第1章 その3 公認療法師フィオン
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下町の一画に、灰白色の切り石で築かれた、三階建ての集合住宅がある。
フィオンはここに部屋を借りて一人で住んでいる。
ヴェルドは二階へ通じる階段を駆け登った。
目指す部屋の扉の把手には、小さな木の板が提げてあった。
板には銀の飾り文字で『公認一級療法師』と記されている。
この板を見るたび、ヴェルドは誇らしくなる。『公認一級療法師』なんて、どんなに望んだって、なかなか手に入るものじゃないのだから。
薬草や医療の知識を学び、施療院で助手としての経験を充分に積んだ者の中から、療法師連盟に認められた者だけが、『公認』の看板を掲げ、小さくとも自分一人の責任で開業することを許される。『一級』の位は、公認療法師の中でも上級の腕を持っているという証明である。
ヴェルドは迷わず扉を押した。
札が下がっているのだから、開業中である。フィオンがいることは間違いない。
「フィオン! ごはん持ってきたわよ」
扉を開けて、ヴェルドは中に入った。
「あらヴェルドちゃん、こんにちは」
ちょうど出てくるところだった患者……ヴェルドとも顔なじみの、近所の魚屋のおばさんである……が、にこやかに、腰を屈めた。
「こんにちは、おばさん。おかげんはいかが?」
「おかげさまで。先生なら、ちょうど患者さんがとぎれて暇になられたところだよ。じゃあ、あたしはこれで。よかったらうちの店にも帰りにでも寄っておくれね」
「ごきげんよう、おばさん。帰りにはきっと寄るわ」
おばさんの言葉通り、入口の近くに置かれた待合用の椅子には、治療を待っている患者の姿はなかった。
「ごはん持ってきたわよー」
待合と施療室を区切る衝立ごしに声をかける。すぐに返事があった。
「ああ、今いくよ」
手提げ籠を待合のテーブルに置いて、ヴェルドは施療室兼用の、フィオンが寝起きしている部屋に入っていった。
患者が十人も入れば手狭になってしまいそうな一部屋である。
冬の暖房と食べ物の煮炊きのために壁に造りつけてある暖炉の前には山ほどの薪の束が用意してある。
部屋には書物の山と、治療に用いる備品の他にはほとんど何もない。
フィオンが考案した燻蒸療法で用いる金属製のたらい。
患者の身体にかける布と、椅子。
乾かした薬草の束と精油の小瓶を並べて置いた薬戸棚。
全て、清潔で機能的ではあるけれども、無味乾燥、という言葉がぴったりきそうだ。
花瓶に花でも活けてあったり、壁に絵を飾ったりということもない。
彩りといえば、たった一つ。
壁際に置かれた鉄製のベッドを覆っている、キルト……布の端切れを伝統的な幾何学文様に綴り合わせて大きな一枚の布に仕立てる手法で作られたベッドカバーだけが、赤や桃色、黄色などの華やかな色を部屋に持ち込んでいた。
これは、ヴェルドのお手製だ。
生まれて初めて作ったキルトで、ベッドカバー。
フィオンは十四歳で公認療法師となり、部屋を借りて開業した。
そのとき、独立のお祝いにと、ヴェルドが母に教わりながら半月がかりで縫い上げたものである。
開業の日に間に合うように内緒で作って贈ったのを、フィオンは驚き、喜んで大切に使ってくれている。
フィオンは身の回りのことに構いつけない質だったから、放っておくと仕事や勉強に夢中になって寝食も忘れて打ち込んでいそうで、ヴェルドは心配でたまらなくて、よくこの部屋を訪れては料理を差し入れたりしてきたのだった。
懐かしく思いながら、ヴェルドはベッドカバーの縫い目を見ていた。
「どうしたんだい」
フィオンが施療器具の片付けを終えて出てくる。
焚いていた薬草の香りが、フィオンにまとわりついている。
爽やかで、ほのかに暖かい。身体にはよい香りで、ヴェルドも気に入っていた。
「うん。あたしが贈ったベッドカバー、まだ持っていてくれたんだね。よく見ると、ほら、ここのとことか、縫い目がガタガタなの。生まれて初めて縫ったのよ」
「ありがとう。とても嬉しかったんだ。部屋が明るくなって、それに暖かくて肌触りが良くて、重宝してる。大事にしてるんだ」
「えへへ。嬉しいなあ! 作ってよかった。恥ずかしいけど」
「恥ずかしくなんか! すごく丁寧に縫ってあるよ。慣れたらもっともっとうまくなる」
手放しで褒めるフィオンに、ヴエルドは照れくさそうに、頬を染めた。
「あっそうだ、母さまから、差し入れ持ってきたの」
ヴェルドは手籠から鍋を取り出した。
「いい匂いだ。おなかがすいてきたよ。いっぱい食べれそう」
フィオンは笑う。
けれどそんなときでも、表情にはどこか陰りがある気が、ヴェルドにはしていた。
「フィオン……姉さま。ねえ、どこへも行かない、わよね?」
ふいにわけもなく不安にかられてヴェルドはぼそりと言った。
「急にどうしたの。ぼくはどこへも行かないよ。ずっとここに、ヴェルドと父さま、母さまのいる街に、いるよ。患者さんも来てくれてるし」
「……そう、よね。あたしどうかしてる……」
「ほんとにどこへも行かないよ」
フィオンはヴェルドより背が高いけれど、華奢な印象を与える。
美しい、存在だった。
抜けるように白い肌、整った面差しは透明感があり、少年のようにも少女のようにも思え、また、どちらにもあてはまらなかった。
十七歳という年頃にしては、不思議なほどに落ち着きがあり、そのためにずいぶん大人びた雰囲気を漂わせている。
窓辺の日差しに淡く光る金髪は、首筋にかからないくらいの長さ。
冬の空を思わせる、つめたく感じるほどに澄んだ青い瞳には、フィオンを見上げるヴェルドの、困惑した顔が映っていた。
「ねえねえ! 今日はこのまま一緒に家へ帰りましょうよ! そうよそれがいいわ。だって、確か明日はお仕事休みの日でしょ?」
「えっ?」
「いやなの?」
「そんなことないよ! むしろ厚かましいかなって」
「遠慮なの? そんなの気にしないでいいんだからねっ」
ヴェルドに押し切られる形で、この日の夜、フィオンはしばらくぶりの家に帰ることになった。