第1章 その6 旅立ち
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「なんで! なんで、こうなるんだっ」
ぶつぶつ言いながらフィオンは石畳の上を猛然と歩いていた。
明け方、都の外れには人影もほとんどなかった。
すっかり旅支度を整え、革靴を履いて、首の詰まった療法師の衣をまとい、肩にケープを巻いている。早朝はまだ肌寒かった。
「待ってフィオン、待ってよう」
ヴェルドが必死に追いすがる。
後ろから見るとフィオンの背中はなんて細いのだろう。
朝の風をはらんでケープがふくらみ、まるで精霊の羽のように見える。そのまま空へ飛んでいってしまいそうだ。
不安にかられてヴェルドは懸命に走った。
「待って!」
ようやく追いついたヴェルドはフィオンの背中に飛びついた。
「わっ!」
驚いたようにフィオンは飛び上がった。ヴェルドは慌てて手を離す。
「あっごめん。背中、苦手だったね」
「わからないけど、なんか、痺れるんだよね……背中に触られると」
背中を庇うように片手を後ろに回して、フィオンは足を止める。
「そういえば怒ってるときとか、特にそうだったものね」
ヴェルドの笑顔に、フィオンは困惑の表情を向けた。
「ごまかさない! 問題は、そうじゃなくて。……ぼくが、どんなに遠くまで行くのか、わかってる?」
「えっと……ごめん、それは、あたしよくわかんない……」
きまり悪そうにヴェルドは首をすくめた。
フィオンはそんなヴェルドをいとおしそうに見やり、困ったようにため息をつく。
「ぼくだって実際には知ってるわけじゃない。広い大陸を横断して南の海岸まで行くんだよ。そこから船で島に渡るんだ。そんなに遠いのに……ヴェルドはレイオニアを出たこともないのに、なんで、ぼくについてきたいなんて連盟に申し出たりしたんだ」
「……だって……あたし、心配だったんだもの!」
ヴェルドは必死に訴えた。
「フィオンだって都の外に出るのは初めてで、心細いでしょ? あたしがついていれば、いろいろ便利よ。それともイヤなの? 迷惑なの? もしそうなら……」
「ヴェルドがいやだなんて、言ってない」
フィオンは慌てて言う。
「カウシマの母さまや父さまに、申し訳ないんだ」
「あっ、それはだいじょうぶよ。二人には、一昨日フィオンが来て夕御飯を食べていった後で、話しておいたの。賛成してくれたわ。フィオンを一人で旅なんてさせたら、どこで倒れるかと思うと気が気じゃないって、母さまもあたしと同じ意見だったわ」
満面の笑みで答える。
「お願い、あたしも一緒に行かせて」
フィオンは大きなため息をついた。
昔から、ヴェルドの本気の『お願い』には、かなわないのだ。大きな目で、懇願するように見つめられたら。
「あたし、フィオンとだったら、どこまでだって行けるわ」
再び、ため息をつき、フィオンは頬を微かに赤らめる。
「しょうがないなあ」
だいたい、もうそういう手筈になっているのだ。
フィオンは丈夫な麻布の袋を肩から斜め掛けにし、左手には黒革で作られた箱型の鞄を提げている。
黒革の鞄には、薬草の成分を抽出精製した精油の瓶がぎっしり詰まっている。
しかし着替えの服も食料も、ついでに言えば財布も、フィオンは持っていなかった。
着替えと財布は、ヴェルドが背中に掛けている布鞄に入っているのだ。
ヴェルドもすっかり旅支度を整えて、自分の着替えも用意し、足になじんだ丈夫な革の靴をはいていた。雨風を防ぐための、油抜きをしていない羊の外毛で目を詰めて織られている布も、用心のために持っている。
「わーっ、嬉しいっ」
ヴェルドは、こんどは前からフィオンに飛びついた。
「わ、わ。ヴェルド。痛いって」
二人のその様子を、じっと黙って見守っている人物が、一人いた。
赤銅色に焼けた肌色と、鍛えられた筋肉質の身体つきをした若者、キースだった。
