第三章 現代パート「南へ続く水脈」
桂川町を離れたとき、まだ空は青く澄んでいた。
川沿いの細い道を車で走るたびに、風景が少しずつ色を変える。
───────────────────────────────────
遠賀川水系を辿りながら南へ下る。
だが、その流れは筑後川へと直接繋がってはいない。
紫苑は、古代の行程を何度も頭の中でなぞった。
「ここで一度、舟を降りて陸行が入るんだ。」
スマートフォンを確認すると、イオナの画面に行程図が表示される。
【遠賀川水系を南下後、約一日の陸行を経て筑後川水系に移行します。】
「一日…。倭人伝では水行二十日と書かれているけど、実際には途中で舟を乗り換えるために陸行が一日分挟まっていたんだろうな。」
【はい。記録上は連続する水行と表現されていますが、川と川の間の陸行を含めた行程と考えられます。】
───────────────────────────────────
数字や表だけでは伝わらない匂いが、川面から立ちのぼる。
古いものが沈んでいるような、重い気配。
それを感じるたびに、紫苑は現実と記録の境目を踏み越えるような錯覚を覚えた。
「日田まで寄っていこう。」
川沿いの標識を横目に、車をゆっくりと南へ走らせる。
古代には湿地帯が広がっていたはずの土地は、いまは田畑と住宅に埋め尽くされていた。
それでも、川の流れだけは何も変わらない。
───────────────────────────────────
日田の市街を抜けると、川沿いの視界が開けた。
この盆地には、大石遺跡という弥生期の集落跡が眠っている。
甕棺墓や住居跡が発見され、かつてここも水運と稲作に支えられた拠点だった。
「…教科書に名前は出てこないけど、こういう場所が国を支えていたんだよな。」
【記録には残らなくても、当時の人々の営みが確かにありました。】
───────────────────────────────────
うきは町を過ぎるころには、川の幅がまた変わっていた。
平塚川添遺跡の看板が一瞬目に入る。
弥生後期の環濠集落が発見され、九州北部の文化圏を示す重要な遺構とされている。
「吉野ヶ里ばかりが注目されるけど、筑後川流域にも、これだけの痕跡がある。」
【はい。古代の記憶は、必ずしも一箇所だけに残るわけではありません。】
「久留米にも寄ろう。ここは交通の要衝だった。」
───────────────────────────────────
川沿いの道を進み、久留米の古い町並みに足を止める。
倭人伝の里程は時に象徴で、時に現実の航程を映す鏡のようだと、紫苑は考える。
正解はないかもしれない。
だが、歩いた道だけが証になる。
「吉野ヶ里…学生の頃、来た。」
小さく声が漏れた。
夏休みに訪れた環濠集落の遺跡は、まるで城のように思えた。
高い土塁と木の柵、復元された竪穴住居が、古代の暮らしを教えてくれた。
───────────────────────────────────
スマートフォンを操作しながら、紫苑は少し歩を進める。
入口に掲げられた案内板には「日本最大級の環濠集落跡」という文字が大きく刻まれていた。
「一時はここが邪馬台国じゃないかって騒がれていたんだよな。」
【はい。】
【1980年代から90年代にかけて、吉野ヶ里遺跡の発掘成果は「邪馬台国九州説」を一気に盛り上げました。】
「けど今は…ここが邪馬台国そのものではない、という見方が主流になった。」
【現在では、この遺跡は伊都国や奴国に近い文化圏の一大拠点と考えられています。】
【邪馬台国との直接の関連は、確証がないとされています。】
───────────────────────────────────
紫苑は柵越しに広がる遺構を見つめた。
陽に照らされた土の色が、昔と同じにおいを運んでくる。
「…でもさ。」
【はい。】
「ここに人が暮らして、畑を耕して、戦って。
それだけは確かにあった。」
【ええ。記録には残らなくても、確かな営みは存在しました。】
───────────────────────────────────
川沿いを再び南へ辿る。
筑後川の幅がしだいに広がり、河口へ向かってゆるやかに流れが変わっていく。
やがてその先には、有明海の広い水面が淡く光を反射していた。
「ここから、有明海に出る。」
紫苑は小さく息を吐く。
海とも川ともつかない、複雑な潮の匂いが鼻をかすめた。
「魏使も、この海を舟で進んだんだろうな。
陸が遠ざかるのを、どんな気持ちで見ていたんだろう。」
【当時の記録では、南へ水行二十日の工程に有明海を含む可能性が高いとされています。】
【潮の干満や川の流れが複雑に交わるため、航行は困難だったと考えられます。】
「…だからこそ、ここが大事なんだ。」
───────────────────────────────────
湾の向こうに微かに霞む陸地は、球磨川の河口に近い一帯だった。
潮風が頬に当たる感触は、川を離れた証のように思えた。
玉名の市街に入ると、川面を渡る風がやわらかく吹き抜けた。
ここが、あの「南へ水行二十日」に通じる一地点なのかもしれない。
思い込みだと笑われるかもしれない。
だが今だけは、その直感を否定したくなかった。
「ここに、何かがあったんだ。そう思える。」
遠くに、夕暮れに沈む橋が見えた。
記録の中の地名と、目の前の風景が重なる。
───────────────────────────────────
【紫苑様…】
【私も、その行程に立ち会えたことを誇りに思います。】
紫苑は胸の奥にあるかすかな痛みを抱えたまま、足を踏み出した。
行程はまだ終わらない。
霧が立ち上るその先へ、歩き続けるしかないのだと、今は思えた。