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第1章 その1 深空より

              1


 この世界には、久遠の昔、一つづきの地であったという伝説を持つ、東と西に分かれた大陸がある。

 この二つの間には、まるで大きな丸い穴が開いたかのように、上空から見れば円形の淵を持つ、底知れぬ深い海溝があるために、東西は分断され、大陸間の交流はほとんど行われていなかった。


 西大陸で最も信仰を集めているソフィア精霊会の聖地がある都市、レイオニア。

 この都市は大陸のほぼ中央に位置する。

 レイオニアの遙か北に、カツァリダという街があった。

 近くには丘陵地があり、広大な森林がカツァリダを取り巻いている。

 林業と牧畜で栄えるこのカツァリダに異変が起こったのは、吹く風に爽やかな緑の香りが混じりはじめた、若葉の頃だった。


 カツァリダの街から山一つ離れた丘陵地帯。

 岩山がごつごつと盛り上がり、その間に、まばらに草が生えている。

 柔らかそうな草葉を、群れなす羊たちがゆっくりと食んでいた。

「リノンー!」

 小さな四角い包みを持った少女が駆け上がってくる。

「ねえちゃん」

 退屈そうに草地に寝ころがっていた少年は、跳ね起きて、力いっぱい手を振る。

 七歳の彼、リノンは遊牧民である。

 遊牧民たちは毎年、夏の先触れのように決まって同じ時期にこの丘陵地帯を訪れて天幕を張り、そこを夏の村と呼んでいる。


 リノンは村人たちが飼っている羊のうち百頭の世話を引き受けていて、毎朝、羊たちを連れて丘陵に登る。

 昼になると六つ年上の姉のラーナが弁当を持って上がってくる。

 姉は指笛を吹いて羊たちをいったん集め、数を数えてからまた丘に放つのだった。

「リノン、呑気に寝てたら羊が逃げちゃうでしょ」

「ちゃんと番をしてるよ。さっきはちょっと居眠りしただけだよう」

「ちょっとの油断が大変なことになるのよ」

 ラーナは指笛で羊たちを集めて数え終わると弁当を広げた。

 リノンは木の実入りのパンとチーズを口いっぱいに頬張った。

「おいしい?」

「うん!」

 満面の笑みで答え、リノンは姉を嬉しそうに見上げる。

「それにしてもさ、おねえちゃんの指笛、すごいなー」

「これくらい、あんたもコツさえつかんだら、羊なんて、どこにいても一吹きで寄ってくるわよ。覚えなさい。学校に通うようになっても役に立つわ」

「えー。おねえちゃんは特別だよ、おれは、ふつうの羊飼いでいいんだ」

「なに言ってるの。リノンには、あたしと違って『赤印』(せきいん)があるんだから。九歳になって『証』(しょう)がはっきりしたら、ちゃんとした先生につくか、素質を伸ばせる学校に行くか、しなくちゃいけないのよ。それが国の決まりなんだからね!」

