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第2章 3 悲劇の儀式


              3


「……何が、いけなかったのだろう。いったい何が」

 ディオミディアは茫然として幾度も繰り返し呟いた。


「九つの儀式のときまでは、順調に、植物室の性質をお現しになり、幼印もそのとおりに

形成されていた。悪しきことなど割り込む隙は一分もなかったはず。それが何故」

 ディオミディアの背中を、冷たい汗がつたった。


 今までのことを思い返す。

 フィオンが九歳の儀式までは、全て順調だった。しかし異変は、今日、皇女が十一歳の

『解印』の儀式で起こったのである。


 そもそもレイオニアの人々の身体には、ある年齢に達すると、先祖であるレイオンの人々が持っていた『証』(しょう)が現れる。

 また、現れるものと、そうでないものとがいる。レイオンの血の濃さと関わりがあるかもしれないが、隔世遺伝もあり、血統と『証』の関係は解明されてはいない。


 三歳にして兆候は現れる。

 将来『証』が現れる者には、身体のどこか、自分で見ることはできないような場所に、『赤印』(せきいん)が出る。赤く盛り上がった痣のようなもので、だいたい子供が急にひどく泣きだすのでわかる。


 最初は『赤印』が痛みと熱を持っているので、療法師が薬草をもって処置にあたる。

 一晩で状態は落ちつく。その後は痒くなり、掻こうとして暴れるので、膏薬を張りつけて痒みを鎮める。

 五歳のときが最初の『証見』(しょうけん)の儀式だ。

 赤印の出た子供たちは、地域の寄り合い所にみんなで集まり、一人ずつ呼ばれて祭司に見てもらう。この場合、高位の祭司でなくともよい。


 証には性質により三種類の分類があり、『鉱物室』『植物室』『動物室』に区分されている。『室』とは、ソフィア精霊会大学の探究室である。


 この時点で子供たちは将来、進むことのできる学問の道や、なれる職業について、説明を受ける。『証』は、訓練を積めばいずれ『言』を遣えるようになるかもしれない可能性なのである。

 もっとも『言』など遣わなくともなれる職業も数多くある。

 親と子は、持っている『証』を将来、役立てるかどうかについて話し合う。

 本人が勉強を嫌いだったり、根気のいる訓練を望まない場合など、かえって『証』が邪魔になる場合には、閉じてしまうことができる。

 しかし閉じてしまった証は、外からは、もはや開くことができなくなる。


 七歳では、二度目の『証見』(しょうけん)の儀がある。

 この時点では印は、『幼印』に育っている。本人の向いている性質に、印は形成されていくのだ。多種多様にわたる印がある。


 慣例として、印を人に見せたり比べ合うということはなされない。本人でさえ、自分の印を見ることはないのだ。ただ『証見』をする祭司だけが知ることである。


 九歳のとき最後の『証見』の儀が行われる。

 この頃はもう、証がはっきり形成されているので、確認をするだけである。


 後は十一歳の『解印』の儀式のみ。

 浮き上がって形成された印を開き、証となす。

 この後、証を持つ者は『言』(ことば)の修行に入る。この段階で脱落する者も多い。『言』は、たやすく遣えるようになるわけではないからである。

「……ここまでは順調だったのに」

 ディオミディアは『解印』の儀を思い返した。


 一般の都人は公共の会場で、数人ずつ集まって行う儀式だが、フィオンの場合は、少々特別だった。

 アルギュロスの一人娘だからである。


 皇族の習いとして、フィオンは精霊宮の奥の『本宮』へ向かう。

 証の見極めをする祭司たちと、父と、大臣とが、立会人であった。

 本宮は、レイオンの人々が降り立った場所に立てられた宮だと言われている。

 この儀式の早朝、泉の祭司の長ディオミディアと『水の三姉妹』は、聖なる泉から水をくんで銀の水瓶に入れて本宮に安置する。これは聖なるものの象徴である。


 九歳のときに確認されていた印を開いて証となす儀式に、何の不安も予感も、ディオミディアは抱いていなかった。おそらく水の三姉妹も、アルギュロスも、大臣モルリスも、控えの間で結果を待っている皇族方も同様であった。


