第2章 4 儀式の後
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フィオンは夢を見ていた。
自分の居場所はどこにもないのに、どこかにあるのだと思いたくて必死に探している。
そんな夢だった。
……そうだ。どこかに、わたしの部屋がある……はず。
部屋のことをフィオンは思った。
それは、白い、何もない部屋。
形がはっきりしない。ぼんやりと霞がかかったようで……。
そこで、誰かが待っているような気がしていた。
『いいえ、だめなの』
聞き覚えのない、けれどひどく懐かしいような、少女の澄んだ声がした。
『ここは、もう閉じられてしまったから……あなたはこの部屋へは、来ることはできないのだわ……』
*
「フィオンさま。フィオンさま、大丈夫でございますか。ずいぶん、うなされておいででした」
アラーネアが心配そうに覗き込んでいる。
「……夢を。見ていたような……でも、思い出せない……」
寝台に横たわっていたフィオンは呟き、半身を起こした。
「皇女さま、涙が……」
アラーネアがフィオンの頬に布を押し当てる。
「涙……? わからない。おぼえがない……」
ふと、フィオンはアラーネアを見やり、小さく笑う。
「アラーネア、わたしはもう皇女ではないよ」
「あっ……」
女官は息を呑む。フィオンに寄せる態度は、皇女廃嫡という事件の後も変わらず優しい思いやりに溢れていたが、そこに、かすかな憐憫の情が加わったことを、フィオンは感じ取ってしまう。
やるせない。フィオンの胸の底に、澱のように何かが溜まっていく。
背骨のあたりに、じんとする、鈍い痺れが残っていた。
「わたしを、そんなに気に掛けることはないよ。その配慮は、精霊宮の次の主人に向ける
べきだろう。……もう行くがよい」
「フィオンさま、わたくしは」
「お行き。朝のお祈りのために起こしにきたのだろう? わたしは一人で身支度を整えて行く。それぐらいはできるよ。……さあ、こんなところに長居してはいけない……」
アラネーアはフィオンの居室を出て、振り返り、涙ぐんだ。
「おいたわしい。あんなに律皇さまに愛されていらした皇女さまが……」
*
十一歳の儀式から、全ては変わった。
精霊宮を追い出すと言われたわけではなかった。
けれど、周囲の人の心は以前と同じではない。
何をしてもどこにいても、フィオンは同情と好奇の態度に晒され続けた。
フィオンはもう皇女ではない。
死んだと公表された身の上、精霊宮に住むことをお情けで許されているだけで、何者でもないのである。
少し前まで自分をちらほやしていた女官たちが、うって変わって冷たい態度をとったのであれば、まだ納得できたけれど、そうではなかった。
遠くから憐れみに満ちた眼差しで見やっては仲間同士でひそひそ噂をしている。それでいて腫れ物にさわるようにフィオンを扱った。
だが、もっともフィオンを傷つけたのは、フェネストラであったかもしれない。
前は自分のものだった庭に、フィオンはうっかり足を向けてしまって、間の悪いことにフェネストラと顔を合わせてしまった事があった。
フィオンに似て、金髪で青い目、華奢な所のある美しい少年、フェネストラ。
彼は穏やかで心の優しい少年だった。気まずさに慌てて逃げようとしたフィオンを引き止め、傍らにあった『海の雫』と呼ばれるロスマリノスの常緑の小枝をとっさに採って、彼女に差し出した。
胸のすく香りが立った。
この香りをフィオンが大好きなことを、フェネストラは知っていたのだろうか。
「フィオン、ごめんね。ぼくがきみの庭を取ったみたいになってしまって……」
「いいよ、気にしてない」
フィオンは無理に笑ってみせる。
「これは律王さまのお決めになられたこと。わたしの意思でもないしあなたの意思でもない、運命なのだから」
「……ぼくは」
フェネストラは言葉に詰まった。
大好きな従姉妹から全てを奪ったのは自分ではない、だが、その跡に、律王の後継者にと指名されてしまったのは自分なのだと、認めざるを得ない。それは辛いことだった。
