第一章 古代パート「霧の国」
――時を超えて。
霧がまだ薄い夜明け、焦げた土の匂いが丘を覆っていた。
ひとつ、またひとつと崩れる家。
崩れた屋根の隙間から、夜の火がまだ赤く灯っている。
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卑弥呼は足元の灰を見つめた。
ここは村のはずれ、半月前まで市が立っていた場所だった。
女や子どもが物を売り、老いた者は縁側に座って空を見ていた。
その賑わいは、今はもうどこにもない。
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「狗奴……。」
呟くと、喉の奥がひりついた。
遠い山の向こうにいる敵の姿は見えない。
けれど、わずかに残る足跡と折れた槍の痕が、この襲撃の証だった。
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ふと、遠い記憶が胸を刺すように蘇る。
あれは幼い頃、まだ女王と呼ばれる前のことだった。
父が治めていた村が、狗奴国の兵に襲われた。
炎が夜空を裂いた。
泣き叫ぶ声があちこちから上がり、走り寄った兵が次々に斬り伏せられた。
小さな子が母の袖を掴んだまま、燃え落ちる屋根の下に消えた。
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あのとき見た光景を、いまも夢に見る。
焼ける家の中で、母が何かを叫んでいた。
声は聞こえない。
ただ、何も守れない自分の無力さだけが残った。
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「終わらぬものなど、ない。」
あの時、父が言った言葉を思い出す。
本当にそうだろうか、と何度も問い直してきた。
だが答えは出なかった。
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背後に足音が近づいてくる。
「……姉上。」
声を聞かなくても、誰かわかっていた。
卑弥呼は振り向かず、しばらく黙っていた。
和真もまた言葉を探しているようだった。
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「人々は恐れています。」
やがて和真が低い声で言った。
「このままでは、国は……。」
卑弥呼は小さく頷いた。
「わかっている。」
声に混じる微かな震えは、あの夜の記憶から続くものだった。
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この国は、長い年月を争いに費やしてきた。
いくつの集落が焼かれ、いくつの血が流れたか。
それでも、まだ足りないとでも言うように、狗奴国は牙を向け続ける。
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「民が欲しいのは、力か。」
卑弥呼は灰を踏みしめ、遠くを見た。
「それとも、恐れに寄り添う声か。」
和真は何も答えなかった。
彼もまた、その答えを持たないのだろう。
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一陣の風が吹いた。
焼け跡の灰が舞い、卑弥呼の衣の裾を撫でた。
視界の端に、膝をつく村の女たちが見えた。
泣きはらした顔で、こちらを見上げていた。
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「……私は、この場に立たねばならぬ。」
声が震えた。
それでも、瞳は揺れなかった。
「この霧が晴れる日は、遠い。」
和真はそっと顔を伏せた。
「姉上……その重荷を、ひとりで背負わないでください。」
卑弥呼は目を閉じ、答えずにいた。
やがてゆっくりと息を吐く。
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「終わらぬものなど、ない。」
それは、自分に言い聞かせるような声だった。
霧が少しずつ濃くなる。
白い幕が焼け跡を覆い隠す。
やがて何もかもが霞んでいく。
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この国は、まだ変わらない。
けれど、いつか必ず変わる。
それだけを信じて、卑弥呼は丘を下りた。
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丘の下で、和真がそっと後を追う。
足元の土が湿っていた。
それが昨夜の雨なのか、それとも誰かの涙なのかは、もうわからなかった。
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――霧はすべてを覆い隠す。
だが、その奥にあるものを知る者は、まだいない。
第一章 了