              *


 祭壇で燃えている、星と太陽の炎を象徴する蜜蝋の蝋燭に照らされて、小さな寝台で、皇女は眠っていた。

 乾かした薬草に精油をまぜた香が炉にくべられて燃える。

 子供を安らかに眠りにさそう調合である。

 香りは効きすぎて証見の後の目覚めが遅れないよう調整されている。その分量と配合では、大人には影響はほとんどない。

 漂う香の煙に包まれて静かに眠るフィオンの身体にある証を再確認したとき、ディオミディアは目を疑った。

 形成されてしまえば固定され、変わることなどないはずの証。


 フィオンの場合は、三枚の葉が丸く並んでいた、明らかな植物の証だった。


 それが、儀式の最中、ディオミディアや三姉妹が見守る中で、みるみる変化した。

 きれいに形を成した証の周囲に、見たこともない印が出現したのだ。

 しかも、それは凄まじい気を放っていた。

 固唾を呑んで皆が見守るうち、主となる植物の証までが、影響を受けて形を変えはじめた。

 このときディオミディアは四十五歳。

 水の三姉妹に至っては代替わりして間もなく、長姉クレーネが二十三、次女テルマが二十、末妹のリムネーも十七歳と若かった。

 全員が、今まで見たこともなかった証の出現に驚くばかりだった。


「これ、どうなさったのだ、みなのもの」

 大臣モルリスは思わぬ展開に驚き戸惑ってはいるが、この現象の異常さ、重大さには気づいていない。

 一人、律皇アルギュロスだけは何事かに思い当たり、驚愕の表情を浮かべていた。

「……こ、これは……剣と……」

 言いかけて口をつぐむ。

 剣、楯、そして、鎧をあらわす図形が、植物証をとりまいて凄まじい気を放ちながら、強い影響を与えているのである。


 この図形に、アルギュロスは見覚えがあった。


 ……まさか、かつて伝説の皇女アリシャに現れたという、エネルゲイアの証!?


 それは一般の民人には知られていない古い記録にある。

 遠い昔、身を捨てて、深空の彼方から来たりし大いなる災いからレイオニア全土を救ったという皇女アリシャ。

 エネルゲイアの小部屋にその身を明け渡し、存在の全てを代償に捧げた……。


 まさかそれと同じ証が、我が娘に現れるとは!

 アルギュロスの目の前が真っ赤になり、そして暗くなった。

「と、閉じろ!」

 我に返ったとき、アルギュロスは大声で叫んでいた。

「その証を閉じよ、ディオミディア! クレーネ、テルマ、リムネー!」

「ですが律皇さま」

 三姉妹の長姉であるクレーネが、とまどいを隠せずに奏上する。

「せっかくの強い気のある証を、なぜ閉じておしまいになるのですか。見たこともない印ではございましたが、中央の『証』は、はっきりと現れておいででございます」

「その通りでございます、アルギュロスさま」

 ディオミディアは身を震わせた。何やら腰のあたりから痺れるような胸騒ぎと不安が持ち上がってきていた。ディオミディアの持つ証が、何かに反応している。

「黙れ! 私が命ずる。証を閉じよ!」

 アルギュロスは恐ろしい形相で言った。


「陛下、何をおっしゃいますか。この証は閉じてはならぬものでございます。私も、思い出しました。これは……エネルゲイアの」


「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れえええ!」

 今やアルギュロスは絶叫していた。

「私は父だ! そして律皇である。私が閉じよと言ったら閉じるのだ!」


 律皇らしからぬ乱暴な命令に、祭司たちも大臣も呆気に取られていた。


「不完全な証は不吉なのだ! 皇族にあるまじきこと、人心を乱すことである。よき証が現れなかったフィオンは、もはや世継ぎではない!」


 ディオミディアは唖然とし、必死に反論した。

「なんということを、アルギュロスさま! よき証だ、だめな証だなどと、これは、その

ような類のものではございません」


「よいから閉じよ!」

 重ねてアルギュロスは声を張り上げた。

「閉じねば、おまえたちは反逆罪だ!」


「いいえ、陛下。承知できかねます。ご正気ですか? こ、この証は、ただ現れるのではない。皇女さまが、運命に選ばれたお子である証でもあるのですよ。閉じてしまっては、わたしたちの世界は……」