フィオンより頭一つは背が高い。
短く刈り込んだ煉瓦色の髪が強情に逆立っている。
フィオンとヴェルドより二、三歳ほど年上のようだ。
二人の荷物を合わせたよりも大きい布の包みを、軽々と背負っていた。
フィオンはキースとは、昨日、療法師連盟本部に挨拶に行ったとき、その場で連盟の雇っている護衛として引き合わされた。
そのとき連盟に初めて知らされたのが、フィオンの身の回りの世話をするという名目でヴェルドも同行することになっていたことだ。
おまけにヴェルドとキースは、いとこ同士で顔見知りだし親しそうだし。
実はヴェルドがキースと親しげなのがフィオンの苛立ちの主な原因だったが、本人も、それとは気づいていない。
護衛をつけると言われるまで、旅にまつわる種々の危険への対処について、自分が全く考えていなかったことを思い知らされて、フィオンは少し面白くなかったのだ。
「じゃあ出発ね!」
笑顔でヴェルドが言う。
「目的地まで、よろしく頼むよ」
フィオンは心持ち冷やかにキースを見上げる。
「もちろんだ」
キースは胸を叩いて、請け合った。
「がんばってね、キース」
上機嫌のヴェルドが言う。しかしキースの返事は、にべもない。
「俺はおまえの護衛じゃないぞ。おまえ、早く帰れ」
「あっひどーい! 傷つくぅ」
「やめたまえ、女の子にひどいことを言うなんて」
フィオンがヴェルドを庇う。
キースはうんざりしたように、ぼそっと言う。
「俺はこいつの従兄弟なんだ。赤んぼのとき子守りさせられたってぐらいで、長いつきあいだ。……ここ何年かは会ってなかったが」
「なるほど、それでぼくがカウシマ家にいた間に会ったことがなかったんだな。しかし、いとこだからと言って暴言はいかがなものか」
従兄弟の存在なんて聞いてない。
それがフィオンをよけいに苛立たせていた。
「あのね、もういいのよフィオン」
険悪な雰囲気を和らげようと、ヴェルドはフィオンをなだめる。
「きみのことなんだよ、ヴェルド。最初に、びしっと」
「大丈夫よ。あたし、こたえてないから」
ヴェルドは胸を張る。
そういう問題ではないとキースは思ったが、黙った。
ここは引き下がろう。
自分は護衛だし、こいつらは……女の子なんだし。
「じゃあ今度こそ出発よ!」
ヴェルドは先頭に立って歩き始めた。
*
一行は都の門に着いた。
門と言っても、レイオニアは城砦都市でもないし、ぐるりを頑強な防護壁が囲っているわけでもない。
いわば、ここからがレイオニア市街であるという標識に過ぎないのだが、一応は門の体裁を整えるため、石柱が二本並んでおり、脇の小屋に門番として大柄な男が二人、立っていた。
門番はキースの持っていた印章を見ると、無言で頷いて、通れと合図する。
しばらく後、フィオンたちが通りすぎるのを見計らったように、門番の小屋から、五十代半ばと思われる女が出てきた。
女は聖職者の白い聖衣を身につけている。
「……行ってしまいましたわね」
寂しげに呟いた。
五十を過ぎた実年齢を感じさせない、透明感のある白い肌。
淡く青い瞳は、物憂げだった。
幾筋かにわけて細い三つ編みにした明るい金髪を形のいい頭部に巻き付けており、若い頃よりも少し貫祿の加わった顎や、なだらかな顔の輪郭があらわになっていた。
彼女は精霊宮の奥庭に在し、『精霊の産母』と称される、ディオミディアである。
「あんなに……大きく、お育ちになられて……フィオンさま、お父さまを、きっと恨んでいらっしゃるでしょうね……」
白い姿が、小さくなっていくのを見て、目頭を抑えた。
「どうしてなのだろう……不安だわ……」
ディオミディアは門柱にすがりついた。
重苦しい不安が押し寄せてきて、潰されそうに苦しい。
「本当は何が起こっていて、何が、起ころうとしているのか……」
不安がただの杞憂に終わってくれればいいと、ディオミディアは祈るばかりだった。