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第1章 その5 ヴェルドの不安



 ヴェルドは二階へ通じる階段を駆け登っていた。

 扉の取っ手に下げられた板には銀の飾り文字で『公認一級療法師』と記されている。

 フィオンが住んでいる部屋だ。

 ヴェルドは迷わず扉を押した。


「フィオン! ごはん持ってきたわよ」

 扉を開けて、ヴェルドは中に入った。


 入口近くの待合用の椅子には、治療を待っている患者の姿はなかった。

 だが、窓際の手前に立てられた、木枠に薄い亜麻布を張った衝立に、二人の人物の影が映っていた。向かい合って、椅子に腰掛けている。


「お客さまなの? 帰ったほうがいい?」

 遠慮がちに声を掛けると、

「気にしないで。ちょっと待っててくれるかい」

 衝立の向こうからフィオンの声が応えた。

 ヴェルドが気にする客ではないらしい。


 持ってきた手提げ籠を待合のテーブルに置いて、ヴェルドは部屋を見回した。

 毎日のように昼ご飯を持ってきているけれど。

 いつも変わらない。

 書物の山と、治療に用いる備品の他にはほとんど何もない、質素な一部屋。

 薬草を用いた燻蒸療法で患者が座るための素焼きの小さな椅子、金属製のたらい。燻蒸中の患者の身体を覆うためにすっぽり被るようにかける大きな布。どちらも上質で高価な乾燥した薬草の束と精油の小瓶を並べて置いた薬戸棚。

「本当に、住んでいるって感じがしないのよね」

 ヴェルドはつぶやく。

 最初に、ヴェルドの家に養女としてやってきたときからそうだったけれど。フィオンは放っておけない。養父母となったカウシマ家の家族への気遣いは忘れないくせに自分自身のことなど、どうでもいいと思っているかのように、勉学や施療や、患者たちのことに没頭する。

 ヴェルドは心配でたまらなくて、よくこの部屋を訪れては料理を差し入れたりしてきたのだった。

 耳をそばだてていたわけではなかったが、聞くでもなく、客とフィオンの会話が切れ切れに飛び込んできた。

「でも、ぼくはそんなに腕のいい療法師とは言えませんよ。他にどなたか適任者がいらっしゃるのではないですか」

「あなたに行って頂ければ、まさに理想的なのです」

 フィオンに応えたのは男性の声だった。穏やかで落ち着いた声で、抑揚はあまりない。年の頃は判別しにくいが、若そうだ。まだ中年ではないだろう。

都でも名の通った名家であるカウシマ家の令嬢として育ったヴェルドは、様々の年齢や身分の人々と面識を持つ機会が多い。声からだけでも相手の人物像を推測する。


 何の話だろう。

 フィオンが行くって、どこに?

 ヴェルドは会話の内容が気になり、そっと衝立に近づいた。


 衝立の向こうには、フィオンと、質素な衣をまとった長身の人物がいた。

 生成りの麻布で作られた裾の長い衣をまとっている。頭部を覆う頭巾がついているが、今は被っていない。

 肩まで届く金色の髪が、色の白い端正な横顔を覆っていた。


 ヴェルドは知っていた。

 あの衣は療法師連盟の人だ。

 しかも幹部かもしれない。『あかし』を持ち、『ことば』を使うことができる療法師の身分を示す銀の指輪を中指にはめている。

 フィオンは、その指輪は持っていない。『言』を用いないのに素晴らしい治療効果をあげているというところが、『一級』たる所以なのだ。


「少し考えさせてください。……返事は、明日、連盟本部に直接おうかがいして、させて頂きます」

「よい返事をお待ちしています。では、後ほど、本部で」

 連盟の使者は軽く頭を垂れ、椅子から立ち上がった。

 ヴェルドは思わず、彼の顔に見入った。

 目をひくほど、美しかったのである。

 レイオンの人々の血を受け継ぐ者の特徴である、淡い金髪と明るい色の目と、色の白い肌、ほっそりとした長身と、まるで人ではなく精霊の眷属かと思わせる容貌。それは男でも女でも共通のしるしだった。