 言いかけて、ディオミディアは悲鳴を飲み込んだ。

 アルギュロスが切羽詰まった形相で睨みつけ、彼女の腕を、痛いほどに掴んだのだ。

「わしには、自分が何を命じておるのか、よくわかっておる。頼む、ディオミディア……頼む。父として頼んでおるのだ!」

「……陛下」

 震えながら後ずさりをしたディオミディアを、テルマが受け止めた。

 ディオミディアは水の三姉妹を、疲れた顔で振り返る。

 寝台に横たわるフィオンを。

 そして、彼女が知っている、アリシャの故事を思う。

「この証を閉じます!」

 ディオミディアは三姉妹に命じた。

「は、はい、精霊の産母さま!」

 三姉妹は床にひれふした。

 まだ眠り続けているフィオンを囲んだのは、ディオミディアと三姉妹であった。

「この証は、四つの精霊エレメントに影響されている……」

 ディオミディアは考え込む。

「中央のエレメントは植物のもの。……制御できぬ、他の三つを閉じます」

「は、はい」

 三姉妹は脅えながらも、このようなことかと推測し納得した。

 正体不明のエレメントを閉じれば、皇女フィオンの証は、どうにかなるのかもしれない。本来の姿に。

「薬草を替えて。この草では効力が弱いわ。もっと香りの強いものを!」

 ディオミディアは矢継ぎ早に命じる。


 新しい、別の薬草と、動物からとれた香料と、水晶が持ってこられる。

 クレーネは鉱物室、テルマは植物室、リムネーは動物室の証を持ち、言を行使することができる。

 汲んであった聖なる泉の水を、三姉妹はかわるがわる銀の杓にすくって身体にかけた。水は三姉妹にとって意識を鮮明に保つための助けであり触媒である。大地の底からわき上がる力が、彼女たちに満ちていく。


「私にも水を」

 ディオミディアは要求して、自らも水を被った。

 彼女たちは、泉の祭司。

 物質と言を組み合わせることにより、与える効果も刻一刻と変化していく。それに合わせ、効果を計算しつつ、四人は次々と別の材料を香炉に投じ、低い声でことばを呟いた。精霊の力を借り、異なる力を合わせるのである。


「う、うぅ……」

 眠っているフィオンの眉間に、深いしわが刻まれ、苦しげなうめきが漏れてくる。


「……皇女さま、おかわいそうな」

 クレーネが思わず呟くと、フィオンの証の上で光がばちっと音を立てて弾けた。


「ためらうな、続けろ」

 冷たい声でアルギュロスが命じる。

 三つの言が、高く低く、緩やかに、またせわしなく響きわたる。

 一つ、また一つ……

 煙のようなものを立ちのぼらせながら、フィオンの証のまわりの異常な図形が、鋭い音を立てたと思うと薄れて消えていった。

 なんとかその作業を終えると、力尽きてディオミディアと水の三姉妹たちは次々と床に倒れ伏した。


「陛下、これはいったい」

 大臣が駆け寄る。

 立ち尽くしていた律皇が、悲しげな顔で振り返った。

 しかし、それは一瞬のこと、すぐに、いかなるときも動じない律皇アルギュロスの平静な顔に戻った。

「このような不完全な証の者に、律皇は継がせられぬ!」


「し、しかし、控えの間にいらっしゃるご親族の方々に、結果をどうお伝えすれば良いの

ですか」

「ありのままだ。不完全な証は、人物として良くないということだ。私の見込み違いで、

フィオンは律皇の跡継ぎとしては失格であったということ」


 大臣は身を震わせた。

「そのような、むごい……フィオンさまに何の落ち度がございましょうか」

「仕方もないことだ」

「いいえ、確かに私などはかつて見たこともない、不思議なものではありましたが、あの証……何やらひどく強い気のある……」

「それ以上は言うな」

 アルギュロスは強い口調で遮った。

「私は文献で見たことがある。あれは不吉な証だ。レイオニアのためにならぬ。良いか、今後は一切、そなたの見たことについては明らかにせぬよう! それが出来ぬと申すならば、そなたはレイオニア全土に対する反逆者と見なす!」

