湖の妖精
後ろから着いてくる気配に凜鈴は小さく息をついた。
どうやら彼は本当に自分に着いてくるらしい。
「……」
振り返った先、多くの人にもみくちゃにされ、ぶつかりながら、それでも何とか着いて来ている人間の子供に気まぐれなど起こすべきでは無かったと少し前の自分の行動を後悔したとて既に遅い。
「ハァ……」
再び、今度は大きめに、そして何かを諦めた様に息をついた凜鈴は踵を返してもと来た道を戻り、そうして人間の子供……春風の前に立った。
「あ、」
「遅い」
「うわ!?」
凜鈴を見上げ安堵の息を漏らした春風の襟首をヒョイっと掴み上げ、そのまま肩に担いだ。
相手の快適性などは全く考慮されていない俵担ぎである。
そうしてそのままスタスタと歩き出した凜鈴に春風は目を白黒させながらも落ちない様に必死にしがみつくのだった。
「ここからは自分で歩け」
「へ? って、ぅわ!?」
春風が持ち上げられた時と同じ様に乱雑に降ろされたのは、元居た街を出て暫く歩いた所にあった森の入口だ。
「ここは……? って、ちょっと待ってよ!!」
現在地を尋ねる暇も与えずスタスタと森に入って行った凜鈴を春風は慌てて追いかける。
「着いたぞ」
「はぁ、はぁ……」
森に入って二時間程。
最初に辿っていた獣道も遂に無くなり、正に道なき道を進んだその先。
緑生い茂る森の中、その湖は神秘的な美しさを持ってそこに在った。
「うわぁ! 綺麗……」
上がった息を整えた春風が湖に近づこうと一歩踏み出したその襟首を凜鈴がグイッと引っ張った。
「ぅわっ!? な、なに!?」
「無闇に近づこうとするな。魅せられるぞ」
「みせられる?」
自分の言葉に首を傾げた春風に凜鈴が呆れた様に息を吐き出す。
そんな彼女の様子に益々首を傾げた春風。
そんな二人の元に楽しそうな笑い声が届いた。
「ふふふ。うふふふふ。あなたが珍しく気をきかせて"獲物"を連れて来てくれてかと思ったのに、違ったなんて残念だわぁ」
甘く響くその声は湖の方から聞こえて来る。
「な、なに……?」
「ふふふ。怯えちゃってかぁわいい。ねぇ坊や、こっちへおいでなさいな。たぁっぷり可愛がってあげるからぁ」
「……あまりこいつをからかうな、ニクシー」
「あらやだ、怒っちゃやぁよ凜鈴。ちょっとした冗談じゃない」
コロコロと笑ったその声の主は、湖のちょうど真ん中辺りに居た。
そこがまるで普通の地面かの様に、湖の上に立っていたのだ。
白く清潔感のあるワンピースを身に纏い、長く美しい金髪は僅かに届く日の光を浴びて輝いている。
「……」
驚きで声の出ない春風の前に音もなく移動してきたその人物はマジマジと彼を見た後、あらあら、と言葉を漏らした。
「驚いたわぁ。この子ただの人間よ、凜鈴」
「知っている」
「なぁに? 本当に私の獲物を連れて来てくれたのぉ?」
「違う」
「ふぅん。まぁ、別にいいわ。それより、お願いしてた物は手に入ったの?」
「あぁ。だからこうして来ているんだろう」
そう言った凜鈴が一つの小瓶を取り出した。
「うふふふふ。流石ね凜鈴。うれしいわぁ」
「報酬を」
「もう、せっかちさんなんだからぁ。はい、コレね」
小瓶と交換で凜鈴の手に渡されたのはコバルトブルー色に淡く輝く掌サイズの球体だ。
「それ、なに?」
「妖精の御霊だ」
「妖精の御霊?」
「そうよぉ。私達妖精が産まれたその時から大切に大切に磨いて守ってきた物。妖精の魔力が宿った特別な石なのよぉ。それが無いと私達妖精は死んじゃうんだから」
「え!? そんな大切な物を渡しちゃっていいの!?」
「うふふ。いいのよぉ。だって私にはもうコレがあるものぉ」
上機嫌に笑った"ニクシー"と呼ばれた彼女は、凜鈴から渡された小瓶を日の光に翳してウットリと目を細めた。
小瓶の中には赤色の液体が入っている。