 入口近くに立っていたヴェルドと目が合うと、使者は微笑んで、優雅な会釈をし、静かに扉を開けて立ち去っていった。

 高貴な身分の生まれではなかろうかと思われる、身についた育ちのよさを、ヴェルドは感じた。

 フィオンと、どこか似ているような。

 そのときふいに、漠然とした不安に襲われ、ヴェルドは窓際に駆け寄った。

「フィオン!」

 窓から外を眺めていたフィオンが振り返る。

 いつもヴェルドを迎えるときの優しい笑顔。

 けれど、何かを深く考えている表情。


 華奢な印象を与えるフィオンの抜けるように白い肌、整った面差しは透明感があり、少年のようにも少女のようにも思え、また、どちらにもあてはまらなかった。

 窓辺の日差しに淡く光る金髪、冬の空を思わせる澄んだ青い瞳。

 フィオンもレイオンの人々の血を色濃く受け継いでいるのだ。

 一方ヴェルドは、生命力に溢れたソーリス・ルクスの特徴を残していた。

 しかしながら現在のレイオニアに於いて種族の血統というものは、それほど厳密に分けられるものではない。聖域の内部に住む皇族や聖職者たち、ほんの一部の限られた人々を除いては。

「ねえ、さっきの人はなに。連盟の人でしょ。なんの話をしていったの。……フィオンはどこかへ行ってしまうの?」

「まだ話があったばかりだよ」

 フィオンはヴェルドを安心させるように静かに応える。

「いましがた、療法師の連盟から、申し出を受けはしたけれど」

 そんな気休めではヴェルドは納得しなかった。

「よくわかんないけど、でもフィオン、もう話を受ける気になってるんじゃないの?」

「ヴェルドにはかなわないな」

 フィオンは微笑んだ。

「本当に少し、そんな気になっていたところだよ」

「どうして……」

「レイオニアの近辺では、施療院もあるし、ぼくみたいな療法師もけっこういて、人々の

身体の不調や、病気や怪我の治療にあたっている」


 施療院は律皇りつおうアルギュロスの出資によって運営されている慈善事業だ。

 貧しい者は無料で病気を診てもらえるが、お役所の業務らしく、長く待たされるし、老人や子供の病気には、家族が付き添う必要がある。たいてい、一家の働き手が、まる一日の仕事を休むことになるのだ。

 人々が頼みにしているのは、個人で開業している療法師である。

「しかし辺境の地方では、はっきり言ってしまえば医療が遅れている」

 そこまで聞いたとき既にヴエルドにはわかっていた。

 フィオンの気持ちは、先ほどの誘いに傾いてる。

「体制も整っていないし一人の療法師もいない地方も多くて、技術も薬についての知識も充分ではないから、レイオニアや大きな街ならば治る病気が、まったく良くならないどころか悪化させる場合も多いらしい」

「だから、そこへ行くの?」

 本当は聞かなくてもわかっているのにヴェルドは確かめずにいられない。

「療法師連盟に頼まれたのね」

「ぼくが考え出した燻蒸療法は、今ではレイオニアの療法師たちには常識になっている。それを辺境の地方に伝えてくれないかというんだ。正直……話を聞いたとき、やり甲斐を感じた」

「そんなのって」

 ヴェルドはすぐには頷けなかった。


 だいたい、フィオンが療法師として経験と研究を重ねて独自に考案した、薬草と精油を用いて患者の身体の滞った血の流れを整えさせる独自の燻蒸療法を、連盟に認められた者に限るとはいえ、他の療法師も、あたりまえのような顔をして取り入れているのは、納得がいかないことだった。

 もちろん、多くの患者は、他の療法師にかかってもやっぱりフィオンのほうがいいと、戻ってきてくれるので、胸のつかえが取れる心持ちがしたけれど。


「じゃあもう決めてるの? もうすぐにレイオニアを出るつもりなの?」

 ヴェルドの声が震えた。

 今にも泣きだしそうになっているヴェルドの肩に、フィオンの手が触れた。

「すぐにいなくなるわけじゃないよ。準備もあるし、だいたい、承諾したという返事もしていないし。旅費は連盟がもってくれる。大きな街には、連盟の支部もあるから、保護も受けられる」


 すぐには行かないとフィオンは言うが、もう受けると決めている。何年も姉妹のように接してきたヴェルドには、その決意のほどが、はっきりと感じられた。


「わかったわ。でも……フィオン、出発する前には、うちに顔を出してね」

「もちろん、そうするつもりだよ」

 フィオンの表情が翳った。

「遠くへ行ったら、ヴェルドにもカウシマの母さま、父さまにも当分、会えなくなるな。ぼくは、それだけが、つらい」

 それだけなの?

