第七章 古代パート「火を継ぐ巫女、新たなる誓い」※改訂版
~時を超えて~
夜明け前。谷を満たす霧は厚く、焚き残りの炭の匂いが低く漂っていた。
門の前に立つ台与の髪が湿り、額の産毛に小さな露が並ぶ。
「――開け、門を」
短い声。木が軋み、門が押し分けられる。白い気配がどっと流れ込んで足元を撫で、冷たさが足首から膝へ上がっていく。胸の内側で鼓動が速まる。それは恐れではない。内なる火が、乳色の水面に触れて強くなるのを感じていた。
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卑弥呼から授かった短剣を握る。金属の冷たさが掌に馴染むまで、台与は指を少し強く閉じた。隣で和真が槍を立て、兵の列を見渡してうなずく。彼の指の関節が白く、かすかに震えているのを、台与は見ていた。
「台与様、ご指示を」
和真の声が、台与の覚悟を試すように響いた。卑弥呼の代弁者としてではなく、自らの意志でこの戦の指揮を執る。その重みが、短剣の柄を通して伝わってくる。
台与はまっすぐに和真の目を見つめ、静かに答えた。
「この谷は、長く卑弥呼様が護り続けた境。霧は見えない塀となり、敵の目と耳を鈍らせます。だが、境は境でしかない。越えられる、越えさせないのは心と身の置き方次第です」
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遠くで乾いた音が走った。火矢だ。白い帳を切り裂くように赤が滑り、土に突き刺さると、湿った煙が丸く膨らむ。焦げた羽の匂いが鼻を刺し、兵の喉が一斉に鳴った。
「怯むな!」
和真の声が霧を震わせ、足元の泥を踏む音が揃う。
赤銅色の鎧に炎の紋をつけた狗奴国の兵が、霧の向こうから押し寄せる。
盾が擦れ、刃が触れ、金属のきしみが低く続く。
足音は重く、泥がはね、血と土の匂いが混ざった。
台与は霊鏡に指先を置き、短剣を顔の高さに持ち上げた。刃に映る自身の瞳が、霧に淡く揺れる。
「この地を、我らの手で守る。霧も火も、我らのものだ」
声は若いが、芯は強い。列の奥で誰かが小さく笑い、誰かが涙を拭った。
「台与様!」
呼ぶ声に、台与は一歩前へ。霧が衣の裾に縒れてまとわりつく。
先頭の槍が突き出され、狗奴の盾に鈍い音を立てて当たる。押し返す。押し返される。呼吸が短くなり、吐く息が白く弾ける。
「巫女は、この国の未来を背負っている!」
和真の咆哮。槍先が円を描き、敵の刃を払って胸板へ滑り込む。
短い悲鳴と、土に崩れる音。
霧は血の色を奪い、音だけを濃くする。台与は一太刀も無駄にせず、刃の重みを確かめた。重い。だが、握りしめられる。
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そのとき、霧の縫い目が裂けたように、一騎の影が現れた。
狗古智卑狗。
肩に赤布、鋭い眼。馬の鼻息が白く爆ぜ、蹄が泥を叩く。
狗古智卑狗は、馬上で静止すると、まず台与に視線を向けた。
彼は、卑弥呼という強大な存在への畏怖と、それに対峙する自らの無力さへの苛立ちが混じり合っていた。
そして、目の前に立つのが、かの卑弥呼ではなく、たかだか十五にも満たない少女の巫女であることに、彼は戸惑いを覚えていた。
「台与、か……」
彼の声が、戦場の喧騒の中で、奇妙なほどはっきりと響いた。
「まさか、卑弥呼の霊威が、そのような若輩の身に移るとはな。鬼道とは、かくも不確かなものか」
その言葉は、台与を侮辱するものでありながら、どこか彼自身の信仰――力を至上とする狗奴国の価値観――が揺らいでいることを示していた。
「退け!」
和真が前に出る。
槍と剣が交わり、火花が霧の中に散った。
金属音が低く長く響き、双方の膝が滑る。
狗古智卑狗の剣は重く、早い。力でねじ伏せようと、最短距離で和真の急所を狙う。
対する和真の槍は、長く、しなる。力をいなし、流れを変え、一撃必殺の隙を探す。
二人の間で霧が渦になり、刃の風だけが台与の頬をかすめた。
(恐れるな。火は、息と共にある)
卑弥呼の声が、もう聞こえないはずのところから響く。
いや、声ではない。胸の中心に灯った熱そのものだ。
台与は、卑弥呼が最後に託してくれた、この国の火そのものを感じていた。
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台与は短剣を握り直し、足の指で土を掴む。霧が切れ、和真の肩に赤い線が走った。
「和真様!」
一瞬、狗古智卑狗の目が動く。台与は踏み込み、短剣の腹でその剣を払った。鈍い音。重心が傾き、霧が再び濃くなる。
「下がるな!」
和真が立て直し、槍が円を描く。
狗古智卑狗は舌打ちをした。まさか、卑弥呼の霊威に守られているはずの巫女が、自ら刃を振るってくるとは思わなかったのだ。その一瞬の驚きが、彼を後退させた。
霧は境を消す。だが、心の境は消えない。台与は、火のように短く、深く息を吸った。
「我ら邪馬台国は、この霧島の霊威と共に生きてきた。お前たちの力では、決して超えられない」
狗古智卑狗は、その言葉を聞いて嘲笑した。
「霊威だと? 貴様らがすがっているのは、もはや過去の遺物。今、この国を動かすのは、鋼の刃と、それを振るう男たちの力だ!」
彼の言葉は、港湾交易で富を得てきた狗奴国の現実を雄弁に物語っていた。海を通じて外の世界と接してきた彼らにとって、内陸の、霧に閉ざされた邪馬台国の信仰は、もはや時代遅れの迷信に過ぎない。
和真は、その言葉に激しい怒りを覚えた。
「迷信だと? この霧と、この山々が我らを生かしてくれたのだ!」
槍の切っ先が狗古智卑狗の喉元をかすめる。彼は、一瞬の殺意に怯むことなく、剣を振るい、槍を払った。
「……貴様、名を何と申す」
狗古智卑狗は、幾度となく戦場で刃を交えた和真に初めて問いかけた。
台与という新たな巫女の横に立つ、この男こそが、卑弥呼亡き後の邪馬台国を支える「力」だと見抜いたのだ。
「邪馬台国、将、和真」
和真は、台与の盾となるように一歩前に出る。
狗古智卑狗は、その名を聞いて、どこか寂しげな笑みを浮かべた。
「和真か……。良き名だ。だが、貴様らの国は、その霧と共に滅びる」
その言葉を最後に、彼は馬を返し、霧の奥へと姿を消した。
しかしその背中には、和真の槍がつけた浅い傷が、赤い線となって残っていた。
霧は再び濃くなり、何も見えなくなった。残ったのは、血と土の匂い、そして台与と和真の、熱い息だけだった。
やがて、遠い山の向こうから、別の音が聞こえ始めた。それは、争いの音ではなく、新しい風のささやきだった。
第七章 了




