「やりとり」は、なぜ必要か。?
今はSNS時代。
プラスAIの時代。 つまり、意思疎通、コミュニケーションが何よりも大事。 その能力やスキルが不可欠である。 「自閉症の時代」という側面もある?が、それは盾の両面である。 出版社の惹句に「一人の時間を大切に」というのがあるが、一人の時間が濃密で、自分を掘り下げる、瞑想をしてユングの言う「普遍的な無意識」みたいなものを発見していく…トレンドや「言葉」に敏感にアンテナを張って、知性を磨いていく…それは「生きるためのリテラシー」を高めることでもある。
「読書」を個人的な行為というのはだいたいが単なる錯誤というか、情報の交換であって、効率のいい、コスパのいい「授業」のようなもので、著者と(だいたいは人生の先達であるそれなりに明知のある人)との非常に深いやり取りをしているわけwですよね? 読書というのはつまり。
「個人授業」という映画もあったが、マンツーマン、FTFの授業が最も知性を高める、「勉強になる」のも常識か。
「やりとり」というシーケンスを重視したのはかのアリストテレスで、「逍遥学派」というのは「哲学の道」を散歩しつつ対話をして思考力とかいろいろと「脳トレ」?をするのが、アレキサンダー大王の家庭教師でもあったアリストテレスのメソッドだったから。
「学ぶ」ということを、賢人ぽいスタンスの人ほどに称揚する…重要視する、それは普通に発見できる事実である。
孔子も、孟子もそうだ。 孟母三遷ともいう。
「賢くなりたい」そう願うからこその人間。 ホモサピエンス。
自閉症はもちろん病気だから、「ネトゲ廃人」に、誰もなりたいとは思わんが、たとえば香山リカさんという精神科医はゲームを推奨していたと思う…「社会的」であれば「精神が健康」とは一概に言えない。 仮面うつやら過剰適応で無理していて、破綻することもあろうか。
SNSやAIの発達というのは成り行きで運命で、必然でもある…Aトフラーが50年前に予言していた予定調和。
自我の確立は必須で、オトナになるには反抗期に対話を拒絶してゲームに没頭する時期もあっていいでしょうが、精神を成長させて健康を保つにはやはりそういう頑迷固陋な自我を絶えず破壊しつつ刷新するという、そういう作業が必要であり…そういう逆説というかアンビバレントが、精神やら人間やらそういうものにはどうしてもつき纏う。
が、だからこそ、茶道の神髄である「一期一会」、そういう言葉が重みをもつのです…重い自閉症でも生きているうちは矢張り外界と遣り取りはしていて…学び成長し続けていて…健康でさえあれば、きっと「朝」は来る。
僕たちは夢を見ている蛹、かもしれない。