 都には、他の未練はないの?


 ヴェルドはふと思ったけれど、言わなかった。

 フィオンを困らせるだけのような気がしたからだ。


「ええと、じゃあ、どうせ、そのうち荷造りしなくちゃいけないんだもの、持っていくものを整理しておいたら?」

 寂しさを紛らわせるように、ヴェルドはわざと明るい声をあげた。

 たぶんフィオンにはわかっていただろう。

 フィオンが十一歳のときから、姉妹のように……というより兄妹のように、信頼を寄せ合って暮らしてきた二人だ。


 訳あって天涯孤独になったフィオンを、生まれたときに取り上げた産母ディオミディアの紹介で、都の名家であるカウシマ家が身元を預かることになった。


 カウシマ家の父母も一人娘ヴェルドも、姉ができたことを喜び、歓迎した。

 身元を預かったのがカウシマ家で本当によかったとフィオンはよく言っていた。


 それまでの暮らしについてヴェルドは知らされていないが、後になって、相当に身分の高い人に違いないと察しがついた。

 何よりも、隠すこともできない、レイオンの人々の血を色濃く受け継いでいる容姿が、その出自を物語る。いつだったかフィオンが言葉少なに語ったのは、以前にはカウシマ家でのような安らぎは得られなかったということ。

 この、凛として美しいけれど孤独の影がつきまとう人に、家族の情愛や安らぎを与えられたのならいいのにとヴェルドは常々思っていた。


 ヴェルドとフィオンは同じ教師について学んだ。

 はじめ、フィオンは自分には学問などいらないと辞退していたが、ヴェルドが強引に誘ったのだ。カウシマ家は一般家庭より恵まれた経済状態にあったから、ヴェルドには家庭教師がついていたのである。

 二人とも、精霊の力を借りることのできる『言』を学ぶために必要な『証』はなかったが、勉強は好きだった。

 フィオンは乾いた地面が水を吸い込むように、ぐんぐんと知識をものにしていった。

 特に『植物の室』に類する分野では、教師も驚くほどの良い成績をおさめた。ヴェルドには、とうてい辿り着けない段階である。

 数年後、教師の勧めもあり、フィオンは療法師への道をたどることになった。『証』が現れていないから『言』は遣えない。そのため、聖域の中にあるソフィア精霊会の大学院で学ぶことはできなかったし、フィオンも望まなかったが、一般の場合よりも遙かに短い期間で資格試験に合格し、公認療法師として開業するまでに至ったのだ。

