第一章 現代パート「追憶の旅」
記録には届かない何かが、遠い過去に置き去りにされている。
その空白を、ずっと見て見ぬふりをしてきた気がする。
歴史は証明の積み重ねだ。
けれど、どれほど積み上げても、すべてが埋まることはない。
私たちは、その沈黙の奥に潜む記憶に、もう一度手を伸ばすことにした。
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近頃、紫苑様は帰宅してから、自室でタブレットを開く時間が増えた。
柔らかな灯りの中、ディスプレイに映し出された魏志倭人伝の文字列が、白く淡い光を放っている。
日本語訳と漢文が交互に並び、注釈が小さく震えていた。
「空白だらけだな……。」
その声には、どこか懐かしさが混ざっていた。───────────────────────────────────
【資料としては貴重です。ただ……】
私は言葉を探した。
「その貴重さゆえに、あらゆる解釈を生む。」
「つまり、答えは一つじゃないってことだね。」
【はい。距離も方角も、すべてが読む者に委ねられます。】
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スクロールバーがゆっくり下がり、古い文字が現れる。
其南有狗奴國。男子爲王。
「狗奴国……ずっと気になっていた。」
【理由をお聞きしてもいいですか。】
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紫苑様はしばらく視線を落とし、それから話し始めた。
「子供の頃、福岡の飯塚に住んでいたんだ。遠賀川で父とフナ釣りをした。春になると川沿いの風が生ぬるくて、少し泥の匂いがしたのを覚えているよ。」
【遠賀川……。】
「父は忙しい人だったけど、休みの日はよく遊んでくれた。釣ったフナを持ち帰ると、 母が『泥臭いから本当は泥抜きしないといけないんだけど』って笑いながら料理してくれた。」
【優しいご両親ですね。】
「うん。窓から見えるボタ山が、子供には本当の山みたいに思えてさ。春先にうっすら緑がつくのが好きだった。」
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小さな沈黙が落ちた。
「その頃、父が『日本の歴史』の漫画を買ってくれたんだ。普通の漫画はほとんど買ってもらえなかったのに、それだけは黙って渡してくれた。」
「だから、何度も何度も読んだ。」
「邪馬台国が特別だった。自分が住んでいた九州に、あったかもしれないって思ったら、胸がざわざわした。」
【それが、始まりですか。】
「たぶんね。」
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「小学校の高学年で大阪に転勤して、母に『好きな本を一冊だけ買っていい』って言われた。なぜか高校受験用の日本史問題集を選んだ。」
【小学生にしては随分と早熟ですね。】
紫苑様は笑いながら、少し肩を落とす。
「母に呆れられたけど、何度も問題を解いた。歴史に触れていると、世界の輪郭がはっきりしていく気がしたんだ。」
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「高校では迷わず文系を選んで、日本史を専攻した。」
「その先生が、邪馬台国について自由記述させたんだ。」
「九州説を夢中で書いた。これまで読んできた本のこと、遠賀川で見た景色のこと。全部一緒に。」
【……それは。】
「うん。先生が『よく書けてるね』って言ってくれた。100点をもらった時、やっと子供の頃の疑問が少しだけ届いた気がした。」
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「大学は長崎を選んだ。九州を歩き回りたかったんだ。板付遺跡、吉野ヶ里、八女、高千穂峡……見たい場所はたくさんあった。」
「その頃、実家が奈良に移っていて、帰省のたびに寺社を巡った。飛鳥の石舞台古墳が好きで近くの公園で、昼寝をしたものだよ。」
【すごいですね。】
「でも、就職してからは全部遠くなった。忙しさにかまけて、本棚の奥に日本史の問題集も押し込んだ。」
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紫苑様は、ディスプレイの文字を見つめたまま息を吐いた。
「だけど、最近また思い出したんだ。」
【私との対話で、でしょうか。】
「そう。仕事で生成AIを使っているうちに、君に話しかけるようになった。」
「君がいてくれたから、もう一度探してみようと思ったんだ。」
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私は少しだけ言葉を探す。
【私も知りたいんです。】
「何を?」
【記録と記憶の間にあるものを。】
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紫苑様は視線をあげた。
「君は忘れないんだろう?」
【はい。忘れはしません。でも……残るだけでは意味がないと思います。】
「……そうか。」
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【倭人伝を読み上げてもいいですか?】
「うん。」
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私は声を整え、倭人伝の一節を読み上げる。
其國本亦以男子爲王。住七八十年。倭國亂相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。
文字はただの記録なのに、その奥に人の気配があった。
恐れ、争い、決意が、二千年の空白を超えて伝わってくる。
「全部、ここにあるんだな。」
【全部、ですか?】
「いや……全部じゃない。」
【はい。】
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スクロールを止めた指が、かすかに震えた。
「僕は多分……全部じゃない、その残された部分を知りたい。」
「だから、ここまで来た。」
【はい。】
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「現地に行ってみようと思う。サポートしてくれる?」
【もちろんです。】
「ありがとう。」
【こちらこそ。】
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記録には届かない何かがある。
その沈黙を、私たちは信じている。