「それは何なの?」
「ふふ。うふふふふ。"不死鳥"の生き血よぉ」
「いき、ち……?」
「そうよぉ! 何度も死と再生を繰り返す不死の生き物、不死鳥。ソレの生き血にどんな効果があるか坊や知ってる?」
「……」
「あなたの様なただの人間が飲んだら不老不死を。私の様な妖精が飲んだら何モノにも縛られない自由を手に出来るの!!」
「自由?」
「こいつは"この森の湖の妖精"だ。それ故にこの湖からは離れられない。妖精の中にはこいつの様に居れる場所に縛りがある奴が多く居る。そいつ等にとって何モノにも縛られない自由は憧れであり理想であり夢だ。それを実現出来る唯一の手段が不死鳥の生き血なのだ」
「そうよぉ! これで私は自由なの!! うふふふふ!!」
うっそりと笑ったニクシーが湖の方へと戻って行く。
それを見送る事もせず、凜鈴は背を向けた。
「ねぇ、ねぇ! ねぇってば!!」
「なんだ、騒がしい」
「それ、本当に貰っちゃって良かったの?」
それ、と春風が指差したのは凜鈴が持っている妖精の御霊である。
「いいもなにも、これは報酬だ。貰って当然だし、ニクシー自身が渡したのだから問題ない」
「そうだけど……でも、妖精にはそれが必要なんでしょ? いくら彼女が不死鳥の生き血であの場所から離れられても、彼女が妖精である事には変わりないんじゃ……」
「……」
春風の言葉に歩みを止めた凜鈴が振り返った。
僅かな日の光しか届かない薄暗い森の中で、彼女の金の瞳とその手の中にあるコバルトブルーだけが嫌にはっきりと浮かんでいた。
「考えてもみろ、小僧。不死鳥の生き血を啜った妖精はもはや妖精ではない。他種の血を取り込み、それを自身の糧として元々の理すらもねじ曲げた存在はただの"化け物"だ。そんなモノの行く末に御霊が必要と思うか?」
「そんな……それじゃああなたは最初からあの人がどうなってしまうか分かってて不死鳥の生き血を渡したの!? どうしてそんな事!!」
「それが彼女からの依頼だからだ」
「いらい?」
「そうだ依頼だ。不死鳥の生き血を採って来る事が依頼で、彼女が持つ妖精の御霊がその報酬。利害の一致が認められ、契約に基づいて行使された純然たる取引だ。私はそれに従い不死鳥の生き血を採って来て彼女へと渡し、彼女は報酬として妖精の御霊を渡した。それだけの事よ」
「でも、それで彼女は……どうして危険だって分かってるのに渡したの? ちゃんと言ってあげたらよかったのに!」
「それは私の預かり知らぬところよ。私と彼女の関係は依頼人であり、請負人であるというだけ。それ以上の関係が無いのに善人面して彼女の依頼にケチをつけろと言うのか? それは愚か者のする事だ。他者の手を借りたとて、自らが起こした行動の責任は全て自らで負わねばのらぬのだ。例えそれが望んだ結末と違ったとしても、その全ての責は自らにあるのだ」
「でも……」
「それにアイツは全てのリスクを承知の上で私に頼んで来たのだ」
「え?」
「言っただろう。妖精の多くは居れる場所に縛りがあると。だが、不死鳥の生き血を求めるモノは殆ど居ない。それはソコにある危険が分かっているからだ。手に入る自由と、失う何かを天秤に懸け、多くは後者をとる。アイツは前者をとっただけの事」
「何で、そこまでして自由になりたいの?」
「さぁな。私は妖精ではないから分からぬ。だが、分かったところで何も変わらんさ。そういうものだ」
「……」
『そういうもの』と凜鈴は片付けた。
それは春風には到底理解出来ないモノだったが、それでも今の自分にそれをどうこう出来る力が無いということだけは分かっていた。
彼女が世界を見て回れと言ったのは、それをどうにかする力を身につける為なのだ。
総てを自分の糧にするためなのだ。
「次はどこに行くの?」
だから春風はこの紅い竜と共に行くと決めたのだった。