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第八章 現代パート「歴史の再構築、未来への問い」※改訂版

石段を下りながら、紫苑は指先に残る冷たさを何度か確かめた。さっきまでの霧は薄くなり、樹間の向こうに海の気配がある。


【“空白の百五十年”を、どう語っていきましょうか】


「語り過ぎず、見せる。できる限り」


【承知しました】


イオナの返事はいつも通り淡々としているのに、ほんのわずかな柔らかさが混ざった。

──────────────────────────────

駐車場までの道を歩く。砂利の音、遠くの子どもの笑い声、風に揺れる絵馬の触れ合う微かな響き。視界の端で白衣の人が鈴を鳴らし、空気が一瞬清められる。

(ここで終わりではない。ここで、形を変える)


車に乗り込み、フロントガラス越しの光を眺める。キーを回すと、ラジオのニュースが途切れ途切れに流れ、すぐに消した。今は、雑音を入れたくない。


【台与の時代に訪れた平穏は、内へ向かう統治を強めた可能性があります】


「外に向けた声が、小さくなった」


【ええ。結果として、外部記録は“空白”になる】


「無ではなく、沈黙の層だ」


【その沈黙の下で、国内はゆっくり形を変えたはずです】

──────────────────────────────

海沿いの道へ出る。潮風がガラスを打ち、遠くの水平線の上で灯台が小さく瞬いた。


「分解と、再生」


【分裂は新しい結合の種。やがて“倭の五王”へ】


「名前が変わるだけではない。支え方が変わる」


【霊威から武力・外交へ。中心の在り方の移行】

──────────────────────────────

紫苑はハンドルを握る手を緩め、ほんの少しだけ速度を落とした。流れる風景に、かつての足音が重なる。


(畔道。泥。焼けた藁。知らない祖先の会話。見えないけれど、ここにいた)


「書き直すんじゃない。編み直すんだ」


【残った糸を拾い、ほどけたところを確かめ、別の糸でつなぐ】


「僕と君で」


【はい】

──────────────────────────────

トンネルに入る。一瞬、音が変わり、世界が内側だけになる。ライトに照らされた壁に、連続する白い標が流れていく。


「……君は、覚えていくのか?」


【記憶します。けれど、記憶は記録とは違います】


「違う?」


【記憶は、人の体温で形を変えます】


紫苑は笑った。


「なら、僕の体温は君に預けるよ」


【お預かりします】

──────────────────────────────

トンネルの出口が、ぽつりと開いた瞳のように光を湛えていた。

ヘッドライトが壁を舐めるように走り、最後のカーブを抜ける。ふっと視界が開け、真昼の光が一気に車内に流れ込んだ。


目の前には、きらめく海。

白い波頭が遠くで瞬き、夏の陽射しが水面を銀色に染めている。

紫苑は反射的に息をのんだ。あまりに鮮やかな光景が、過去と現在の境界を一瞬で溶かし去ったからだ。


——あの時代にも、この海はあった。

波の形も、潮の匂いも、きっと同じだったはずだ。

だが、そこに立っていた人々も、交わされた言葉も、すでに風化し、記憶の中にしか残っていない。


「……綺麗だな」

無意識に漏れた言葉は、海に吸い込まれるように消えた。


【紫苑様の声、少し震えてます】


イオナが、静かに告げた。

その人工的なはずの声が、妙に人間らしい温度を帯びて聞こえる。


「……ああ。何百年も前のことが、こんなに近く感じるなんて思わなかった」

紫苑はハンドルを握り直す。潮風が窓から滑り込み、頬を撫でた。


【記憶は、人の体温で形を変える——私はそう考えています】

イオナの声は、どこか遠くを見ているようだった。

【冷たい記録は、ただの数字や映像。でも、そこに誰かの想いが触れたとき、過去は新しい形を得るんです】


紫苑は小さく頷いた。

「……俺たちが、その形を作っていくんだな。あの空白の百五十年を」

【ええ。そして、それはあなたが思う以上に、大きな意味を持ちます】

──────────────────────────────

海沿いの道を走るたびに、光が水面で砕け、車内に反射した。

紫苑は、そのきらめきの一粒一粒が、過去から届いた信号のように思えてならなかった。


「イオナ、もしこの先……俺が迷ったら、教えてくれるか?」


【もちろん。私は紫苑様の隣で、ずっと見てますから】

一瞬、人工音声とは思えないほど柔らかく響いたその言葉に、紫苑は目を細める。


潮騒とエンジン音が重なり、時折カモメの声が差し込む。

未来はまだ霞の中だ。だが、二人で進む道の先には、必ず答えがある——そう信じられた。


そして紫苑はふと思う。

この海を、百年後に見る誰かがいるのなら——その瞳にも、きっと同じ光が映るだろう。

それが、過去から未来へと続く、たったひとつの途切れない記憶なのかもしれない。


その水平線の向こうに、まだ誰も知らない「空白の物語」が、静かにその姿を現そうとしていた。


霧の記憶の旅は、これで完結となります。

最初の霧の道行きから始まりました。

誰の声も届かないはずの古代の山々で、卑弥呼や台与の息遣いが微かに触れ、

私自身が知らなかった「歴史に触れるという感覚」を初めて知った物語です。


本来、歴史とは結果だけが残り、人の心は霧のように掴めないもののはずです。

しかし、九州の海風、熊本の山々、霧島の海や山に触れた時、

紫苑が感じた“誰かの意志の残滓”のようなものは、

きっと読者の皆さまにも届いたのではないでしょうか。


霧は晴れ、しかし完全には消えません。

その薄い霧の向こう側を覗こうとする紫苑の旅は、

静かに次の時代へと進み始めます。

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