかり。気が滅入りますよ。この国の行く末が心配になります」
夜風がカーテンを揺らす窓辺で、年代物の揺り椅子に腰かけて新聞を開いていた青年が愚痴る。活動を終えて寛いでいるべき時間だというのに、三つ揃えの正装姿だった。
僅かに癖のある夜闇そのものの黒い髪と瞳。肌は白く、髪と衣装の黒との対比が強い。切れ長の目を縁どる睫毛は濃く揃って、薄い唇は上品に整う。背がすらりと高く、優雅に組まれた足は驚くほど長かった。
一度見れば忘れられないような美貌の持ち主ではあったけれど、如何せん肌が透き通るようで白い――どころか不健康に血色が悪い。
「前の二つはともかく、不一致ってなに?」
今まさに寝ようと寝室に引っ込もうとしていた少女は、だいぶ余裕のあるだぼだぼのパジャマ姿だった。これが今の時間帯として正しい衣装だ。
額の真ん中で分けた長い髪を邪魔にならないようにゆるく三つ編みにして、大きな瞳は利発そうに光る。やや小柄で華奢な肢体は、幼さを残してまだ成熟していない。
青年が半眼気味に視線だけを少女に向けたものだから、彼女はびくりとして逃げ腰になった。ぱたんと新聞紙が閉じられたかと思うと、青年が少女の真後ろに現れている。窓辺から少女がいた位置まで、歩数にして五歩ほど。一息で移動できる距離ではない。
天敵に目を付けられた小動物のごとく、身を竦めて肩のあたりまで上げられた少女の両手に、青年の手がするりと絡む。
「僕にとって一番の重要な問題ですよ。分からないのですか?」
「うん、何でもない。何も聞いてない! 何も分かりたくない!」
自ら罠に飛び込んだと気付いた時には遅い。獲物が喚いたところで蜘蛛の糸は緩まない。
「こんなに愛しているのに少しも伝わらない。恋人同士の気持ちの不一致というのは恐ろしいことですよ」
「千歳! まず、前提から間違ってる。わたし達は恋人じゃない」
「えっ?」
「えっ? って何だ、何で未知の言葉に遭遇したみたいな顔してるの」
「ニホンゴムズカシイ」
「待って。さっきまで流暢に喋っていたでしょうが。分かってるくせに」
「本当、分かってるくせに――宵待さんは意地悪ですね」
「うぁっ」
妙な叫び声を上げて、少女は肩をびくりと揺らす。青年の唇が、少女の首筋に押し当てられていた。少女は真っ青になって、誰かに助けを求めたい一心で無意識に手を握る。けれどそれは、危害を加えようとしている青年の手を握り締めることにしかならない。この家に、二人以外の誰かなどいないのだから。
「ちょ、ちょっと、まさか」
「まさか、何ですか」
「そのまま喋るな! ぞわぞわする――ちょっと、本当、やめてよ。血を吸うつもりじゃ――」
少女が口走った言葉に、青年は興醒めしたようにぱっと手を離す。床にへたり込んだ少女が這って距離を取るのを不満そうに見下ろした。
「何度言ったら分かってもらえるんです? 嫌ですよ。ヒトの生き血なんて生臭いもの、誰が好むんです。それに、わたしは貴女が望むまで血を吸うつもりはありません」
「……生臭くて悪かったな」
両手で首筋を守るように手をあてて座り込んだまま、少女は青年を見上げる。けれど、その視線はすぐに下がる。青年が少女の前にしゃがんだからだ。
「ですので、早いところ僕の眷属になってください」
「何度言ったら分かってもらえるの? 嫌です」
青年の言葉をそのまま返し、少女は目を眇めて目の前の青年を睨む。
「わたしは絶対、人間のまま一生を終えるんだからね!」
「人の気持ちとは移ろいやすいものです」
うんうん、と訳知り顔で頷く青年に呆れて、少女は目を逸らした。そのせいで、青年が猫のように目を細めたことにも気付かない。
少女の頬に青年の指が添えられたかと思うと、そのまま当然の如く唇が重ねられる。触れるだけのやさしいもの。
「――!?」
「はい、ではおやすみなさい。夜更かしはお肌に悪いですよ」
「何でいきなりする!」
「許可が下りないからです」
「下りるか馬鹿! 離せ!」
じたばたと暴れる少女の抗議を無視して青年はひょいと抱き上げて、二階の少女の寝室へと向かう。
廊下の一番奥にある部屋は、主な家具は年季の入った飴色、その他は白と深緑で統一されて、年頃の少女の部屋にしては落ち着いて渋い。ここに暮らした主が亡くなってから、少女が自室として使うようになっていて、内装は何一つ変えていない。
天蓋のついたベッドに下ろされて上掛けを被った少女は、目を細めて青年を見上げている。青年は視線を受けて、首を傾げる。
「添い寝して欲しいんですか?」
「違う!」
力強く吠える小さな少女に、青年は残念そうに溜め息をついてから、身を屈める。ゆっくりと頭を撫でて、微笑んだ。
「月夜を渡る素敵な子、今夜も良い夢を――おやすみなさい、宵待さん」
呪文のような言葉は、少女が小さな頃から続く儀式。それを与えてくれる相手は、この青年に変わってしまったけれど。
ほっとして目を閉じようとした少女の額に、口付けが落とされる。
「それは余計だ!」
「宵待さんの額が可愛いのがいけないんです」
「出てけ!」
青年に向けてクッションを力いっぱい投げつけたのに、そこにはもう誰も立っておらず、あっけなく床に落ちて止まった。どこまでも気に食わない青年だった。正直、すぐさま追い出したいところだったけれど、それが出来ない事情がある。
「では、また明日」
戸口に立つ青年がにこりと微笑み、部屋の灯りを消して扉を閉めて去って行った。
静かになった部屋の中、少女は闇に目を凝らし、そこに誰かの姿を見出そうとした。もちろん、もう誰もいない。
「……おやすみ、おじいちゃん」
古めかしい青い屋根の洋館で、少女と吸血鬼の青年の奇妙な同棲生活が始まったのは一月前のことだった。