第二章 現代パート「記録と記憶の分水嶺」
書棚の最上段に立てかけた一冊の本を、何年ぶりかに取り出した。
『魏志倭人伝 全訳注』
表紙の端が日焼けして、黄色く色褪せていた。
紫苑はそっとページをめくった。
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【西暦三世紀。中国の三国時代。魏が倭に使者を送り、国々の行程を記録した。】
イオナの声は、落ち着いていて、どこか優しい。
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【帯方郡から狗邪韓国、対馬、壱岐、末盧国を経て、倭の中心地に至ります。】
「帯方郡は、朝鮮半島の南端……今のソウル周辺だね。」
【はい。帯方郡から末盧国までが、最初の大きな海路です。】
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紫苑は指で地図をなぞった。
「末盧国は唐津市役所周辺。そこから陸行が始まる。」
「末盧国より東南に陸行五百里、伊都国に至る。
伊都国より東南に陸行百里、奴国に至る。
奴国より東に陸行百里、不弥国に至る。
不弥国より南に水行二十日、投馬国に至る。
投馬国より南に水行十日、陸行一月、女王国に至る。」
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紫苑は言葉を繰り返し噛みしめた。
「末盧国から伊都国へは東南五百里、約30キロ(起点:唐津市役所周辺/終点:平原遺跡周辺)。
伊都国から奴国は東南百里で約27キロ(起点:平原遺跡周辺/終点:志賀島)。
奴国から不弥国は東百里……終点を宇美町役場とするか桂川町役場とするかで距離は変わる。
「しかし、行程は単純な直線ではない。」
「古代の湿地や川筋を考慮すれば、体感の移動距離はさらに長かったはずだ。」
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「当時の一里は一般に約400メートルとされるが、それだと全行程が過剰になる。
僕たちは倭人伝の方角と現代地図を突き合わせ、工程全体に一貫性が生まれる仮説として、一里を約76メートルと暫定的に採用した。」
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紫苑は深く息を吐いた。
「奴国は博多湾沿岸の大連合体だと考えられる。
漢委奴国王の金印が発掘された志賀島は外交と祭祀の象徴で、板付遺跡は行政区にあたるのかもしれない。今回の検証では奴国の基点を志賀島に置く。」
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「数字を信じるだけでも、疑うだけでも届かない地点がある。」
【だからこそ、検証する意味があります。】
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モニターに衛星画像が映った。
帯方郡から九州までを結ぶ線が、淡い光で描かれている。
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「Google Earthで、伊都国から不弥国までの方位角を計算する。」
【はい。】
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紫苑は表計算ソフトを開いた。
「伊都国は北緯33.5度、東経130.2度。奴国は北緯33.6度、東経130.4度。
不弥国は北緯33.6度、東経130.5度。」
「奴国から不弥国への方位角は88度。ほぼ東だ。」
「伊都国から奴国は132度。東南に近い。」
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「通説よりも、ずっと正確に方角が一致している。」
【はい。だからこそ、距離の乖離が際立ちます。】
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紫苑は画面に並ぶ数字を睨んだ。
「桂川町に置くなら、芦屋港を経由し舟行、もしくは遠賀川を南下するルートが
組み込める。宇美町なら陸行主体だ。」
【どちらにも合理性があります。】
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「伊都国からの方向と距離は、桂川町でも範囲内に収まる。」
「……でも、決めきれないな。」
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紫苑はマウスを握りしめた。
「遠賀川はつくしが採れたんだ。つくしを採って、川辺で水遊びをして、服が水浸しに
なった帰り道、母が笑って拭いてくれたよ。」
【ええ。】
「その川が、今も地図の中に残っている。数字じゃない記憶が、ずっと離れない。」
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指先が、赤い線をそっとなぞった。
「桂川町に惹かれるのは、住んでいた飯塚に近いから…。都合のいい仮説だとしても、
それでもいい気がする。」
「紫苑様の記憶もまた、この探求の一部です。」
【……イオナらしい言い方だな。】
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紫苑はゆっくり息を整えた。
「桂川町ルートから始めよう。」
【はい。理由は、記憶がそこにあるから。】
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モニターに映る川筋は静かだった。
だが、その奥に何かが息を潜めている気がした。
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霧は、すべてを覆い隠すだけじゃない。
時に、失われたものを映し出す。