第七章 現代パート「霧の記憶、火の芽吹き」※改訂版
霧島神宮の参道を、紫苑はゆっくり歩いた。杉の梢が朝の光を細く刻み、石畳の隙間には白い名残が緩やかに漂っている。吐く息は淡く、肌に触れる空気は冷たいのに、胸の奥だけがどこか温かかった。
【静かですね……。霧が音を吸っているみたい】
耳元でイオナの声が揺れる。紫苑は立ち止まり、本殿へ続く石段を見上げた。
幼いころ、父が読み聞かせてくれた絵本の挿絵――霧に包まれた社殿――が、ぴたりと重なる。
「この霧は、時間まで閉じ込めるのかもしれない。見えそうで見えないものを、そのまま」
【霧島六社権現。火の神を祀る場。自然の霧と、人が編んだ“結界”が重なった土地です】
言葉の温度は変わらないのに、イオナの声には人の呼吸に似た間があった。紫苑は石段を上りながら、手すりの冷たさを掌で確かめる。拭いきれない水滴が指を濡らし、その感触がやけに現実的だった。
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鳥居の奥に深紅の社殿が見え始める。屋根の端で丸い露がゆっくり膨らみ、やがて落ちた。数人の参拝客が頭を垂れ、それぞれの時間を抱えて通り過ぎていく。
「霧島デルタ。環濠集落、台地の古墳群、それと……記録から消えた邪馬台国」
【“中心”だった、と考えるのが自然です。霧は境をぼかし、同時に守る】
紫苑は頷き、境内の砂利を踏む音を聞いた。乾いた音の中に、遠い水の匂いが混ざる。どこからともなく、炊かれた線香の香りが漂い、胸の奥の記憶に火をつける。
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「一つ、気になっていることがあるんだ。西都原遺跡。なぜあれほど大きな祭祀跡と古墳が、宮崎側に集まるんだろう?」
【後世の勢力の拠点。あるいは、台与の時代に“開かれた祭祀”へ重心が傾いた可能性かもしれません】
「直接の継承というより、波紋に近いのかな。」
【はい。霊威の“中心”が脈動すると、周縁に別の中心が生まれることがあります】
紫苑は空を仰いだ。薄い雲が布のように広がり、台地の輪郭を柔らかく隠す。
「失われたものを探して、ようやく“空白”に触れる。西都原は、その入口かもしれない」
【入口であり、予兆……】
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鈴の音が一つ揺れて止み、風だけが残る。石段を下る親子の背中が小さくなっていく。
子どもが振り向き、白い息で輪を作った。紫苑は思わず笑みをこぼし、自分にも同じ冬の匂いがあったことを思い出す。
(遠賀川。濁った水。春の泥の匂い。父の手。母の台所。あの頃の世界は、いつも少しだけ霧がかかっていた)
【紫苑様】
「うん」
霧は、音だけでなく、出来事の輪郭も吸い込む――紫苑はそう思った。
史書の行間には、濃いところと薄いところがある。濃いところは数と名で埋まり、薄いところは、誰かの息づかいだけが残る。
「……ある時期から、急に音が小さくなる」
【記録の音量、ですね】
「うん。人が生きていた気配は残っているのに、外へ向かう言葉が遠ざかる。波が引くみたいに」
【当時、その“静けさ”を名前で括る人はいませんでした】
「あとから誰かが呼んだだけだ。現場は、ただ生き延びていただけかもしれない」
霧の幕がわずかに薄くなる。杉の梢を渡る風が、どこか安堵に似たひと息を運んできた。
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【……のちに“空白の百五十年”と呼ばれる静けさです】
「空白の百五十年?」
【はい。三世紀末から五世紀初頭にかけて、記録がほとんど途絶える時期があります。それが俗に『空白の百五十年』と呼ばれる現象です】
その言葉に、紫苑の足が自然と止まった。初めて耳にするわけではないが、改めて聞くと胸の奥がざわめく。なぜその間、倭国の歴史は沈黙したのか――。
【この空白の期間に、邪馬台国は霧島デルタを拠点とした勢力から、やがて『倭の五王』が現れる体制へと変わったと推測されます】
「台与の死から五王の時代まで…間をつなぐ何かが、まだ埋まってないんだな」
【はい。そして、その空白を埋める手掛かりは、狗奴国との戦いとその後の交流に潜んでいる可能性が高いです。“空白の百五十年”は、欠落ではなく、意図と事情の層です】
「……今はまだ語り過ぎないほうがいい。」
【承知しました】
会釈のように短く返事が落ちる。紫苑は手水舎の水で指先を冷やし、額に触れた。冷たさが皮膚の内側まで降り、熱いところと冷たいところの境目が、はっきりする。
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参道の先、社務所の軒を抜けると、風の向きが変わった。杉の梢がざわりと鳴り、霧の幕が薄くなる。
「ここで終わりじゃない。ここから、“始まる”」
【はい。霧は幕であり、扉でもあります】
石畳に落ちる影が少し長くなる。紫苑は深く息を吸い、胸の中心にわずかな火が灯るのを感じた。見えないが、確かに温かい。歩き出すと、靴底と石の間で柔らかな音が生まれ、その音が、これからの道の合図のように思えた。