「……ぼく、きっと、君のぶんまで、庭を大切にするよ」
人を思いやるように優しく、穏やかで爽やかな声で、フェネストラは言った。
心身共に健やかな、理想的な律皇になるであろう少年。
庭だけではない。かつて皇女フィオンが所有していたものは全て、彼女から奪い去られ、かの清らかなる少年に与えられたのだと、フィオンは今更ながらに思い知らされる。
……自分はもう死者なのだ。
フィオンは心の内で呟いた。
この世のどこにも居場所のなき者、許されざる者。
現在、精霊宮に起居しているのは、ここに住む者たちのお目溢しに預かっているだけなのだ。自分は、精霊宮に留まっているだけで、罪なのではないか。
フィオンは苦しかった。
この優しい従兄弟を心置きなく憎めたら、まだ楽なのに。
女官たちに、ことさら気遣われるのも煩わしかった。
やがてフィオンは決意した。
精霊宮を出て行きたいとフィオンが告げたとき、アルギュロスは反対しなかった。むしろ歓迎しているように思えた。
「全ての采配はディオミディアに任せる」
アルギュロスはそう言ったのみで、会見を打ち切り、立ち去ったのだった。
*
十一歳と数カ月のある日。
精霊宮の内庭から外に通じている裏口で、フィオンは、一人の少女に出会った。
栗色の髪と、同じ色の、くりっとした楽しげな目で、にこにこ笑って、フィオンを見上げていた。
健康そうな小麦色の肌をし、すらりとした少女で、フィオンより少し背が低い。
少女の傍らには優しい顔をした中年の男性と女性が佇んでいた。
男性の顔には、見覚えがあった。これまでに何度か、内庭で女官たちと話しているのを見かけたことがある。貴族の誰かだったと思う。
家柄も人柄も、これならフィオンを任せても良いとディオミディアが見込んで、養女の話を持ちかけた、カウシマ家の人々だった。
フィオンは過去を捨て、ただの孤児としてカウシマ家の養女になる。
この家の人々は、事情を全て承知の上でフィオンを受け入れ、他言をしないと誓った。彼らにはその度量も、財力もあった。
そのような条件に沿った家を見つける為に、如何にディオミディアが心を砕き、幾人もの人物を値踏みし、時間と努力を要したことか。その苦労に思いを馳せるゆとりは、この当時のフィオンには、無かった。
この世の全てに見放されたように感じていたフィオンには。
「はじめまして、フィオンさま。あたしはヴェルドといいます」
少女はこのうえなく幸せそうな、満面の笑みを浮かべた。
「ああ嬉しい! あたしずーっと、お姉さんがいたらいいなって思ってたの。その人が、こんなに素敵な人だなんて、とっても幸せ!」
ヴェルドは両手を差し伸べて、フィオンの手を握った。
温かい、とても柔らかくて温かい手のひらが、フィオンの冷たい手を包み込んだ。
「はじめまして」
フィオンは戸惑いつつ微笑んだ。
自分が、まだ笑顔になれるということに、我ながら驚いていた。
心の中の氷が、そのとき確かに、少しだけ緩んだ。
「さま、は、いやだな。フィオンと呼んでくれると嬉しい」
「じゃあフィオンって呼ぶわ。だからあたしのこともヴェルドって呼んで」
「ヴェルド」
フィオンはそっと、声に出した。
少女の明るい栗色の髪には艶やかな光の輪が宿り、大きな瞳には自分の姿が映っている。
歳の近い少女と親しく語り合ったことなど、そういえば、これまでの自分には経験のないことだった。
手を触れ合っていると、見つめていると、なんと安らいできて、心の奥底の方から温かくなってくるのだろう。
「あたしたちこれからずっと一緒ね。よろしく、フィオン!」
「……こちらこそ」
フィオンは少しはにかんで答えた。
手に触れる温もりが、嬉しく、いとおしかった。
養父母となるカウシマ家の夫妻は、穏やかに微笑んで、二人の少女を見守っていた。
この中庭のどこかで、ディオミディアがそっと身を潜めて見つめていることなど、フィ
オンには知る由も無かった。




