第三章 古代パート「境界に立つ影」
――時を超えて。
霧が国の輪郭をあいまいにする。
境を覆い、声を呑み込み、地図に引かれた線を無力に変えてゆく。
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狗奴国から戻った難升米が、卑弥呼の前に膝をついて頭を下げた。
その髪に絡む湿った冷気は、山の彼方から運ばれてきたものだ。
「狗奴の王、卑弥弓呼も砦に姿を見せたと噂されています。
王が前線に出たことで、今まで以上に士気が上がっているようです。
今回こそは邪馬台国を滅ぼすと…。
そして――いつもは王の傍にいる狗古智卑狗の姿が見えません。
王の本隊と同規模の別動隊を動かしているという情報も入っていますが、本当のところは分かりません。」
卑弥呼は目を伏せ、短く息を吐いた。
胸の奥が、ひどく冷たかった。
「信頼のもとで動く軍勢は、迷いがない。」
和真がそっと声を落とした。
「だからこそ、恐ろしい。」
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霧の向こうに、あの日の光景が蘇る。
狗奴国の兵は退いた。
邪馬台国は勝った。
だが、村は焼かれ、逃げ遅れた者たちが無残に斬られた。
勝ったはずなのに、何も残らなかった。
「…あの戦も、そうだった。」
和真の声は低く、胸の奥を押しつぶすようだった。
あのとき、焼け跡に膝をついて、泣きながら子どもの亡骸に布をかけた。
あの光景を、二度と見たくはなかった。
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「姉上。…もしまた戦が始まるなら、どうすれば…。」
「分からない。」
卑弥呼は首を振った。
震える手を、膝の上で必死に押さえた。
「民を守ると決めて、この座に就いた。なのに、戦えばまた人が死ぬ。
何を選んでも、答えはないのかもしれない。」
その声は、霧に呑まれるほどか細かった。
「…霧は、時に救いにもなる。」
和真が小さく言った。
視線の先で、外の闇が白く煙っている。
「追っ手から人を隠す。
戦の足跡も、血の跡も。
だが、同時に道を見失わせる。」
「境界を失う。」
卑弥呼はつぶやく。
霧がすべてを隔て、また溶かしてゆく。
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その夜、狗奴国の砦では焚き火が絶えなかった。
狗古智卑狗は立ち上る煙を見つめていた。
背後に控える王、卑弥弓呼は、黙して遠い夜を見つめている。
余計な言葉を口にしない。
その静かな信頼だけが、彼に自由を与えた。
「境を消せば、同じだ。」
呟いた声は、湿った空気に溶けた。
あの戦の夜を、彼も忘れてはいない。
血の海を踏みしめ、恐怖に凍りついた少年の目を見た。
それでも、あの戦いは必要だった。
そう信じるしかなかった。
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夜が更けるほどに、霧は濃くなる。
足元の土がしっとりと濡れ、燈火が明滅するたびに、影が揺れる。
境界を覆い隠すように、白く静かに漂っていた。
霧の向こうでは、まだ誰も知らない決意が芽吹いていた。
第三章 了