 大人びてしっかりしていると誰もが言うフィオンのことが、しかし、ヴェルドは気にかかって仕方なかった。

 一人でいたら食べることなどしなさそう。

 空気を食べ、霧を飲んで、いつしか精霊たちの仲間入りをして、人の世からふっと居なくなってしまいそうな……そんな気がしてならなかったのだ。


「そうだ、ヴェルド。籠の中身を見たいな」

「忘れてたわ。温かいうちにと思って持ってきたのに」

 ヴェルドは手籠から鍋を取り出した。

「いい匂い。いつもの、母さまお得意の、野菜のクリーム煮だね」

 フィオンはようやく、明るい笑顔になる。

 その笑顔を見て、ヴェルドは少し可哀相に思った。

「ちょっと冷めちゃったわね」

「だいじょうぶ、冷めてもおいしいから。ヴェルドも食べる?」

「あたしは家でちゃんと昼ごはんを食べてきたもの。フィオンは?」

「……忘れていた」

 あっさり答えると、ヴェルドは頬をふくらませた。

「もうっ、ちょっと目を離してると、ごはんを忘れるんだから! そんなだから、一人で置いとけないんですっ」

「ごめん、ごめん」

 笑いながら、フィオンは謝る。

「これからは気をつけるよ」

「それに冷めた料理を食べるなんて味気ないと思わないの。ほんとに女の子なのかしら。

なんだか時々、あたしにはお姉さんができたんじゃなくて、お兄さんなんじゃないかって思うのよね……フィオン、鍋を温めたいんだけど、何かある」

「はいはい」

 取り出してきたのは、口細の瓶に入った揮発性の油に麻紐の芯を差したランプだ。鉄製の五徳の下に、ランプを置く。

「なんだか実験でもしてるみたい。ねえ、ほんとにいつもはどうしてるの。このランプで

ちゃんと自炊してる?」

 ヴェルドは鍋を火にかけ、焦げないようにかき回した。

「ああそれは……だいじょうぶ、薬草を煎じるときに暖炉に火を入れるから、ついでに野菜を茹でてる」

「茹でるだけ? 料理じゃないじゃない……」

 温めた料理を皿に盛りつけてやると、フィオンは意外と、がつがつ食べる。

「……これだもの。やっぱり放っておけないのよねえ……」

 嬉しそうに食べるフィオンを見やって、ヴェルドは考え込んだ。

「ねえ、あたしも一緒に行っちゃだめ?」

 フィオンはぐっ、と息を詰まらせた。

「だめだよ。ぼくだって、都から出るのは初めてなんだ。何が起こるかわからない」

「じゃあ、そんなに危険かもしれないって思ってるのに、行くの?」

「……仕事として、やり甲斐を感じるんだよ」

「いったい、どんな所なのよ!」

「大陸の南にある、離れ小島らしい」

「離島~!」

「そこにはソフィア精霊会の祭司が訪れた記録はあるけど、祭司は常駐していないんだ。分宮わけのみやは作ったかもしれない」

「そんな遠くへ……だいじょうぶなの?」

 フィオンはふっと匙を置いて、ヴェルドを見やり、微笑んだ。

「さあ、もうこの話はやめにしよう」

 優しい笑み。けれどこう言いだしたら、もうフィオンの決心を翻すことはできないだろうと、ヴェルドは知っている。

「近所のみんなは寂しがるわ……フェーン婆さんも、肉屋のおばさんも、洗濯屋さんのナディのうちの坊やも」

 フィオンはこの部屋で、人々の健康相談にのるほかに、小さな子供たちに文字の読み書きや計算を教えていた。

 けれどフィオンは、遠くを見ているような眼差しで、考え込む。

「他にも療法師は大勢いる。誰かがこの区画を受け持つよ……それに、そろそろ、どこか遠くへ行きたいっていう気持ちも、湧いてきていたんだ」


 ヴェルドはふと思った。

 やはり、フィオンの孤独は癒されなかったのだろうか。


 ヴェルドはずっと、フィオンがカウシマ家に暮らし、療法師として開業し、人々と触れ合っていても、どこかに心を置き去りにしているような気がしていた。


 ……だっていつも、寂しそうなんだもの。


「あたしを置いていくの?」

「……そうじゃない。そうしたくはないけど」

「でも一人で行ってしまうんだわ。そう決めているんでしょ?」

「……さあ、もう遅い。暗くなってきてるじゃないか。家へお帰り、送っていくよ」

 フィオンはヴェルドを促して外へ出た。

 すっかり日が落ちて、裏通りは暗かった。大通りには終夜灯が輝いているけれど、このあたりには街灯は据えつけられていない。

「そんなに暗くはないわよ、レイオンが出ているもの」

 ヴェルドが西の空を示した。

 フィオンも夜空を見上げた。

 銀色の円盤の放つ、闇を払う優しい光がレイオニアに降り注いでいた。

「フィオン、今夜はうちに帰って来て。お父さまとお母さまに顔を見せてあげてよ。二人とも喜ぶわ。……さっきのお話は、まだしなくてもいいから……そのときまでは」

「……うん。そうしようかな」

 ヴェルドは手を延ばしフィオンの手を握った。


 二人は手を取り合い、月明かりの道を歩いていった。

「でもね、お願いよ。ぜったい、あたしに黙って、行かないで……」


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