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第1章 その2 ヴェルドという少女

              2


 ソフィア精霊会の聖地、精霊宮を擁する都市、レイオニア。

 この地方最大の都市であるレイオニアの郊外では、農夫たちが忙しく働いていた。


 馬に鋤を曳かせて土を掘り起こしながら、藁帽子を被った農家の婦人が言う。

「この間の地震はすごかったねえ。ここらもずいぶん揺れたもの」

「ああ、北のほうの街に大変な被害が出たって」

「地震か。妙な光やら雲が見えたって言う者もいたがね、何だったやら」

 傍らにいて、掘り返された畑に畝を立てていた農夫が答えた。

「律皇さまが遠征隊を派遣なさったそうな。遠くの街だのに」

 すると、一緒に作業をしていた人々が、一斉に話に加わってきた。

 人々の関心の高いできごとだったのだ。

「噂だけど遠征隊は、その街に入れなかったっていうんだよ。森や山に囲まれたところでね、林道がどこもかしこも土砂崩れで埋まってて、今、懸命に掘ってるんだってよ。妹の亭主が遠征隊にいるからね、人員交代で戻ってきて、教えてくれたんだ」

「そりゃあ大変だ」

 農夫は作業の手を止め、馬の首を撫でてやった。


「そのうち、ここにも難民が流れてくるんじゃないかねえ」

「大丈夫、このレイオニアには仕事がたくさんあるさ」

 明るい日差しが、働く農夫たちの上に降り注いでいた。



 昼下がりの、レイオニア。

 十六歳のヴェルド・カウシマは、弾むような足取りで、石畳の敷かれた下町の通りを歩いていた。

 栗色の長い髪が風になびく。

 膝丈の服の裾からのぞく、すらりと伸びた足も、半袖から突き出している腕も、健康的に日に焼けている。

 くっきりとした眉と、大きな栗色の目が印象に残る。

 少女らしいあどけなさと、大人になりかけの繊細さが同居する、微妙な年頃。

 はっきりと、美少女である。

 明るく人好きのする容貌、愛想の良い快活な笑顔だけれど、身なりはよく、身に纏っているものは都でも限られた階級にしか手に入らない高級な服や靴である。下町生まれの娘というわけではなかった。


 ヴェルドは右手に手提げの籠を持っていて、傾けないように気をつけていた。

 籠の中には、温かい汁物の入った鍋を入れているからだ。

 肉や魚、野菜、惣菜などを扱う小さな店が立ち並ぶ商店街。

 人々はゆったりと買い物をし、お喋りに興じている。客も近所に住む馴染み客がほとんどだ。

 肉屋の店先で、恰幅のいい中年の女主人ムーラと、銀髪の、野菜売りのフェーン婆が、立ち話をしていた。

「……へえ、昨日が『証見しょうけん』だったのかい。あんたんとこの坊やも、もうそんな歳になったんだねえ。やっぱり『石のしょう』だったんだろう?」

「そうなんだよ。神官さまには進学を勧められたんだけど、あの子は進学しない、うちの店を継ぐっていうんだ。だから『証』はあるけど、いっそ閉じちまおうかって話し合ってるんだよ、フェーンおばさん」

「なんだね、もったいない。あたしなら、開かせるよ。大人になっちまってからやり直そうと思っても、そうはできないもんだからね」

「実はねえ、迷ってるんだよ。証を開けば『言』(ことば)を使えるようになるかっていうと、何年もしっかり勉強しなくちゃ一人前になるまでにはいかないよね。うちの息子はあんまり勉強は得意じゃないから、どんなもんかと思ってねえ」

 女主人のほうが野菜売りのフェーン婆に相談をしている様子だ。


「こんにちは、フェーンおばさん、ムーラおばさん」

 ヴェルドは明るく二人に声をかけた。


「こんにちは、ヴェルドお嬢ちゃん」

 肉屋のムーラは、四十半ばの血色のいい大柄な女だ。影のうすい亭主をそっちのけで、店の仕事に打ち込んでいる。

 七十歳にじき手が届くフェーンは、毎朝、郊外からやってきて野菜を売り歩いている。

 ヴェルドの家であるカウシマ家も、その得意先の一つだった。都でも有数の名家であり、それでありながら下々の者にも分け隔てなく接するところから下町の口さがない者たちからも評判がよかった。


 フェーン婆さんの足元には銀柳の若枝で編んだ背負い籠が置かれ、中は空っぽだった。いつものように昼前には野菜を届け終えてしまって、お喋りを楽しんでいたのだ。

 フェーンおばさん、と呼ばないと機嫌が悪くなることを除けば、物知りで面倒見のいい老婆だった。

「おや、手籠からいいにおいがするね」

 ムーラが鼻を効かせた。

「さてはフィオン先生のとこに行くのかね。中身はお母さんの手料理かい」

 ヴェルドの手に提げた籠を見やる。

「そうよ」

 ヴェルドは籠の中を見せる。

 綿のふきんに包まれたものは麦の全粒粉に植物の種を混ぜて焼いた小さな丸いパンと、汁物の入った琺瑯引きの小型両手鍋、天火で焼いたイモ。

「おいしそうだねえ。カウシマの奥様は料理上手さね」

 ごくりとムーラが喉を鳴らした。

「そうでしょ。お母様の煮物はフィオンも好きだから食べてくれるかもって。あの人は、放っとくと、ごはん食べるの忘れちゃうんだもん」

「ふふふ。そういうとこが、あの人の面白いところだねえ」

 フェーン婆は楽しそうに笑った。

「気さくで優しい人だけど、フィオン先生はどっか浮き世離れしてらっしゃる。本当の話、今頃は昼飯を食べるのも忘れて本を読んでるかもしれないさね」

「そうそう。きっとお腹をすかせていらっしゃるよ。何か夢中になると食事のことなんて忘れちまって、気がついたら腹ぺこって具合さ」

 ムーラも楽しげに笑う。


 フィオンは薬草や精油を用いて、身体の不調を治してくれる、腕のいい療法師で、近所の人々に感謝と親しみを持たれていた。


「じゃあ、あたしそろそろ行くね、おばさんたち。温かいうちに届けたいから」

「フィオン先生によろしくねえ」

 ヴェルドは二人と別れて、さらに下町のほうへ足を向けた。


「あの子も娘さんらしくなってきたね。この都でも名高い良家のお嬢さんなんだけどねえ。赤ん坊の頃から知ってるけどいい子さ。あたしら下々の者にも気さくに話しかけてくれるよね」

「それにフィオン先生もね。ほんとにいい先生にあたったよ、この街区は」

 後に残ったフェーン婆とムーラは、世間話を続けていた。


「フィオン先生も、かわいい妹のヴェルドちゃんのことを気に掛けておられるもの。いつも訪ねてくるのを待ち遠しそうだものね」

「そうそう。あのぶんだと、ヴェルドちゃんに彼氏とかできたら大変だろうねえ」

「気に入らなければすぐに殴って叩きだしそうだよね」

「ああ……フィオン先生も細っこいけど、それくらいやりかねないね」

「ほんとに妹大好きだよ、あの先生は」

「下町に施療院を開いてくれたのはありがたいけど、よくカウシマ家が家を出る許可をしたものだねえ」

「旦那様も奥様も、慈悲深い方々だからねえ」

 フェーン婆とムーラに、通りかかった近くの商店のおかみさんたちまで加わって、話はいつまでも楽しげに弾んでいた。





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