「……仰せの通りに致します」

 アルギュロスの勢いに圧倒され、大臣モルリスは頭を深く垂れた。


              *


 儀式を見届けるために、皇族とそれに準ずる貴族たちの代表は、別室で控えており、結

果を待っていた。


「悪い知らせをもたらさねばならぬ」

 やがて現れたアルギュロスは、開口一番、こう告げた。

「儀は失敗だった。証は開くことのできない不完全なものだった。よって我が娘フィオンは廃嫡とし、皇族から除籍する」

「そんなことがあるのか?」

 人々はざわめいた。

「そんな前例は聞いたことがないぞ」

「国民にそのようなことを発表できぬ。みな、期待して待っておるのだ」


「もちろん、国民の心の乱れは防ぐ必要がある」

 アルギュロスは続けた。

「皇女は死んだと発表し、我が弟であるソフィア精霊会宗主クリューソスの嫡男フェネストラを迎え、律皇の継承者とする」


「待って、おとうさま」

 ディオミディアに付き添われ、フィオンが姿を現した。

「だめなのですか。フィオンが完全な証を持っていなかったからなのですか。でも、フィオンは、それでもがんばりますから……おとうさまのような立派な律皇さまになれるように、努力をしますから」

 目に涙を浮かべて父に懇願する姿は、皇族たちの胸を打った。


「陛下、廃嫡だなどと、そんなことをしなくても」

 こう言ったのは、他ならぬアルギュロスの弟クリューソスだった。

 彼は若い頃からレイオニアの外の街や土地を見て回ってきたのである。それ故、進歩的な考えを持ち、伝統でがんじがらめになることには懐疑的だった。

「フィオンは素晴らしい皇女だ。今どき、古臭いあかしなど身に帯びていなくとも構わない。現に、我が国の民間人の間では、既に証ある者も、なき者も、全ての点におい

て区別などないではないか」

 律皇の後継者に指名された、彼の息子で今年十三歳になるフェネストラは、この場には控えていない。

「黙れ、クリューソス。フィオンは、もう必要ないのだ。証なき皇女が何をなせるものであろうか」

 するとついに、モルリス大臣が耐えきれなくなったように口を開いた。

「証がなかったわけではありません! 私はこの目でフィオンさまの証を見ました。素晴らしく強い気をお持ちでした。ですが陛下が、閉じてしまえとおっしゃって」

 ざわめきが大きくなった。

 アルギュロスは切羽詰まっていた。身体が、握りしめた拳が、がくがくと震えて、膝に力が入らない。

「黙れ! 何を言いだすか!」

 アルギュロスは一喝した。吠えた。

「強い気、そうであったかもしれぬ。だが、不完全な証では、たとえ強い気があろうと、意味はないのだ! フィオンなど役には立たぬ。後継者は、もう決まった。フェネストラのほうが、よりよい律皇になるであろう。それに、やはり女の律皇など! 都市国家とい

うものは男王が治めたほうが落ちつくものなのだ!」


「よせ兄上、いったい何を言ってるのか、わかっているのか?」

 クリューソスがアルギュロスを制した。

 気が違ったのではないかというほどの兄の取り乱しように、困惑を隠せない。

 アルギュロスは追い打ちをかけるようにフィオンに向かって叫んだ。

「おまえはもういらぬ。わたしには、娘など必要ないのだ。精霊宮のどこにも、おまえの居場所などない!」


 フィオンは青ざめ、ぶるぶる震えた。

 しかし声は出なかった。

 ディオミディアが支えていなければ、その場にくず折れていたに違いない。

「皆に命じる!」

 律皇の次の言葉は、更なる追い打ちをフィオンにかけた。


「我が娘の証が不完全だったなどと、都の者らに知られては恥である。このことは、口外無用なり! そうだフィオン、おまえに前に与えた庭は、フェネストラに与える。おまえよりも、よほどきちんと世話してくれるだろう」


「……おとうさま」

 もはや父は以前の父ではない。

 そのことをフィオンは痛烈に思い知らされた。

 優しかった父はもういない。死んだも同然だ。そして自分も同じ。

 なんと自分は無力なのだろう。

 ふっと、意識が遠のいた。





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