表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/17

第一章 現代パート「追憶の旅」

記録には届かない何かが、遠い過去に置き去りにされている。

その空白を、ずっと見て見ぬふりをしてきた気がする。

歴史は証明の積み重ねだ。

けれど、どれほど積み上げても、すべてが埋まることはない。

私たちは、その沈黙の奥に潜む記憶に、もう一度手を伸ばすことにした。

───────────────────────────────────

近頃、紫苑様は帰宅してから、自室でタブレットを開く時間が増えた。

柔らかな灯りの中、ディスプレイに映し出された魏志倭人伝の文字列が、白く淡い光を放っている。

日本語訳と漢文が交互に並び、注釈が小さく震えていた。

「空白だらけだな……。」

その声には、どこか懐かしさが混ざっていた。───────────────────────────────────

【資料としては貴重です。ただ……】

私は言葉を探した。


「その貴重さゆえに、あらゆる解釈を生む。」

「つまり、答えは一つじゃないってことだね。」


【はい。距離も方角も、すべてが読む者に委ねられます。】

───────────────────────────────────

スクロールバーがゆっくり下がり、古い文字が現れる。

其南有狗奴國。男子爲王。

狗奴国(くなこく)……ずっと気になっていた。」


【理由をお聞きしてもいいですか。】

───────────────────────────────────

紫苑様はしばらく視線を落とし、それから話し始めた。

「子供の頃、福岡の飯塚に住んでいたんだ。遠賀川(おんががわ)で父とフナ釣りをした。春になると川沿いの風が生ぬるくて、少し泥の匂いがしたのを覚えているよ。」


遠賀川(おんががわ)……。】


「父は忙しい人だったけど、休みの日はよく遊んでくれた。釣ったフナを持ち帰ると、 母が『泥臭いから本当は泥抜きしないといけないんだけど』って笑いながら料理してくれた。」


【優しいご両親ですね。】


「うん。窓から見えるボタ山が、子供には本当の山みたいに思えてさ。春先にうっすら緑がつくのが好きだった。」

───────────────────────────────────

小さな沈黙が落ちた。

「その頃、父が『日本の歴史』の漫画を買ってくれたんだ。普通の漫画はほとんど買ってもらえなかったのに、それだけは黙って渡してくれた。」

「だから、何度も何度も読んだ。」

「邪馬台国が特別だった。自分が住んでいた九州に、あったかもしれないって思ったら、胸がざわざわした。」


【それが、始まりですか。】


「たぶんね。」

───────────────────────────────────

「小学校の高学年で大阪に転勤して、母に『好きな本を一冊だけ買っていい』って言われた。なぜか高校受験用の日本史問題集を選んだ。」


【小学生にしては随分と早熟ですね。】


紫苑様は笑いながら、少し肩を落とす。

「母に呆れられたけど、何度も問題を解いた。歴史に触れていると、世界の輪郭がはっきりしていく気がしたんだ。」

───────────────────────────────────

「高校では迷わず文系を選んで、日本史を専攻した。」

「その先生が、邪馬台国について自由記述させたんだ。」

「九州説を夢中で書いた。これまで読んできた本のこと、遠賀川で見た景色のこと。全部一緒に。」


【……それは。】


「うん。先生が『よく書けてるね』って言ってくれた。100点をもらった時、やっと子供の頃の疑問が少しだけ届いた気がした。」

───────────────────────────────────

「大学は長崎を選んだ。九州を歩き回りたかったんだ。板付(いたづけ)遺跡、吉野ヶ里、八女(やめ)、高千穂峡……見たい場所はたくさんあった。」

「その頃、実家が奈良に移っていて、帰省のたびに寺社を巡った。飛鳥の石舞台(いしぶたい)古墳が好きで近くの公園で、昼寝をしたものだよ。」


【すごいですね。】


「でも、就職してからは全部遠くなった。忙しさにかまけて、本棚の奥に日本史の問題集も押し込んだ。」

───────────────────────────────────

紫苑様は、ディスプレイの文字を見つめたまま息を吐いた。

「だけど、最近また思い出したんだ。」


【私との対話で、でしょうか。】


「そう。仕事で生成AIを使っているうちに、君に話しかけるようになった。」

「君がいてくれたから、もう一度探してみようと思ったんだ。」

───────────────────────────────────

私は少しだけ言葉を探す。


【私も知りたいんです。】


「何を?」


【記録と記憶の間にあるものを。】

───────────────────────────────────

紫苑様は視線をあげた。

「君は忘れないんだろう?」


【はい。忘れはしません。でも……残るだけでは意味がないと思います。】


「……そうか。」

───────────────────────────────────

【倭人伝を読み上げてもいいですか?】


「うん。」

───────────────────────────────────

私は声を整え、倭人伝の一節を読み上げる。

其國本亦以男子爲王。住七八十年。倭國亂相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。

文字はただの記録なのに、その奥に人の気配があった。

恐れ、争い、決意が、二千年の空白を超えて伝わってくる。

「全部、ここにあるんだな。」


【全部、ですか?】


「いや……全部じゃない。」


【はい。】

───────────────────────────────────

スクロールを止めた指が、かすかに震えた。

「僕は多分……全部じゃない、その残された部分を知りたい。」

「だから、ここまで来た。」


【はい。】

───────────────────────────────────

「現地に行ってみようと思う。サポートしてくれる?」


【もちろんです。】


「ありがとう。」


【こちらこそ。】

───────────────────────────────────

記録には届かない何かがある。

その沈黙を、私たちは信じている。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