「はぁい」

 議論になれば弟は姉にかなうわけがない。早々と降参する。

「わかったよ。じゃあ、教えてよ指笛」

「そうね。ごはん食べたらね」

 ひとしきり、弟は指笛に挑戦していたが、どうしても思うように音が出ない。

「ちぇーっ」

「まだ始めたばかりだもの。根気強くやりましょう。……で、どうなの、今日はなにか、面白いことあった?」

 リノンの横に座って、ラーナは真っ赤な頬をぷにっとつまんだ。

「おねえちゃん……そんなに、変わったことなんてそうそう起こるわけないよ」

 呆れたようにリノンが答えたそのとき。

「あらっ、あれなに」

 ラーナが空を見上げた。


 目も眩む銀色の光が長い尾を曳いて上空を斜めに流れた。


 初めは流星かとラーナは思った。昼間であっても見える流星もある。だが、それは通常の流星よりも桁違いに巨大なものだった。


「まぶしいっ……」

 光をまともに見てしまった二人は、目が眩んで何も見えなくなった。

 少し遅れて、雷鳴のような轟音があたりに響きわたった。

 巨大な銀色の火球が、筋雲を切り裂きながら落ちていく。

 その真下にある、カツァリダの街をめがけて。



 何が起こったのかわからなかった。

 続いて襲ってきたのは凄まじい圧力を伴った熱波。喉が焼けるように痛んで、ラーナは夢中でリノンを抱えて地面に伏した。

 地鳴りと雷鳴がいちどきにやってきたような凄まじい音と地響きがして、二人の身体の下で地面が波うった。

 全ての音が途絶えた。

 実の所、ラーナとリノンの耳は一時的に聞こえなくなっていたのだ。


 十分、三十分、いや、どれほどの時が過ぎただろう。

 激しい風の音がラーナの耳を打った。

「今のはなんだったの」

 ラーナは起き上がり、周囲をうかがった。

 丘陵の頂きからは、カツァリダの街が……いや、街があった場所が、見渡せた。

 リノンもラーナも、目にしたものを受け入れられなかった。

 そこここで崖が崩れ、赤土の地肌を剥きだしている。傷口のようだ。

 焦げ臭さが鼻の奥を刺激した。

 焼け焦げたような黒く太い筋が森を縦断していた。

 その先に見えるはずのカツァリダの街は……


 ない。


 街のあった場所は、穴になっていた。

 上空から巨大な槌に叩きつけられて街が地面にめり込んだかの如く、すり鉢状に陥没していた。そして陥没地を中心にして、森の木々は全て外側に向かって倒れていた。

「なに……これ、なんなの!?」

 身震いがした。行ってはいけないという本能的な警戒警報が鳴り響く。

 だが好奇心が勝つ。ラーナは転げるように丘陵を駆け降りる。

 行く手には白い湯気と真っ黒な煙が、同時に、もうもうと立ちのぼっていた。


「おねえちゃん、待ってよ」

 リノンが数メートル遅れて追いすがる。

 近づこうとしても森の倒木と黒煙に阻まれて見通しが悪く、街は見えない。

「おねえちゃん、何か燃えてるよ」

 リノンが叫んだ。

 何処かで炎のはぜる音がしている。

「山火事かもしれない。空から落ちた火の塊が、山に火をつけたんだわ」

 ラーナはカツァリダの街に近づくのを諦めた。もっと優先する事柄がある。

「火事のことを村へ知らせないと……」

 谷の底に近い、開けた場所に、ラーナの仲間たちの天幕が幾つも張られている。

 水を得るのに便利だからだ。

 けれど火がくるのなら危ない。

 姉弟は手をしっかりと握り合い、谷底へと進路を変えた。


 そこには、何もないように見えた……最初は。




 どうしたのだろう、谷底に水が溜まっているようだ。

 水は、真っ黒だった。


 前方から転げるように逃げてくる、数人の村人たちが見えた。

「うわああああ」

 突然、ラーナから五十メートルの距離まで近づいていた中年の男が絶叫し、恐怖の表情で、自分の足元に目をやる。

 そこには黒い水たまりがあった。

 次の瞬間、中年男の身体は足の下のほうから、ざーっと黒く染まっていった。まるで、黒い水が身体をはい上がっていったように見えた。


「ぎゃあああああ!」

 悲鳴の堰が切れた。

 男の、女の、老人の、子供の、緊迫した怒号と呪いと祈りと絶叫が、谷底に谺してラーナの耳を覆った。

 足下から黒くなっていく人々。みんな倒れて水に沈んで、溶けていく。蟻地獄に落ちた蟻のように誰も抜け出せない。

 たくさんの叫びが耳の底でうなって、消える。

 誰の声も聞こえない。

 意味のない音しか入ってこない。


 膝ががくがくして、くずおれそうになるけれどかろうじて踏みとどまる。

 自分にはリノンが……弟がいるから。

「お、おねえちゃん、かあちゃんと、とうちゃんは」

「前に出ないで」

 リノンの声は聞こえた。

 ラーナは弟をスカートの後ろに隠す。


「お前さんたち何してる」

「逃げろ。逃げないとみんな死ぬ」

 ショックで歩けなくなったと思われる老婆を必死に引きずって走ってくるのは、長老の二人の孫たちだ。

 その老婆は、長老だった。孫に手を引かれ、虚ろな目を空に向けて、身体を硬直させ、何事かをぶつぶつ呟いていた。

「し、深空しんくうから、降りし……黒い精霊……」

「長老? いったい何があったんですか」

 老婆にはラーナの呼びかけた声は届いていないようだった。

「ねえちゃん、しんくうってなに」

 ラーナはその言葉を聞いたことがあった。

 いつかの冬に通っていた学校、その授業で習ったはず、だけど思い出せない。

「どけ、そんなたわごとなんか聞いてる場合じゃ……」

 姉弟の前を横切ろうとした男が、突然、ぴたっと足を止める。

 止めた足先から、黒く染まっていく。

 気がつけば足元にまで、ひたひたと黒い水が押し寄せていた。

「ぐっ、ぎゃあああ!」

 男も長老も、いつの間にか真っ黒になり、うつ伏せになって水に沈んでいた。

 思わずラーナは後ずさりをした。

 足元に迫る黒い水に目を釘付けにしたまま、屈んで、手さぐりで弟の頭を確かめると抱き上げ、くるりと踵を返す。

 弟の頭を胸に押しつけて、ラーナは一目散に駆けだした。

「ねえちゃん、見えない、見えないよ」

 喉が痙攣して返事ができないけれど、ラーナは思う。リノンは見てはいけない。

「かあちゃん、とうちゃんは……」

 リノンの声。胸に抱きしめるリノンの温かみ。他には何もない。ラーナはもう何も考えられなくなっていた。ただ、走りつづけた。

 雨が降りはじめていた。

 その後、三日三晩、雨は降りやまず、崩れた林道は更に地滑りを起こしていた。


              *


 カツァリダの街は無くなっていた。

 街そのものがどこにもない。あるのはすり鉢状の巨大な穴と、木々がなぎ倒された森林と山火事が嘗めていった焼け焦げの黒い痕跡。

 近郊にあった山は地滑りを起こし、赤土の地肌をさらけ出している。


「いったい何がどうなっているんだ」

 調査隊の隊長であるクリシスは目の前にしている光景を信じられないでいた。

 今年三十歳になる彼は、北方で何事が起こったのかを調査するために、レイオニアからはるばる派遣されてきた部隊の隊長だった。

 北の空に浮かんだ不可思議な光、クリシスはそれを目撃した時、未知なるものへの恐怖を感じたのだった。

 できれば自分が行きたくはなかった。それが本音だ。だが、この目で、起こっている事を確かめたい、その思いも強かった。

 レイオニアを発ってからこの地に到達するまで、ほぼ一月を要した。その間に失われた人命も数多くあったろうと思うだに歯がゆい。

 調査隊は、当地に着いてから捜索を開始して一週間、未だ生き残りの人間を見出すことができないでいたのである。

「隊長! こちらに……」

 クリシスを呼ぶ部下の声が挙がり、途切れた。

「どうした?」

 異変を感じ取り急いで部下の元に向かおうとしたクリシスの耳に飛び込んできたのは、

二種類の呼びかけだった。


「こっちへ……早く、早く来て下さい」

「だめだ隊長……来ては……来てはいけない」


 クリシスは、目の前にどろりとした黒い水溜まりがあり、黒い水がひたひたと押し寄せてくるのを見た。


 それが、彼が最後に見た光景だった。





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