表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/17

第四章 古代パート「霧の奥の火」

――時を超えて。


霧は、その朝も谷を埋めていた。

山々の稜線は曇り空に沈み、川の音だけが耳を打つ。


卑弥呼は、低い丘の上に立っていた。

ここからは、霧の合間に川の筋がうねるのが見えた。

細い流れは盆地を横切り、やがて霧の中の山際に消える。


「川を辿れば狗奴に近づき、道を進めば霧の奥へ入る。」

卑弥呼は静かに言った。

「この地は境界だ。」


「川も道も、境がどこにあるのかわからない。」

和真が応じた。

「春には水が増え、夏には霧が深くなる。人を惑わせるには十分だ。」


卑弥呼は頷いた。

川も霧も、この盆地を守るものであり、また試すものであった。


後ろで足音がした。

振り向くと、台与が立っていた。

まだ幼さの残る顔に、慎重な色が浮かんでいた。


「呼びましたか。」


「いいえ。」

卑弥呼は微笑んだ。

「ここに立ちたかったのでしょう?」


台与は少しうつむいた。

村人たちは、この娘が霧を越える力を持つと噂していた。

だが、その目に映るものは、まだ定まらない。


「この川の先には何があるのか。言葉ではなく、心で感じてみなさい。」

卑弥呼は問いかけた。


台与は霧の奥を見つめた。

流れの先に見えるのは、火の山の影だった。霧島。

赤い息を吐く山は、幼い頃から彼女の夢に現れていた。


「……燃える山があります。」


「そうです。」

「怖いと思いますか。」


「……少し。」


「そうです。だが恐れるだけでは、その先には行けません。」

卑弥呼は目を細めた。

「霧は火の息と交わり、この地を隠す。だが同じだけ、人を引き寄せる力があります。」


和真は川の音に耳を澄ませた。

「狗奴の者は、南から舟で来ると言う。」


「川を伝い、霧を抜けるのは、容易ではない。」


「それが本当なら、この盆地に至るまでに、彼らも多くを失うだろう。」


「けれど来る。」和真が言った。

「それが、国というものだ。」


卑弥呼は台与に目を向けた。

「この霧を恐れてはなりません。いずれおまえにも、その意味が分かるでしょう。」


台与は何も答えなかった。

ただ、霧の奥に揺らめく赤い稜線を見つめていた。


霧は、境界であると同時に、試練だった。

この盆地に集う人々も、霧に隠れ、霧に縛られていた。

──────────────────────────────

谷の向こう、曇った空を背にして、狗奴国の軍議が開かれていた。


卑弥弓呼は焚火の前に座し、小さな木片を指で撫でていた。

それは以前、邪馬台国から贈られた調度の欠片だった。

艶を失った木肌に、過ぎ去った約定の影が残っている。


「かつては、女王の霊威を認め、海と塩を分かち合った。だが、もうあの結界は終わりだ。」


「分かち合っていたのに、なぜ争いになったのですか。」

狗古智卑狗が低く問いかけた。


「塩だ。」

卑弥弓呼は木片を見つめたまま言った。

「山が火を吐き、灰が降り、川が濁り、霧が深くなるたび、女王は塩の道を閉ざした。霊を鎮めるためだと。」


「霊威のために、民を飢えさせたのですか。」


「そうだ。飢えも恐れも、境を守る方便だった。」

卑弥弓呼は短く吐息をこぼした。

「だがもう、塩も霧も、ただの脅しに過ぎない。」


狗古智卑狗は焚火に小枝をくべた。

火はしばらく青い煙を上げ、それから赤く燃えた。


「霧が絶えぬうちに動くのは危うい。」


「だからこそ、今だ。」

卑弥弓呼は立ち上がり、盆地の方角を見やった。

「山の火は衰え、霧は弱まる。霊威の鎖が緩むとき、我らが地を広げる。」


「王は、本当に信じておられるのですか。霧も火も、人の心に過ぎぬと。」


「霧は人を惑わす。だが恐れるばかりでは、境を越えられぬ。」


遠く、霞んだ山際が白く沈んでいた。

霧がこの地を閉ざすのは、きっと長くは続かない。


「川を遡り、山を越え、霧を抜ける。それだけだ。」


「女王は、退かぬでしょう。」


「ならば退かせる。」

焚火が小さく爆ぜた。


火の気配が薄い霧に混じり、冷えた風が刃のように肌を刺した。

狗奴国の兵たちは、沈黙の中でそれぞれに視線を交わした。

彼らが何を恐れ、何を渇望するか、それは言葉にするには脆すぎた。


だが、いずれ霧は晴れる。

そのとき、境は力で決まる。

第四章 了


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