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琵琶湖

作者: あい太郎

 会社を辞めた夏、俺は滋賀の安いゲストハウスに長逗留していた。

 地元の友人もいなければ、転職先も決まっていない。

 誰にも会いたくなかった。


 琵琶湖の静けさが、そのすべてを包み込んでくれるような気がした。

 湖岸に立つと、波ひとつない水面が、遠い異世界のように鏡のように広がっている。

 昼間でもどこか冷たい風が吹いているのが、この湖の特徴だと、宿の主人は言っていた。


 夜、缶ビールを片手に湖岸を歩いていると、不意に背後から声をかけられた。


「ひとりですか?」


 驚いて振り返ると、白いワンピースの若い女が立っていた。

 二十代半ばか、俺と同い年くらいに見える。

 透き通るような肌に、黒いロングヘア。

 だが、どこか異様な気配があった。——それは、暑いはずの夜に、まったく汗をかいていないこと。


「……はい。観光で」


「じゃあ、案内してあげましょうか」


 女はそう言って笑ったが、冗談とも本気ともつかない口調だった。

 だが俺は、なぜか断れなかった。


「この辺り……昔、処刑場だったんですよ」


 女は足元の砂を指でなぞるようにしながら、平然とそう言った。

 「湖に突き出た小島に、罪人を沈めたんですって。逃げられないから」


「そんな話……地元の人から聞きました?」


 「いいえ。わたし、ずっとここにいるから」


 それが冗談に聞こえなかったのは、彼女の目が、夜の湖と同じように深く沈んでいたからだ。


 その夜から、奇妙なことが起こり始めた。


 最初は夢だった。

 湖の中で目を覚ます。

 水中で呼吸できる自分。

 揺らめく藻の中に、人の顔が浮かぶ。

 ひとつ、またひとつ、じっとこちらを見つめてくる。


 ——「かえして」


 目覚めたとき、俺は汗びっしょりだった。

 それなのに、窓の外の湖から、女の声がした気がした。


「また、会いにきてね」


 翌日、再び湖岸を歩くと、彼女が待っていた。

 まるで、ずっとそこにいたように。

 彼女の名前は「真帆まほ」だという。

 彼女は湖の歴史、地元に伝わる怪異譚を語った。

 湖底に沈んだ村、夜中に鳴る水音、琵琶湖の主——そんな話を、まるで昔の知り合いを語るように話した。


 「あなた、前にもここに来たことありませんか?」


 真帆はふと、そう訊いた。

 「わたし、あなたに似た人を知ってる。名前は違ったけど、顔が……」


 そのとき、湖面がざわめいた。風もないのに、水が立ち上がったように感じた。

 彼女が笑った。


 「もうすぐ、あの人たちも迎えに来るわ」


 俺は恐怖を感じ、早足で宿に戻った。

 だが、その夜も夢を見た。


 今度は、俺が誰かを湖に沈めていた。

 もがく女。顔が見えない。

 だが、その声は真帆のものだった。


「……どうして? こんなに好きだったのに……」


 次の日、宿の主人に真帆のことを尋ねた。

 だが、そんな人は知らないと言う。

 「最近は観光客も減ってるから、女性一人なんて珍しいけどな」


 俺は背筋が凍った。


 あの女は、誰だ?


 その晩、酒に酔って湖岸にふらついた。

 月が琵琶湖の水面を白く染める中、また彼女が現れた。

 今度は服が濡れていた。髪も、足も、まるで水の中から出てきたばかりのようだった。


「どうして来てくれなかったの?」

 真帆は、いつもの優しい声で言った。


「ねえ……あなた、忘れたの? わたしを、沈めたくせに」


 その瞬間、頭に強烈な痛みが走った。

 見知らぬ景色——夜の湖。

 俺はボートに乗っていた。そして、女を押し倒していた。

 ——「誰にも言うな」

 叫び、もがく彼女を、俺は湖に突き落とした。


 ……それは、夢じゃない。記憶だ。


 数年前、大学時代のサークル旅行で訪れたこの場所。

 皆が酔いつぶれたあと、俺はひとりの後輩の女とボートに乗った。

 酒に任せた行為。強引だった。

 彼女は泣いて、拒んで、叫んだ。

 俺は焦って、彼女を湖に落とした。


 誰にも言っていない。

 そのまま、あの事件は「事故」とされ、彼女の遺体は見つからなかった。


「やっと、思い出してくれたんだね」

 真帆が、泣いて笑っていた。

 「やっと、迎えに来てくれた……」


 湖の水が俺の足元を包む。

 気づけば、深さもわからぬほど引き込まれていた。

 真帆が手を差し伸べる。

 その手は、骨ばっていた。皮膚が剥がれ、水草が絡んでいた。


「いっしょに、沈もう。あのときのように」


 俺は叫んだが、声は水に飲まれた。


 翌朝、警察が通報を受けたのは、湖岸に放置された男のサンダルとスマホだった。

 男の名は、◯◯隆弘たかひろ。数日前から宿泊していたが、行方不明になっていた。

 数日後、湖底から女性の白骨死体も発見される。

 DNA鑑定の結果、数年前に行方不明となった大学生、星川真帆と判明。


 だが、男の遺体は、今も見つかっていない。

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