第2章 2 白い少女
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レイオニアの中枢にある精霊宮には、『内庭』と呼ばれる、一般には公開されていない場所がある。
一般の都人が立ち入りを許されている、聖堂や律王拝謁のための広間、美術館や図書館などは『外庭』である。
内庭は皇族の住まう場であり、他には皇族の身の回りを世話する女官や、日々の儀式を執り行っている祭司たちの、居住する場でもあった。
いわば聖域の中の聖域である。
純粋なレイオンの人々の血を受け継ぐ皇族たちの住まいは、白い石で作られた、天井の高い壮麗な建物であり、単に『奥』とも呼ばれる。
顔が映るほど滑らかに磨き上げられた石の回廊が、似たような外観の細長い部屋同士をつないで延々とのびており、慣れない者ならば例外なく迷う。
奥庭の回廊を飛ぶように駆け抜けていく少女がいた。
九歳になった皇女フィオンである。
「皇女さま、どちらにおいでですか」
軽やかな足音を聞きつけて、部屋の一つから顔をのぞかせたのは若い女官のアラーネアである。
皇族たちの食事や祭礼服を整えたり、行事をすみやかに進めるための采配を受け持つ部署の女官だった。
「お庭!」
きっぱりと言う。お付きの女官たちを翻弄してやまない、天真爛漫な笑顔で。
「まあフィオンさま、今日は、最後の証見の儀式がございますのに」
「わかってるわ、ちょっとだけ、お庭に水をあげてくるだけよ」
ちょこんと首を傾げる。いけないかしら、と、問い掛けるように。
「そ、それは、構いませんが」
アラーネアは必死に、フィオンの笑顔に抗ってみた。
「もう皇女さまは植物の証が明らかになっておいでですし、儀式などは確認のためだけでございますけれど」
じっと、フィオンはアラーネアの顔を見上げている。
「大切なお庭だということは、よーく承知致しております。ですが儀式のほうも重要なのでございますから。どうか」
「ええ、遅れないで行くわ。早めに」
フィオンは真剣な眼差しで言う。
「そうでございましょうとも。皇女さまがお約束を違えたことなどございません」
ついにアラーネアは折れて、フィオンを送り出した。
皇女にとって、あの庭は特別なのだということは、誰もがよく知っている。
大好きな父、アルギュロスに初めてもらった、小さな小さな土地なのだ。
*
「おい、大丈夫か」
視界がふさがってしまうくらいに腕いっぱいに荷物を抱えた赤毛の少年を、彼の叔父は心配そうに見やった。
「平気だよ! もっと持てるって」
少年は胸を張った。
日焼けした腕や足は細いが、手のひらや足先は身体に似合わず大きい。きっと背は高くなるだろう。短く刈りすぎて逆立っている髪は、炎のようだ。
「いや、そんなに抱えなくていい。気をつけて運ぶんだぞ」
叔父は念を押した。
「今日は聖堂で、このあたり全体の、九歳になる子供たちが『証見』の儀を行うからな。俺たちは儀式に使う什器を納入する業者ってことで出入りを許されたんだ。目立たないようにおとなしくしていろよ」
「わかってるよ」
「俺たちなんかが出入り出来るのは遠縁に貴族様がいるおかげだ。身分を忘れちゃあいかんぞ。それでも『証』も出てない一介の市民がこんな所まで来れるなんて、そうそうある事じゃない。せいぜいがんばって皇族がたの覚えをめでたくして渡りをつけとけ。将来、なんかの役に立つかも知れん」
「また、いい加減なんだから、おじさん」
少年は呆れたように言った。
「おばさんが、おじさんの話は半分に聞いとけって」
「あいつ余計なことを……いいか、しっかりついてこいよ。俺は何度も来てるんだ。ここは迷いやすいからな、気をつけろ」
叔父が先に荷物を持って出た。
少年も、後を追いかけた。
今回ばかりは叔父の話も嘘ではなかったことを、少年は後で知ることになる。
聖堂へ向かう途上で、赤毛の少年は叔父を見失った。
焦ってあちこち動き回っているうちに、よけいにもとの道がわからなくなってしまったのだった。
「しまったなあ、ここはどこだろう……」
ふと回廊に、叔父に似た背格好の人物を見かけた気がして追いかけたら別人で、これも見失って、更に迷って。
今や、まったくわからない。
周囲は、変化のない石の回廊が長く延びているだけで、遠くに、四角い、背の高い建物が見えているが、叔父から聞いている聖堂の目印の丸い屋根は、どこにもない。
どれくらい歩いただろう。
ふいに突風で荷物が揺れ、落ちそうになって視界を完全に塞いだものだから、少年はあわてて踏ん張った。ところが、それがよくなかった。
敷石らしきものを踏み外して、転んでしまったのだった。
……ああ、まずいなあ。
……それにしてもなんて青い空なんだろう。
「ねえ。どけて」
突然、少女の声が、降ってきた。
「……えっ?」
「お兄ちゃん、フィオンのお庭を踏んでるのよ」
言われて初めて、自分は空を向いて倒れていたらしいと気づいた。
あどけない女の子の顔が、上から彼をのぞきこんだからだ。
「あっ、ごめん」
驚いて身体を起こした。
「だめ、そこ動かないで」
真剣な顔で、少女が手をひろげて制止する。背後に、緑色の、背の高い植物らしきものが見えた。
そこは、華奢な銀色の柵で囲われた、ささやかな庭だった。
瑞々しい緑が目に飛び込んだ。
辺りの空気は清々しい香気に満ちている。
「すまん、おれ、花壇に入ってたのか」
「花壇じゃないの、薬草園よ」
とても重要なことなのと言いたげに少女は訂正する。
「薬草かあ……ごめんな、踏んじまって」
「ううん、いいの。また育てるから」
少年がどけると、少女はうつむいて、踏まれた植物をそっと起こしてやる。優しい手つきだった。
さらさらの金髪が肩から流れ落ちて、あらわになった白くて細いうなじがなんだか眩しくて、少年は目を細める。
「これはね、お薬になる植物なの」
少女は言い、あれは安眠をもたらす薬草だとか、これは熱を冷ます処方にいいのだとか香りのいい『海の雫』という意味で、ロスマリノスと呼ばれている植物なのだとか、一つ一つを指して教えてくれた。
「すごいね。きみの庭なのか?」
少女は生真面目そうに頷く。
「わたし、大きくなったら、もっとたくさん薬草を育てて、みんなの、痛いのとか病気を治してあげるの」
少年は胸を打たれたように立ち尽くした。
純白の、少年の見たこともない上等の布でできた服に身を包んだ、愛くるしい金髪の少女の姿に。
「皇女さまー。お戻りを、儀式の準備がございますー」
若い女の声が近づいてくる。
「いけない、こんなとこまで迷い込んだってわかったら、二度と仕事がもらえない」
少年は慌てた。
「わたしが戻れば、みんなはここまでは来ないわ」
少女はにっこり笑って、立ち上がった。
「じゃあ、行くわ。道を教えられたらいいんだけど、わたし、外庭に出たことないから、わからないの。でも、たぶん、こっちの回廊の先に進むと、聖堂の控室につながってるはずよ。以前に祭司が言ってたの」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
少女は服の裾を両手で軽く持ち上げ、優美に会釈をしてから、くるりと踵を返した。
自分の知らない世界に住む美しい生き物。
そんな気がして、彼は、少女の姿が見えなくなっても、しばらく、身動きもできないで佇んでいた。